汚い生原稿は、かっこいい

小崎哲哉氏(以下、小崎):琳派のポップな話をするつもりが、思わぬ方向にいってしまいましたけど。話を戻して、お二人と琳派の関係、あるいは無関係について聞いてみたいと思います。

お二人の作品を見ると、日比野さんのダンボールにせよ、しりあがりさんの漫画にせよ、琳派とは直接関係ない気もしますが、今回の企画で初めて考えてみたんでしょうか?

しりあがり寿氏(以下、しりあがり):そうですね。僕自身はお話をいただいたとき「なぜ僕らが琳派なの?」みたいな意外な感じだったんですけど、お話を聞いていくと琳派って「おもしろいことしたれ!」「きまったやろ!」「かっこええやろ!」っていう関西のパワーみたいな。

小崎:なるほど、芸人パワーみたいな。

しりあがり:そう(笑)。なんかそういうのを感じて。だとしたら「やったれ」とか「おもしろい」みたいなのをそのまま出せば少しは琳派なのかな?ということで。

さっきは申しあげなかったんですけども、アートフェアのほうにも作品を出させてもらってるんですけども。

小崎:あれはすごいですね! 琳派ですね。

しりあがり:(笑)。あれは漫画の原稿用紙に普通スクリーントーンっていうのを貼るんですけど、グレーに見えたりする。あれはスクリーントーンのかわりに金箔を貼ってるだけなんですけど、琳派だってことで。やってみて、おもしろかったんですよね。

小崎:あれはすごいなぁ! 初めて見ましたね。

しりあがり:この後ろに飾ってるのがそうですね。あとは、普通は漫画って印刷されたものを見ると思うんですけど、原稿ってけっこうペラペラで。僕が初めて漫画家になって出版社に行って「これが生原稿だよ」って有名な先生の生原稿を見たら汚ないんだよね。

ホワイトの修正の跡がいっぱいあったり「ここは写植が何級ですよ」っていう指示がいっぱい残ってたり。本で見るよりいろんな情報がいっぱい入ってるんですよ、生原稿って。

それが何かかっこよくて。今回は金箔を貼るのと同時にいろんな指示や下書きを残したり。みんなが印刷された漫画の本で読むのとは違う、ものとしての漫画原稿を見せたかったんですよね。

デジタル入稿では出せない味わい

小崎:漫画自体は書き下ろしなんですか?

しりあがり:そうです、これのために。

小崎:すごいな! 「りんぱくん」って漫画ありましたよね?

しりあがり:「りんぱくん」ね(笑)。

小崎:ぜひみなさん会場で見ていただきたいんですけど。

しりあがり:漫画って今ほとんどデジタル入稿なんですけど、この作品のために某誌の編集長がわざわざ今はない写植を切って貼ってくれて。

小崎:へぇ。

しりあがり:編集長が「伝統的な技で今の人はもうできません!」なんて、いばりながら貼っていたんですけど、さっき見たらはがれだして。

(会場笑)

しりあがり:しっかりしろよ、みたいなね(笑)。

小崎:ちょっと補足的に言いますと、DTP(データを使った印刷)以降は写植はないんですけど、かつては写真植字だったので、版下を作って、文字も切り貼りしてたんですよね?

しりあがり:そうですね。

小崎:カッターで切って、のりで貼るので。はがれもするということですね。金箔はご自分で貼ったんですか?

しりあがり:いえ。元アシスタントの「市川ラク」さんっていう新人の漫画家さんがいるんですが、この人が名古屋の美大で日本画だったんですよ。

小崎:すごいですね、そういう人が。

しりあがり:「君だ!」と(笑)。

小崎:まさか、しりあがりさんのアシスタントを務めたあとに、そんなオーダーがくるとはご本人も思ってなかったですよね。

しりあがり:そうですね。まさか漫画の原稿に金箔を貼る日が来るとはね。

小崎:史上初かもしれないですね。

日比野克彦が見た、尾形光琳『燕子花図屏風』の魅力

小崎:日比野さんは琳派との関わりというのはあるんですか?

