がんの発生率の不思議「ピートのパラドックス」

ハンク・グリーン氏:クジラは巨大です。大きさでいえば、シロナガスクジラはこれまでに存在した動物のなかで最大です。ですからクジラは、私たち人間よりもかなり多くの数の細胞を持っています。この事実は、興味あるパラドックス(逆説)へと導きます。

ご存知のとおり、細胞は自らをコピーするたびにエラーを起こし、それはがんとなることがあります。ですから多く細胞を持つほど、そしてより長く生きるほど、がんが増える可能性は高まるのです。

クジラは私たち人間よりただ大きいだけでなく、通常100年を超えて生きます。こうした話を聞くと、ほとんどのクジラががんを持っているとみなさんは思うでしょうが、実際はそうではありません。

大きなクジラがなぜがんにならないのかを私たち人間が理解することができれば、がんの大きな謎のうちのいくつかを解明できるかもしれません。

がんとは、そのほとんどがコントロールの効かない異常な細胞再生のことです。もし各細胞がなにかしら悪化し、がん腫瘍が増大するきっかけとなるのならば、みなさんはクジラやその他の大型動物が、人間より多くがんにかかると予想するでしょう。

しかし研究によると、各種の動物のがん発生率は、個体の大きさや寿命の長さとは関係ないことがわかっています。

このパズルは、ピートのパラドックスと呼ばれています。これは、1970年代にはじめてこの考えを述べた英国の疫学者リチャード・ピートから名づけられました。そして現在でもまだ、私たちはこのパラドックスをどのように解決するのかわかっていません。

何人かの研究者たちは、ピートのパラドックスはパラドックスではないと考えています。彼らは、クジラたちが実際にしばしばがんになると考えています。ただ、これらの腫瘍がクジラたちを殺すことはないのです。なぜなら、ハイパー腫瘍と呼ばれる第2の腫瘍によって破壊されるからです。

ハイパー腫瘍は基本的に、最初にできた腫瘍に寄生して、その血流供給を自分の食糧源にし、最初の腫瘍を窒息させてしまいます。ハイパー腫瘍は悪者そうですが、実はいいものなのです!

クジラのような巨大な動物にとって、腫瘍が危険なサイズになるまでには多くの時間がかかります。そしてその長い成長期間が、ハイパー腫瘍を出現させることになっているのかもしれないのです。

ですから、大型動物のがん罹患率は実際には少ないのかもしれません。ただ、がんが大きくなって問題化する前に腫瘍は死んで消滅してしまうだけなのです。

しかしこの見解は、テストを経て証明されたわけではありません。また、その他の生物学者らは、最初のがんが形成する前に、クジラがそれを抑えるなにかしらの方法を持っていると考えています。大きなサイズであることが、その方法のうちの1つかもしれません。

大型動物は、メタボ率(脂肪率)が低い傾向にあります。つまりそのサイズのわりに、エネルギーを少なく消費しています。なぜなら、大型動物は体の大きさに比べて皮膚の部分が少ないため、熱量として失うエネルギーの量を制限できるのです。

そしてこの低いメタボリズムが、がん増大のきっかけとなる、ダメージを受けた高反応分子をより少なく製造します。しかしこれだけではおそらく、クジラの低いがん罹患率を説明するには不足でしょう。

抗がん遺伝子と繁殖力の関係

その他の大きな動物は、より直接的にがんと戦うことを私たちはすでに知っています。ゾウを例にとってみましょう。哺乳類であるゾウは、人間やクジラと同じ基本的遺伝子セットを共有しています。

しかしゾウは、より多くの遺伝子を持つためにゲノムを微調整しています。この増えた遺伝子は、がん抑制遺伝子と呼ばれ、腫瘍を抑えます。

ゾウは、ダメージを受けた細胞を自己破壊させる遺伝子TP53のコピーを20個持っています。クジラは私たち人間と同様、1つのコピーだけしか持っていません。しかしクジラは、がんを寄せ付けないなにか特別なことをしているかもしれません。

何人かの生物学者は、クジラが人間のものより良いバージョンのがん抑制遺伝子、もしくは私たちがまだ知らない、種特定のがんをつぶす遺伝子を持っているかもしれないと考えています。

クジラやゾウなどの大きな動物が、がんに対抗する特別なパワーを進化させたであろうこと理にかなったことです。

大きな長命の動物が、数少ない子孫に多くのリソースを費やすことに進化し、その能力を長い期間、若い世代を養育することに割かれたとしたら、がんは大きな問題になるかもしれません。

しかしそこにはトレードオフの関係があります。より有効な抗がん遺伝子は、繁殖力を下げるようです。なぜなら、細胞のダメージ修復とがん細胞の破壊に使われるエネルギーは、どこからか転用してこなくてはならないからです。

大型ではない動物には、余分に割り当てる細胞からのがんのリスクはないでしょう。それは割りに合いません。より多くの子どもを作る利益のほうが、子供たちを育てる機会を得る前にがんが増えるリスクよりも重大なのです。

こうしたケースから、進化の淘汰圧がより強い抗腫瘍遺伝子を選択しないことにつながったのかもしれません。

研究者たちはこうした考えを深く掘り下げています。なぜなら、クジラを助けているものが、もしかしたら人間を助けることに使えるかもしれないからです。

例えば、彼ら研究者たちはTP53を研究し続けています。そしてTP53を過剰発現させるため、ネズミを遺伝子改変しました。いくつかのケースでは、早期老化といった悪い副作用をもたらしました。しかし研究者らは、人間のなかの腫瘍自己破壊ボタンを押すための新しい道を見つけることをあきらめてはいません。

私たちはまだ、シロナガスクジラのどの遺伝子がガンを抑制するのかを完全につかめてはいません。ですがそれを見つけ出すことが、人間の体のなかでガンと戦うことを手助けするそのほかの手段につながるかもしれません。