早稲田大学時代に学んだこと

加藤一二三氏:私は18歳で早稲田に入ったのですが、仕事の関係で朝日新聞社の幹部にいろいろと話をうかがっていたんですよ。その幹部が、「加藤さん、これから先は視野の広い人生観が必要だから、大学に行ったほうがよろしいよ」と言われてね、そのこともあって早稲田に進んだんですけれども。

この前、大隈講堂でトークしたときに、こんな質問が出たんですよ。「加藤さんね、早稲田大学で学んだんだけれども、大学のときにどういったことを学んだかを覚えているか」と。僕は仙台の白百合女子大学の客員教授になってますが、先日10月のそこでの講義でも、同じ質問が出たんですよ。「早稲田でどういった講義を覚えてるか」っていうのが。なので僕は自信をもって言いました。

たぶん、みなさんも知ってらっしゃると思うんだけども、テニスンという有名な小説家。テニスンの小説にね、『イノック・アーデン』というものがあるんですよ。これを私はね、早稲田の講義で聞いて、今でも覚えているんです。

こういった小説でした。イノック・アーデンというのが主人公で、愛し合って、結婚したんですよ。その後ゆえあって、夫のイノック・アーデンは旅に出るんですね。旅に出たところでアクシデントがあって、簡単に家に帰ってこれないという状況になったんです。イノック・アーデンは帰りたい一心だけども、まぁやむを得ず、すっきりとは帰れない状況になってしまったんです。

それが1年経ってるのか2年なのか3年なのか、確かめてみないと、と思ってるんですけれども、かなり時間が経ってイノック・アーデンが家に帰ってきた時、すぐに家に入ったわけじゃないんですが、なんとなく妻の、家の様子を見てると、どうも再婚してるというのがわかったんですね。それで、イノック・アーデンは自分の旅の途中、妻が再婚したっていうことを悟りまして、1人静かに去っていく、というのが『イノック・アーデン』、哀切極まりない物語。

僕が覚えてるのが、早稲田の教授が言いましてね、江戸の文学にもこれはテーマとしてあって、例えば、2人の友人が旅に出る。その中で洪水に遭ったり、自然災害に遭って、2人のうちの1人が、運良く帰ってくるんですね。帰ってきたところで、家で待っている奥さんに言うんです。「あなたのご主人はこうこうこうで、もしかしたら、命がないかもしれません」と、そういうことが多かったそうですよ。

そのあと、やっぱり残された妻は再婚する。再婚したところで、時期が経って夫が帰って来る、というのは、江戸の文学にもあるということを、教授は教えてくれました。

キリスト教には現実主義の側面もある

もちろんそれは再婚の話だから、それはまったくケースバイケースで、すべての事柄、いろんなケースがあると思います。それで、まあ私が仙台白百合女子大学で語ったこととして、僕はこんなことをちょっと思うんですね。

普通は愛し合った夫婦が、なにかことがあって、離ればなれになったとして、残された妻が再婚するまでには、やっぱりそれなりの時間を必要とすると思うんです。でも例えば、僕の記憶に間違いがなければですね、イスラム社会では、こういうことわざがあるんだそうですよ。

夫が亡くなって、お通夜をします。そのときに、「後に残された未亡人は、通夜に来た男性の中から再婚相手を見つけなさい」ということわざがあるんです。たくましいですよねぇ。すごいですよ、ちょっと日本人には違和感があるかもしれないんだけれど、考えてみるとそれはそれでたくましくていいんじゃないか、と思いますよね。

というのは、今と違って、例えば昔だったらば、戦争の多い時代だったらですね、夫が戦死してしまったりすると、残された女性はまず食べていくだけでも大変ですよね。ですから、そういった状況の中からだったら、再婚するというのも普通の考え方でしょうねと。

僕はキリスト教徒なんですけれども、キリスト教徒は基本的にですね、もちろん理想はある。あるべき姿はイエス・キリストも説いてますよ。と同時に、やっぱり現実主義なんです。だから、「ここはこうあるべきだ」ということは命をかけてイエス・キリストは説いたけれども、実際にそういう気の毒な状況に陥った人や理想的な展開にならなかったような人に対しては、極めて、ああいう方だったんですよ。

だから、掲げる理想は本当に高いですよ。だけども、それを生き抜けない人に対しては、一派はものすごく、はっきり言って慈しみ深いんですよね。ですから端的に言うと、ローマ法王も言っていますけれども、イエス・キリストは「偉大な現実主義者」であったと。

つまり、「ここはこうあるべきだ」ということはイエス・キリストは説いたけれども、同時に目の前に来た人間が困っているならば、それはやっぱり追い詰めたり「あんたひどすぎじゃないか、なんでこんなことした」というようなことは決して言わなかったんです。