日比野克彦氏(以下、日比野):一番最初に出合ったのは教科書だと思うんですよ。尾形光琳の『燕子花図屏風』(かきつばたずびょうぶ)とか『風神雷神図』とかね。やっぱり『燕子花図屏風』が美術の教科書の表紙になっていた記憶があって、「尾形光琳かっこいい」ってイメージがあった。

他の絵画っていうのは何かこう、「説教くさい」というか「つまらなさ」があるんだけど、「尾形光琳はかっこいいな」って。すごいデザイン、デザインっていう言い方もおかしいかもしれないけども、絵画じゃなくって、もっと身近な。

日比野:これってね、絵画っていうよりデザインだよね。しりあがりも僕もデザイン科なんですけど、中学高校を経て美大を目指すときに、「絵画科じゃなくてデザイン」という選択をしたわけですよ。

その背景には、やっぱり尾形光琳のこういう世界観は、絵画でもないしデザインでもないんだけど「こういうビジュアルを生み出すことができないかな」というのは感じていたような気はしますね。

この絵(燕子花図屏風)は、すごい印象的で。色でもないし線でもないんだけど、空間のデザインというか、配置というか。

小崎:『紅白梅図屏風』(こうはくばいずびょうぶ)もすごいですよね? グラフィックデザイナー界の巨匠で、亡くなられた田中一光さんも琳派には相当影響を受けていて、ほとんど本歌取りのようなポスターをつくってますもんね。

日本には完成しない美学がある

しりあがり:さっき完成するしないとか過不足みたいな話とかしたじゃん? これ(燕子花図屏風)とかは、一番「決まった感」がありますよね。無造作にものを並べていて決まった瞬間。これ1本抜いちゃったり、余分だったり、色が違ったりすると、きっと決まらないでしょ?

日比野:でも、あの右端のさ、ちょこっと残ってるじゃん? ここ(絵を指して)。これ、かゆくない?

(会場笑)

日比野:これ、きっと1回消してると思うよ。消したら決まりすぎちゃって、かゆいところを残したんだと思うよ。

しりあがり:そうだね、決まると死んじゃうんだよね。

日比野:決まると「全部安全です」って無菌状態みたいになっちゃって、おもしろくも何ともなくなる。あのちょっと、むずがゆいところを残す。

しりあがり:そういう意味で完成してないんですよ。完成しちゃったら、つまんなくなっちゃう。

日比野:そうそう。あそこがポイントだと思うよ。あの、かゆいところ。

しりあがり:なるほどね。

小崎:それって日本美術で言われますよね。ずっと現代アートやってて、いろんな人が、西洋以外の場所のアートの意味を問うじゃないですか? そのときに日本特有の美学って本当にあるのかなって考えたんですよ。

いろいろ考えたときに、最後に思ったのが「完品じゃない傷の美学」みたいな。つまり金継ぎ(陶磁器の傷を金で装飾すること)みたいなものって今のところ海外で発見できていないんですよね。

たとえば、中国の人は焼き物は完品を好むというけれど、日本だとワザと茶碗を割って、継いだりするじゃないですか。あの感覚があるのかもしれないですね。そういう感覚はあります?

日比野:そうですね。壊れる、崩れる、その一歩手前の「もののあわれ」とか、いろんな言い方があるけども。

しりあがり:数字で言ったらね、1とか2じゃなくて、1.8くらいが欲しいって感覚ない? 1.7でもいいんだけど。だって2になっちゃうとつまんないじゃん! だって2なんだもん、そんなの。1もつまんないじゃん。何かその間の「ここらへん」ってのが、かっこいいような気がしない?

小崎:間がいいんだ。

しりあがり:間のなんか、もやもやっとした。

日比野:西洋じゃなくってアジア的、アジアの中でも中国じゃなくって日本的っていうのが何なのか?というのは、なかなかまだ言い切れないところがあるし。

日本と海外のヘタウマの違い

小崎:「わび・さび」ってたぶん海外にもあるでしょ? 「アルテ・ポーヴェラ」なんてイタリアにあるじゃないですか。よく「もの派」(未加工の物質を主役にした芸術)と対比されるけども「貧しい芸術」って意味ですもんね。

しりあがり:去年の秋にマルセイユで「ヘタウマ展」があったんですね。漫画家の根元敬さんとか、そういう人を呼んで絵を描いて。向こうの人がプロデュースしたんですけども。

ヘタウマの「欠けてるもの」「満たされないもの」の価値を向こうも認めてるんだな、おもしろいなと思って行ったんですけど、やっぱり日本のヘタウマと向こうのヘタウマは違うんですよね。向こうのヘタウマってのは攻撃的でワイルドなんだよ。

