アパルーサ・マネジメント創業者、デイヴィッド・テッパー氏が登壇

(デイヴィッド・テッパー、以下テッパー氏):2018年期生のクラスのみなさん、おはようございます。ここに私のスピーチ原稿があります。まず最初に、このスピーチ原稿では考えていなかった、この場で観察して得られた所感がいくつかあります。

(指を指して)あちらで私はケヴィンの隣に立っていました。彼は今ここにいます。私たちはそこで話をしていました。彼の声は震え、私の声も震えていました。ふたりとも“やばいくらい”緊張していました。

この緊張の度合いを他の汚い言葉で表そうと思いましたが、今日はこうした言葉を言うべきではないと言われました。

(会場笑)

私たちは登壇し、二人とも少し震え気味でした。ケヴィンは姿勢を正しました。彼は気合を入れ、力を込めはじめました。

彼は「力がみなぎるのを感じはじめた」と語り、「この人たちは私の人々、仲間なのだ」と言いました。そして彼は、向こう側の何人かの友達を指さしました。

私たちは、向こう側にいる彼の家族に「こんにちは」と挨拶しました。彼の母ローレンが、私にしてくれたケヴィンについてのいくつかの話は、ここではあえて述べません。

(会場笑)

通路に上がって、何人かと握手をしました。アン・ウォールに挨拶をしました。やあアン、お会いできてうれしいです。

そしてケヴィンは壇上にあがり、最高の素晴らしいスピーチをしてくれました。そして私は、「しまった!」と思ったのです。あんなにうまくできない。ここにその2倍の長さの原稿がありますが、そんなアドリブは私にはできないからです。

そして考えていました。あなたがた、ケヴィンのご家族、そこにいらっしゃるみなさん、生徒のみなさん、ここにいるすべてのみなさん。そう、あなたがたは私の人々でもあるのです。私の仲間なのです。

(会場拍手)

みなさんは、カーネギー・メロンの人間です。カーネギー・メロンの学生、カーネギー・メロンの卒業生、私の人々、仲間です。

スピーチを上手く運ぶには、みなさんの助けが必要です。この原稿を読んでも、どうなるか私にはわかりません。では、どうなるかやってみましょう。

人生において両親ほど借りがある人はいない

まずはファーナムのこの場への私の紹介、カーネギー・メロンにおける彼のリーダーシップに対する感謝から始めたいと思います。

この場所は、私にとっては世界そのものです。本当に私にとって財産です。他の大学と違い、この大学ほど一つにまとまったところはありません。  

経営学部、どこにいる? (経営学部生・歓声)

芸術学部は?

(芸術学部生・歓声)

人文学部?

(人文学部生・歓声)

自然科学部?

(自然科学部生・歓声)

そして社会科学部。

(社会科学部生・歓声)

これがカーネギー・メロン大(CMU)です。私の大学の同僚理事たち、そしてこの場のあちらこちらにいる私の元研究仲間たちにも感謝を述べたいです。

他の登壇者:エンジニアジング部は?

テッパー氏:  エンジニアジング部!

(エンジニアジング部・歓声)

すみません。表彰台から離れるなと言われましたが、忘れていてすみません。エンジニアリング部のみなさん、帽子を上げてもらえますか?

ありがとう。もう一度、大学の理事たち、昔の研究仲間、そして生徒のみなさん、そしてあなたがたのご両親に感謝を述べたいと思います。

ここにいる私の家族と友人たちに、特別な感謝の気持ちを捧げたいと思います。そして86歳の私の母にも。やあ母さん、そのあたりのどこかにいる? 母さん、どこにいる? まあ、あのあたりにいるでしょう。

今日母は、いつもよりちょっと幸せで誇りに思っているでしょう。しかし母は、ときどきお尻をぶつので痛いです。あなたがたのご両親もきっとそうでしょう。

しかし両親以上にこの地球上で、これほど借りがある人はいません。人生においてですよ。あなたがたは、ご両親のことを認めるべきでしょう。この場を借りて、ここでご両親に感謝をしましょう。

