【3行要約】
・マズローの欲求5段階説は人間行動の原動力を階層的に説明する理論です。
・アブラハム・マズローは生理的欲求から自己実現までを5段階で構成し、「自己超越欲求」という6段階目の存在も示唆しました。
・現代人は自分の本質的な欲求と他者の模倣による欲望を区別し、会社に頼りすぎない自己実現の道を模索することが豊かな人生への鍵となります。
「マズローの欲求5段階説」とは
アメリカの心理学者アブラハム・マズローが提唱した「欲求5段階説」は、人間の欲求を階層的に捉えた心理学理論です。この理論では、人間の欲求が低次のものから高次のものへと、5つの段階を経て満たされていくとされています。
この階層構造はしばしばピラミッドで図示され、人間の行動やモチベーションを理解するための基本的なフレームワークとして、心理学の領域を超えて広く活用されています。
ピラミッドの最も下に位置するのが「生理的欲求」です。これは食事、睡眠、呼吸といった、生命を維持するために不可欠な本能的な欲求を指します。この最も基本的な欲求がある程度満たされて初めて、人間は次の段階の欲求へと意識を向けることができます。
生理的欲求の次に現れるのが「安全の欲求」です。心身ともに健康で、経済的にも安定した環境で安心して暮らしたいという、危険を避け安定性を求める欲求がこれにあたります。現代社会においては、多くの人が意識せずとも満たされている基本的な欲求と言えるでしょう。
この安全が確保されると、人間は次の「社会的欲求」を求め始めます。これは「所属と愛情の欲求」とも呼ばれ、家族や友人、会社といった集団に所属し、仲間との良好な関係を築きたいという欲求です。人間は社会的な存在であり、他者とのつながりの中で安心感を得るため、この欲求が満たされないと孤独感や不安を感じやすくなります。
その上に位置するのが「承認欲求」です。これは、所属する集団の中で他者から価値ある存在として認められたい、尊敬されたいと願う欲求です。仕事での達成感や他者からの評価によって満たされ、自尊心や自信の基盤となります。
そして、これら4つの欲求がすべて満たされた時に、ピラミッドの頂点である「自己実現欲求」が現れます。これは、自分自身の持つ可能性を最大限に引き出し、「自分らしく生きたい」と願う、より高次な欲求です。
戦略コンサルタントの山本大平氏が指摘するように、人間がすんなりと行動できるのは、これらの低次の欲求が順番に満たされている場合であり、特にマネジメントの観点からは、相手がどの欲求段階にいるのかを見極めることが極めて重要になります。
マネージャーに必要な「メンバーがどの欲求段階にいるのか」の見極め
マズローの欲求5段階説は、組織マネジメントにおいて、従業員のモチベーションを理解し、向上させるための実践的な指針となります。特に管理職にとって重要なのは、部下1人ひとりが現在どの欲求の段階にいるのかを的確に見極め、それぞれに応じたアプローチを行うことです。
まず大前提として、従業員の「生理的欲求」と「安全の欲求」は、企業が責任を持って満たすべき基本的な要素です。生存を脅かさない労働環境の確保や、生活を維持できる水準の給与を保証することは、すべての土台となります。
これらの低次の欲求が満たされていない状態で、従業員に高いパフォーマンスや貢献意欲を求めるのは、生物学的に見ても困難です。例えば、過重労働で睡眠時間が確保できていない(生理的欲求が欠如している)部下に対し、「会社の未来のために新しい企画を考えてほしい」(自己実現欲求を刺激する)と要求しても、その言葉は響きにくいでしょう。
これらの基本的な欲求が満たされると、従業員は次に「社会的欲求」を求めます。組織の一員として受け入れられたい、良好な人間関係の中で働きたいという欲求です。上司や同僚との信頼関係が築かれ、チームに自分の居場所があると感じられる環境は、この段階の欲求を満たし、従業員のエンゲージメントを高めます。
その上で、次の「承認欲求」に応えることが重要になります。部下の仕事ぶりや成果を正当に評価し、言葉や態度で承認を示すこと、責任ある仕事を任せること、成長の機会を提供することなどが、この欲求を満たす上で効果的です。承認欲求が満たされることで、従業員は自信を深め、自律的に行動するようになります。
このように、部下の状態は日々変化し、プライベートな出来事によっても欲求の段階は変動します。したがって、マネージャーは1on1ミーティングなどの機会を活用し、部下の「コンディション」を注意深く観察する必要があります。
今、その部下が給与や労働環境に不安を抱えているのか、人間関係に悩んでいるのか、あるいは仕事での達成感を求めているのか。その欲求水準を見極め、適切なコミュニケーションを取ることが、信頼関係を築き、強靭なチームを作るための鍵となるのです。
日本の組織文化で満たされやすい欲求
マズローの欲求階層において、3段階目の「社会的欲求(所属と愛情の欲求)」と4段階目の「承認欲求」は、個人の精神的な満足度を大きく左右する重要な要素です。
