経営戦略と連動する人材戦略を策定する
人的資本経営を成功に導くための第1歩は、人材戦略を経営戦略と完全に連動させることです。人材戦略は、人事部だけで完結する独立した施策であってはならず、企業が目指す中長期的なビジョンや事業目標を達成するための、重要な手段として位置づけられなければなりません。
まず行うべきは、自社の経営戦略を再確認し、その実現のためにどのような人材が必要になるのかを明確に定義することです。
例えば「新規事業を創出し、グローバル市場でのシェアを拡大する」という経営戦略があるならば、そのためには「既存の枠にとらわれない発想力を持つ人材」や「多様な文化背景を持つチームを率いるリーダーシップを持つ人材」が必要といった、具体的な人材像を描き出します。
次に重要なのが「As is-To beギャップの定量把握」、つまり「あるべき人材ポートフォリオ(To be)」と「現状の人材ポートフォリオ(As is)」との間に存在するギャップを、客観的なデータに基づいて可視化することです。
スキルマップやアセスメントツール、従業員サーベイなどを活用し、現在社内にどのようなスキルや能力を持つ人材が、どれくらい存在するのかを把握します。そして、経営戦略の実現に必要な人材像と照らし合わせ、どの領域で、どのような人材が不足しているのか、あるいは過剰なのかを分析します。
このギャップを埋めるための具体的な施策こそが、経営戦略と連動した人材戦略の中核となります。採用計画、育成プログラム、配置転換、サクセッションプランなど、あらゆる人事施策を、このギャップを解消するという目的に向かって設計しましょう。
このプロセスにおいて注意すべきは、情報開示そのものを目的化しないことです。有価証券報告書などで開示が求められているからという理由だけで指標を設定するのではなく、あくまで自社の経営戦略にとって重要な要素は何かを起点に考える必要があります。
また、人的資本経営は人事部だけの仕事ではありません。経営陣が強いリーダーシップを発揮し、各事業部門を巻き込みながら、全社的な課題として取り組むことが不可欠です。経営戦略と人材戦略が一体となって初めて、人的資本の価値を最大化し、持続的な企業価値向上を実現することができるのです。
心理的安全性は人的資本経営の土台
経営戦略と人材戦略を連動させ、必要な人材の育成や採用を進める一方で、それらの人材が持つ能力を最大限に発揮できるような組織環境を整備することも、人的資本経営の重要な要素です。その環境の根幹をなすのが「心理的安全性」です。
心理的安全性とは、組織の中で自分の考えや気持ちを、誰に対してでも安心して発言できる状態を指します。チームの他のメンバーが、自分の発言によって自分を拒絶したり、罰したりしないと信じられることです。
この心理的安全性が確保された組織では、従業員は失敗を恐れずに新しい挑戦をしたり、建設的な意見交換を活発に行ったりすることができます。
人的資本経営の基本的な考え方は、従業員一人ひとりの違いを認め、それぞれの強みや弱みを組み合わせることで、組織全体の力を最大化しようというものです。この考え方を実践する上で、心理的安全性は不可欠な土台となります。
Unipos株式会社 代表取締役社長CEOの田中弦氏は、人的資本経営と心理的安全性の関係について、次のように語っています。
人的資本経営の基礎的な考えとしては、別に誰もが違っていていいんです。だけど「お互いの強いところや弱いところと合わせて、全員の力を合わせて生き残っていこうね」というものなんです。
要は人が資本なので、投資すれば伸びます。今までは人は資源だったので、投資しようが投資しまいが別に伸びない。この考え方がだいぶ違っているんだろうなと思っています。(中略)
「弱みを潰そうとするのではなく、活かして経営していきましょう」と考えるのが人的資本の経営になります。そういう意味では、心理的安全性は人的資本経営の土台だと思いますね。
引用:理想の上司は「叱ってくれる人」から「労いと褒め言葉を忘れない人」に 人的資本経営の土台となる「心理的安全性」のつくり方(ログミーBusiness)
この言葉が示すように、従業員が自身の弱みや失敗を開示し、助けを求めることができる環境がなければ、組織として互いの強みを活かし合うことはできません。ミスを厳しく追及するような文化では、従業員は萎縮し、報告や相談をためらうようになります。
結果として、問題が大きくなるまで表面化せず、組織全体として大きな損失を被る可能性もあります。
心理的安全性の高い組織では、リーダーが自らの失敗談をオープンに語ったり、メンバーの挑戦を称賛したり、どのような意見にも真摯に耳を傾ける姿勢を示したりすることが奨励されます。このような環境があって初めて、従業員は安心して自らの能力を発揮し、組織への貢献意欲を高めることができるのです。
人的資本という「投資」の効果を最大化するためにも、その受け皿となる心理的安全な組織づくりは、経営の最優先課題の一つと言えるでしょう。
どのような「資本」が価値を発揮するかは会社によって違う