(会場拍手)

そして最後に私の名誉フェロー博士たちにもお礼と、お祝いを申し上げます。

人生は他の人々の生活とのコンビネーション

アダ、どこにいますか? アダはとても面白い女性です。彼女の講義をこれから聞く人には、彼女が面白いということを話しておきます。そういえば、彼女はノーベル賞受賞者でした。それが、彼女が面白いということのもう一つの面です。

(会場笑)

シャフィ・ゴールドワッサーは、チューリング賞受賞者で、私が若いときにテレビでよく見かけた人でした。若いといっても、それほど若くはありませんでしたが。

エミー賞受賞者のテッド・ダンソンは、奥さんに追いついてきてますね。彼の奥さんは彼より多くの博士号をいくつか持っていて、彼は追いつこうとしているのです。

(会場笑)

人々に語ることでわかるものは、素晴らしいです。耳を傾けることは良いことです。感謝の言葉のあとにこれから始めるスピーチは、スピーチライターとPRのプロ、そして私の子どもたちから準備のアドバイスを得ました。

みなさんが保守的過ぎないように、そして適切であるようにと言いました。ここでみなさんにあらかじめ謝っておきます。そのようにはなりません。

(会場笑)

また、これまでの最高の卒業スピーチを聴くことによって準備しました。多くは俳優や政治家たちです。それらは能弁で、プロらしい振る舞いでした。

今日、プロのスピーチを期待していた出席者のみなさんは、もしかしたら出来の悪いほうの卒業スピーチの場にいるかもしれません。

しかし、私が(このスピーチで)約束できることは、できる限りの正直さと私が個人的に習得した人生の経験です。

私が思うに人生は、他の人々の人生とのコンビネーションです。生徒には、ご両親との大学に入る前の人生があり、大学での生活がありました。そしてこれから歩み始める人生があります。

あなた方のいく人かは、信じられないほどの逆境を乗り越えたことでしょう。そしてここにいる全員が挑戦をし、幻滅し、そして勝利すると確信しています。私にも違いはありません。

ピッツバーグ大の在学中も働かなくてはならなかった貧しい家庭の子どもが、CMUを卒業し、名誉博士号を取得したての今、この場で卒業スピーチを行っています。

大統領とごみ収集人のどちらにより良く対応するか?

(私は)NFL(アメリカのプロアメリカンフットボールリーグ)の試合のチケット代を払うことができなかった子どもでした。そのNFLのチケットの代金を20代まで都合できなかった子どもが、いま、NFLのカロライナ・パンサーズチームを獲得しようとしています。

私は、ピッツバーグの郊外のスタントン・ハイツの労働者階級の界隈で育ちました。通りでタッチ・フットボールをして遊び、墓地の近くでフットボールのタックルをしていました。私たちは、墓石にボールを当てないように気を付けていました。

当時の携帯電話とは、通りでフットボールをしているところに、夕飯ができたと母が知らせてくる電話でした。

父は、その他の多くの父親たちと同じく、なんとか暮らしていくために週に60時間働いていました。父はいくつかのことを教えてくれました。とても重要な教訓です。

まず、自分より不幸な人にいつも思いやりの心を持つようにということ。父は、自分の家で不足していても、いつも他人に与えていました。

その他の教訓で私たちに父がよく尋ねていたのが、「誰により良く対応しますか? 大統領ですか? それともごみ収集人ですか?」というものです。

みなさん、答えは知っていますか? ごみ収集人でしょうか? 私は一般的なことを話しているのであって、だれか特定の大統領のことを指しているわけではありません。

(会場笑)

ごみ収集人ですか? ごみ収集人が正しい答えかもしれません。なぜなら、彼らは毎日あなたのごみを収集に来てくれます。ごみ収集人がごみを収集してくれなかったら、大変なことになります。