日本の組織文化においては、この2つの欲求が会社という共同体を通じて満たされるという特徴的な構造が見られます。
多くの日本企業、特に伝統的な大企業では、「〇〇の会社に勤めている」という事実そのものが、強力な所属意識をもたらします。会社という比較的安定したコミュニティに属している感覚は、社会的欲求を十分に満たしてくれるのです。終身雇用や年功序列といった制度は、かつてこの所属意識をさらに強固なものにしていました。
さらに、社内での昇進、つまり課長や部長といった役職に就くことは、承認欲求を満たすための主要なルートとなります。上司や同僚から評価され、より高い地位を与えられることは、自分の能力や価値が組織に認められた証として機能します。
この「出世」という目標は、多くの会社員にとって仕事のモチベーションとなり、自己実現の1つの形として捉えられてきました。
しかし、
田中靖浩公認会計士事務所所長/作家の田中靖浩氏が指摘するように、この構造には大きな落とし穴が潜んでいます。会社への所属と社内での出世によって社会的欲求と承認欲求が自動的に満たされてしまうと、その先にあるはずの、より個人的で内発的な「自己実現欲求」が意識されにくくなります。
会社の目標達成や組織内での成功が、個人の自己実現と同一視され、本来の「自分は何を成し遂げたいのか」「自分らしく生きるとはどういうことか」という問いが、いわば会社という大きな器の中に溶けて見えなくなってしまうのです。
この状態は、会社に在籍している間は安定しているように見えます。しかし、会社の看板や役職という「他者評価」に自己の価値を全面的に委ねてしまうことは、非常に脆い基盤の上に立っているとも言えます。
定年退職などで会社という所属先を失った瞬間、それまで自分を支えていた所属欲求と承認欲求の源泉が一気になくなり、深刻なアイデンティティの危機に直面するリスクをはらんでいるのです。
定年退職後に起きるアイデンティティの危機
会社という組織に長年所属し、その中での評価や地位によって承認欲求を満たしてきた人々が、定年退職という大きな転機に際して、深刻なアイデンティティの危機に直面することを、
田中靖浩公認会計士事務所所長/作家の田中靖浩氏は「不安五段階説」として提唱しています。マズローのピラミッドが欲求の上昇プロセスを示すのに対し、不安五段階説では、会社という支えを失った人々が陥りがちな、不安が下降していくプロセスを示しています。これは、会社に所属することで満たされていた欲求が、退職と同時に剥奪されることで生じるものです。
このピラミッドの最下層にあるのは「健康不安」です。年齢を重ねるにつれて誰もが直面する身体的な問題や、親の介護といった課題が重くのしかかります。
さらにその上、「金欠」の不安も続きます。退職金や年金だけで、これからの長い人生を安心して暮らしていけるのかという経済的な懸念です。
そして、ここからが特に深刻な問題で、段階目と4段階目には「無所属」と「孤立」という不安が位置します。長年「〇〇会社の部長」といった看板を背負ってきた人にとって、会社という所属先を失うことは、社会的なアイデンティティの喪失に直結するのです。
このように、これまで築いてきた人間関係も会社の業務を通じたものが中心であった場合、社会的欲求と承認欲求の源泉が、一挙に失われ、退職後に深い孤立感に苛まれることになってしまうのです。
定年になったおやじたちは何が不安か? まず一番下の健康不安。50代後半の人間が同窓会で会うと、1次会はだいたい不健康自慢で終わります。肩が痛いの、なんの数値が悪いのと。(中略)
次が金の不安ですね。退職金や年金で暮らしていけるかという不安。
次とその次がめっちゃ重要なんです。三つ目と四つ目の「所属と承認」。日本人の場合、大きい会社に入っていると「所属と承認」が自動的に満たされるんですね。どこどこ株式会社に勤めているという所属と、出世して課長から部長になりましたという承認。
日本人の多くは所属と出世で欲求が満たされて、一番上にあるはずの個人の自己実現が溶けてなくなってるんです。顆粒状になって。お母さんが人参嫌いな子どもに人参を食べさせようと、カレーにすり下ろして入れるみたいなもんですね。ぜんぜん訳わかんないですね(笑)。会社勤めの人は、所属と承認の中に自己実現が溶けてなくなってるんです。
引用:会社に勤めているだけで「自己実現欲」は溶けてなくなる 「自分のパーパス」を持っていない人が定年後に陥る“落とし穴”(ログミーBusiness)
そして、この不安のピラミッドの頂点にあるのが「自己否定」です。「自分はいったい何のために生きてきたのか」「自分とは何者なのか」という根源的な問いに答えを見出せず、これまでの人生そのものを否定的に捉えてしまう状態です。
これを避けるためには、会社に所属しているうちから、会社とは別の「自分のパーパス(存在意義)」を見つけ、それに基づいた活動や人間関係を築いておくことが不可欠と言えるでしょう。