人的資本経営を推進するにあたり、極めて重要なのは、「すべての企業に当てはまる唯一絶対の正解は存在しない」という事実を認識することです。経済産業省が示すガイドラインや他社の先進事例は非常に参考になりますが、それらを鵜呑みにするだけでは、自社の持続的な競争優位性を築くことはできません。なぜなら、どのような「人的資本」が企業価値の向上に貢献するかは、その会社が置かれた状況によって異なるからです。
自社独自の人的資本経営のあり方を見出すためには、まず自社に対する深い洞察が不可欠です。この洞察は、大きく「戦略」と「組織」の2つの側面から行う必要があります。
戦略面では、自社が属する業界特有の競争環境や、担っている業務の性質、そして競合他社と比べてどのような点で差別化を図っているのかを分析します。例えば、技術革新が速い業界であれば変化に迅速に対応できる人材が、顧客との長期的な関係構築が重要な業界であれば高い対人能力を持つ人材が、それぞれ価値を発揮するでしょう。
組織面では、まず経営者や経営チームが持つ哲学や思想を深く理解することが重要です。特に中小ベンチャー企業においては、経営陣の価値観が組織文化や求める人材像に色濃く反映されます。
また、現在在籍している社員がどのような特性を持っているのか、組織としてどのような課題を抱えているのかといった現状分析も欠かせません。
これらの戦略と組織に対する深い洞察を踏まえた上で、自社にとって本当に価値のある人的資本とは何かを定義していくプロセスが求められます。
具体的には、次の2つの問いに答えていくことになります。
1. どんな人材を集めるべきか?自社の戦略を推進し、組織文化にフィットするのはどのようなスキル、経験、価値観を持つ人材か。
2. その人材に、どんな行動をしてもらうべきか?資本としての価値を最大限に発揮してもらうために、どのような行動や成果を期待するのか。
この探求を通じて見出された「自社独自の人的資本」の定義こそが、採用、育成、評価といったあらゆる人事施策の羅針盤となります。他社の真似ではない、自社ならではの答えを導き出すこと。それこそが、模倣困難な競争優位性の源泉となるのです。
人的資本経営に伴う人事の仕事の変化
人的資本経営への移行は、人事部門に根本的な役割変革を迫るものです。従来、人事部門の主な役割は、労務管理や給与計算、人事制度の運用といった「管理する業務」が中心でした。しかし、人的資本の価値を最大化するという経営課題に取り組むためには、より戦略的で創造的な役割を担うことが求められます。
これからの人事部門に期待されるのは、経営戦略と連動した人材戦略を立案し、実行する「ビジネスパートナー」としての機能です。事業部門のリーダーと対等に議論し、事業の成功に必要な人材ポートフォリオを構築したり、組織全体の生産性を高めるための施策を企画・推進したりする役割が重要になります。
さらに、従業員一人ひとりのキャリア自律を支援し、組織全体の学習能力を高めていく役割も増していきます。例えば、社内外の知見やネットワークをつなぎ、新たなイノベーションを生み出す土壌となる「社会関係資本(ソーシャルキャピタル)」の構築を支援することも、人事の新たな仕事領域となるでしょう。
この点について、ソニーグループ株式会社・安部執行役専務室付組織開発アドバイザーの望月賢一氏は、人事の新たな役割を「線をデザインする」ことだと表現しています。
望月:そうですね。だから企業の人事が何か関わるとしたら、線を張りめぐらせやすいように時々、組織文化をメンテナンスするとか。誰かに書いてもらったように、マーケティング的に広報が「こういう活動を会社は奨励しているんですよ」って、意図的にちゃんとメッセージを発信して、みんなが安心して取り組める状態を保つとか。
こんなことは今までの管理する人事ではやらないですよね。マーケティングキャンペーンですよね。お客さんに選ばれるために「知ってもらわなきゃ」となるわけじゃないですか。(中略)
望月:会社のこれまでのカルチャーとか、これからのカルチャーとか、今できていること、「これからこんなことができると、それが定着するよね」とか(を考える)。これは管理する業務にまったくなかった仕事だと思うんですよね。
引用:ソニーの事例で見る、現場主導の人材マネジメント 人的資本経営時代の人事の新たな役割とは(ログミーBusiness)
この指摘のように、これからの人事は、従業員同士や組織間の「つながり」を意図的にデザインし、活性化させる役割を担います。
例えば、部門を超えた学習コミュニティの立ち上げを支援したり、社内での自発的な勉強会を奨励するメッセージを発信したりするなど、組織内に新たな価値創造の機会を創出していくのです。
これは、従来の管理業務とはまったく異なるスキルセットを要求します。データ分析能力やマーケティングの視点、組織開発に関する専門知識などを駆使して、組織というプラットフォームの上で、いかにして人材という資本の価値が自然発生的に高まっていくかを考える。
これこそが、人的資本経営時代の人事部門に課せられた、挑戦的でやりがいのある新たなミッションと言えるでしょう。