しかし実際の答えは、『両者とも同じように待遇をする』ということです。すべての男性と女性は、どちらも平等に敬意をもって扱われるべきです。

(会場拍手)

こうした父の良い面にもかかわらず、彼には悪い面もありました。父は私に対して暴力的でした。これは、彼の父から受け継がれたものだと確信しています。そして父の父は、そのまた父から受け継いだのでしょう。

私の若い時代、その暴力ほど恐ろしいものはありませんでした。それ以上の災難はなかった。しかし私は、自分の子どもに同じことは決してしないと神に祈りました。私は自信を持って言うことができます。私の人生の最大の業績は、その暴力の連鎖を断ち切ったことです。

(会場拍手)

成功するために必要なすべてのツールを得られた場所

ありがとうございます。今、私は震えています。街の中心にあったピーボディという名前の高校では、半分が白人で、半分が黒人でした。当時、両者の間や他校との間で本当にたくさんの緊張がありました。

ウエスティンハウス高校とピーボディ高校の状況はとても悪かった。そこはいまでは、バラク・オバマ高校と呼ばれています。

両校でアメリカンフットボールの試合が行われたとき、両者が喧嘩するのを避けるために、空席のスタンドが設けられました。とても大変でした。実際にはフィールドには芝生もなく、土と石ころだらけで、土ぼこりが立たないように油を撒いていました。本当の話です。

一つ目のゴールポストは、学校の校舎のすぐ向かいにありました。残りのフィールドゴールは、フェンスのすぐそばにありました。エンドゾーンがなくなってしまうと大変です。

このように高校ではフットボールを少しやり、学校の演劇部、CFAに所属していました。しかしお金が足りなかったので、働かなくてはなりませんでした。

私の最初の仕事の応募先はマクドナルドでしたが、私は採用されませんでした。雇ってもらえなかったのです。私が思うに、採用されなかった理由は大きすぎたアフロの髪型だったんでしょう。

(帽子を取って、禿げ頭をみせる。会場笑)

今では、アフロヘアだったらという問題ではなかったですね。本当のことを言うと、この場がとても暑かったので帽子を取りたかっただけの話です。

(会場笑)

私はその場で注文販売するデリでの仕事を得ました。また、ナイフの訪問販売をしました。さらに、私はパン屋の組合労働者でもありました。

高校を出て、ピッツバーグ大学に進学しました。どこにありましたっけ? この先にありましたね。そこでDirty Oのオリジナルのホットドッグを食べました。誰か、オリジナルのホットドッグのファンはいますか?

(会場・歓声)

ポテト・フライのほうがいいですか?それともホットドッグのほうがいいですか? ポテト・フライの方は手を挙げて。ホットドッグ派は? どうやら今日はポテト・フライ派の勝ちですね。

Dirty Oに通い、1人、2人のガールフレンドがいて、美術館、図書館で働いていました。そして経済学で優等学位を取得しました。

ピッツバーグ大を卒業後、銀行で少し働き、MBA取得のためにカーネギー・メロン大へ来ました。勉強はすごく大変でしたが、私はこの場所が大好きでした。

ここで学んだことは、卒業後に私がプロフェッショナルとして行ってきたことのすべての基礎となりました。ここは、成功するために私が必要としたツールのすべてを与えてくれました。ウソではないですよ。

若いうちは、給料明細書の額よりも経験を追い求めるべき

ここを卒業したとき、マーケットと投資が好きだったので、ゴールドマン・サックスで仕事を得ようとしました。しかし彼らは私を採用しませんでした。そこで仕事は得られませんでした。ゴールドマン・サックスのことは、もうちょっとあとでまた述べます。

MBAを取得後、その当時、一般的ではない選択をしました。リパブリック・スティールに就職したのです。当時は鉄鋼業界にとって良い時代ではありませんでしたが、私はそこでさまざまなことにさらされるだろうと知っていました。私は心から学びたかったのです。