小崎:根元さんも、けっこう攻撃的ですよね。

しりあがり:根元さんは、だから向こう的なんだけど(笑)。だけど日本のヘタウマって湯村(輝彦)さんにしても、攻撃的じゃないじゃん。「情けない」とか、それこそ「哀れ」とか、そっちのダメな感じ。だけど「そこがいいんじゃないの?」みたいな。

小崎:「ゆるい」とか。

しりあがり:「ゆるい」とか。そういうマイナスをプラスに転じるような美意識っていうのは、向こうのものを見て違うなって思いましたね。

時間が料理したダンボールの魅力

小崎:日比野さんもいろんなことをやってらっしゃるけど、ダンボールという素材もアートを何百年も保たせるという観点からすると「もののあわれ」的ですよね?

日比野:ダンボールは、それこそ最初の頃に作品展で見せると「保たないよね?」って、みんなに言われたんです。絵画の歴史ってのは、油絵の具でもフレスコ画でも大理石でも、何年経っても保つために、色あせないために描く。

それこそ金っていう物も、時間に影響されず永遠に光っていることで、命がなくなる人間にしてみれば、金に憧れるところがあって。そういう価値観の中での美意識からみると、ダンボールに絵を描いて「保たないよね?」と言われる。でも逆に、なくなりはしない。

燃やして灰になるわけじゃないから、色はあせていくだろうし、形はフニャっとなっていくだろうけども。1番時間に影響を受けやすい、ダンボールって物の「風合い」とか「色合い」がいいな、という意識は自分の中にはあって。

実際、自分の作品を10年ぶりとか20年ぶりに展覧会とかで見ると、作品集とは色合いが違ってるんですよ。

小崎:少しあせている?

日比野:あせていたり、のりが染み出てたりとか、立体なんかも丸くなってたりするんだけども。けども! それ以上に箱開けてパッと見ると「おっ、何かいい感じになったな、これ!」みたいな。

小崎:味が。

日比野:味が出てるから。それはそれで、金継ぎじゃないけども、完成したときにはない「時間が料理する」というか「色づけしている」ところがあって。

そこに作者の手は離れているから「勝手に動いてるな」っていうおもしろさ、良さは自分でも見ていて。だから時間を止めるだけじゃなくて、時間に反応するのもアリかなとは思いますね。

作家は「どこまで直すのか」を遺言で残すべき!?

小崎:しりあがりさんの「崩」の自然に崩れるというのに通じる話ですよね。

しりあがり:「劣化を愛でる」というかね。奈良の新薬師寺のほうでしたっけ? 色のはげた仏像の色をCGで復元したプロジェクトとかありましたよね。今はほとんどまっ白で塗料が残っていないのを復元すると、すごい極彩色でさ。

それ見たいと思わないもんね、やっぱね。「何百年もかけて、せっかく色がはげたのに何で塗っちゃうの?」みたいな。それこそ日比野くんが言ったように、時間がつくってくれた作品を台無しにしちゃう感じになりますよね。

小崎:バチカンのね、システィーナ礼拝堂のミケランジェロも何年か前に大補修して「当時の状態に戻しました!」ってしたんだけど、戻しすぎちゃって「細部が見えすぎる」というので評判が悪い、というのもありますよね。難しいところだな。

日比野:保存修復って、どこまで直すかってことだよね。だから、自分の作品を修復するときがあるんですよ(笑)。のりが落ちて、貼ってるものが取れちゃったりすることがあるから。

なくなってるパーツもあるから、直すときに「どこまで直すのかな?」みたいなのは本人だからいいけども。本当にじゃあ作者がいなくなった後に、どこまで直すかってのは言っといたほうがいいよね?

(会場笑)

小崎:ここまでは許す(笑)。

日比野:直さなくていいのか言っといたほうがいいと思うよ。

しりあがり:作品のためっていうより、周りが困らないようにね。

小崎:逆に骨董の世界なんかだと「古色をつける」なんてありますよね。新しいものを土に埋めたり、おしっこかけたりするんでしょ? ほっとくと2日くらいで200年分くらい色があせたりして。

しりあがり:プラモデルとか映画の美術の仕事でも、そういう汚したりとかするけど、結局それってリアリティのためですよね。金ピカで、できたばっかの物の持っているウソっぽさ。

小崎:「床屋行きたては嫌だ」みたいな。

しりあがり:そうそう、床屋行きたての感じ(笑)。