リパブリック・スティールに就職して3か月後、全社一律で7パーセントの給料カットがありました。私のビジネススクールの仲間や友達たちは、電話をかけてきて「いい選択だね、テップ」といいました。

2年のうちに、リパブリック・スティールは破産を免れるため、整理統合しなくてはなりませんでした。しかし、これは素晴らしい選択でした。この2年間、彼らは会社を救う努力を続け、会社の金融取引額は、過去100年間で最高を記録しました。

私はこの一つひとつの事柄から学びました。人生において、できる限りあらゆる経験を積むことです。若いうちは、給料明細書の額よりも経験を追い求めるべきです。

こうした経験が、私に困窮した会社を専門とする投資信託会社での職を得ることにつながりました。そしてこれが、最終的にゴールドマン・サックスへのドアへと導きました。

これまでの仕事の経験や最前線で学んだこと、CMUで学んだことが、短期間でゴールドマン・サックスのジャンク債デスクのヘッド・トレーダーへと私を昇進させました。それが、私が当時知っていたもの以上のステータスを与えてくれました。

しかし、私が本当になりたかったものは、ゴールドマン・サックスのパートナーでした。何度かパートナーになる挑戦をしました。しかし、一度もなることができませんでした。

理由の一つは、一人の強力なパートナーの要請を断ったことです。それはこのような話です。そのパートナーは、破産した会社へ投資する新しいファンドを始めました。私はそこで彼のために取引をする予定でした。このとき彼は、制限されていた顧客リストを管理する立場にいました。

これらの会社のリストには、いくつか利益が対立するものや取り扱いが繊細な情報が含まれていました。彼は私に、その制限されていたリストから外された一つの会社を買うように依頼しました。リストから外されたその日にです。

正しい行いはあなたを傷つけることはない

それは何か不正のように感じられました。私は会社の法務部へいき、その話をしました。何度かやり取りをしているあいだに、彼らは大丈夫だろうといいました。しかし、それは私には正しくないと感じられました。それで私はもう一度断りました。解雇はされませんでしたが、次にパートナーを目指したとき、拒否されました。私は非常に憤慨しました。

しかし、それが結果的には良かったのです。ゴールドマン・サックスのパートナーになれなかったため、私は25年前の1993年に「Appaloosa」という名の会社を興し、もっと楽しいことをすることになったのです。このことが、多くの面で私の人生を良くしました。

人生では、正しいことをしましょう。正しい行いは、あなたを傷つけることはありません。ただし、優先順位をしっかりとしていきましょう。「人生では」と私は言い続けていますが、以前にも話した通り、そこには多くの人生があります。

わたしは慎ましいスタートから、驚くべき人生を得てきました。私は3人の子どもを育て上げ、愛する一人の女性がおり、成功したビジネスのキャリアを得て、慈善の努力をしています。新しく博士号を授与され、NFLのチームのオーナーになろうとする人物が今、あなたがたに話かけています。

(会場拍手)

あなたたちは学生です。ですから「君たち」といってもいいでしょう。学生たち、女の子たち。なんと呼ぼうと、君たちにはご両親との人生があって、CMUでの人生があって、これからまたいくつかの人生を歩むでしょう。

私が予想するに、あなた方の収支は、学費の面で今のところマイナスです。しかし、あなたがたは非常に上向きの状態にあります。CMUの学生は優秀であり、それゆえ素晴らしい機会がやってきます。他の人間から、優秀ではないと言われるようなことはしないように。

あなたが住んでいる場所は、この先も機会があふれる土地であり、私たちは世界で最高に偉大で最も寛大な国にいるのです。これを覚えておいてください。これで最後です。みなさんが成功したとき、かならず社会にお返ししてください。

神の祝福がみなさんにありますように。神の祝福がCMUにありますように。神の祝福がアメリカにありますように。

ありがとうございました。