ですから、そういった捉え方をすると、イスラム教というのも、僕はほとんど知らないけれども、もともと創始者がマホメットさんですけど、マホメットのイスラムの教えも現実的で。当時やっぱり戦争を戦った兵士がかなり多く死んでいった時代で、そうすると残された未亡人は、当然生きていかなくちゃいけませんから。基本的にやっぱり、人間っていうものはたくましく、どんなことがあっても生きて生きて生き抜く、というのが宗教の教えなんですよね。

一応そういうふうに、私が若いころに大学で学んだことをお話しいたしました。

基本的に将棋でプロになるには才能が必要

あとですね、いろいろあるんだけれども……大山名人とは125局戦ったんですが、将棋はだいたい平均125手で勝負がつきますけれども、大山先生と私はね、1手1分以内に指す戦い方、と言うのはですね、私も1分で50手を指し、大山先生も残り1分で50手を指した将棋というのはいっぱいあります。残り1分の中でということは、1分以内に指さないと負け、という規則です。

残り1分の中ですべて良い手を指してですね、戦った将棋というのはね、大山先生と私では、ずいぶんあります。

例えばNHK杯戦というのがあるんだけれども、普通は持ち時間(考慮時間)というのは6時間だったり、タイトル戦は9時間です。そういうふうに、長時間の戦いを我々は戦い抜く。なんでかと言いますと、主催者側は、「長時間の持ち時間によって2人のライバルが戦ったら、悔いのない戦いができるでしょう」ということで、持ち時間は多いんです。

ですが、NHKのようなテレビ番組では、早く勝負がつかないといけませんから、持ち時間がだいたい20分です。その持ち時間が20分の戦いの中で、私は7回、優勝してます。それから大山名人が8回、羽生善治さんが10回優勝してます。

まずこれはですね、まあ客観的に「天才」と言っていいでしょう。というのは、短い時間で一番いい手を指せるというのは、これは才能ですよ。私は小学校4年生のときに「私はプロになれる」と思ったんですけれども、藤井聡太も15歳で四段ですよね。才能豊か。

いろいろな受け止め方があると思うんだけれども、1つは基本的に、将棋というのはプロになる場合、やっぱり才能がないといけません。才能があるうえに、研究して、勉強して、大成する、というのが理想なんでしょうね。やっぱり将棋の場合は、才能というのは必要だと思うんです。

「上には上がいる」と悟った瞬間

僕が聞いたところによると、本当にあった話なんだけれど、今の将棋の棋士の中で、中堅の棋士から間接的に聞いたんだけども、その中堅の棋士はね、若いころに自分は「将棋の天才」だと思ったんだそうです。

ところがそういう若手棋士はね、将棋連盟に来ちゃうんですよ。そうするとね、「天才」という人たちがいっぱいいるということに、はっきり言って驚いたと語っています。その棋士は驚いたといいながら、まじめに精進して、中堅の棋士としてがんばっていますが。

小学校1年のときに、体育の時間にプールがあったのですが、当時、終戦直後に日本でプールがあった学校というのは、ほとんどなかったそうです。私の住んでたところは企業城下町なんですよ。なのでプールがあったんですね。体育の時間に友達と、ヨーイドンでプールに飛び込みました。飛び込んで、潜ったんですよ。それで、潜って頭上げようと思ったときに、私は「きっと1等になってる」と思ったんですよ。

実際に頭を上げて右、左を見ると、なんと驚いたことにですね、私の遥か先を友達が泳いでるんですよ。これでね、「やあー」と思って驚きました。それでね、ここが私のおもしろいところですよ。

(会場笑)

あの、みなさん私がその瞬間、なんて感じたと思われます? これは当てる人はいないでしょう。私はその瞬間に思った。「これは、やっぱり上には上がいる」というのを悟った。

(会場笑)

私の人生の中で、どうしても私の上に立ちはだかる壁があって、上には上があると悟ったんですけれども、実際に私のプロ棋士としての、初期ですね。昭和35、6年ごろは、私の前に二上達也という秀才がいました。二上達也さんとは、99局を生涯に戦った、ライバルです。ありのまま言いますと、99局戦って、私が1回負け越してます。すごい人ですよね、二上達也。

二上達也さんとは、大きな勝負で負けることが多かったんですよ。それで、昭和41、2年ごろになってから二上さんに勝てるようになったんですけれども、最初の4、5年間は、二上達也さんは私にとって壁でした。

将棋の世界はフランクな世界

例えば大山名人や升田先生は、なぜか不思議に、もちろん相手は天才棋士で名人ですから強いに決まってますけども、この大山・升田両巨匠を壁と思ったことは、1回もないんですよ。その理由は、私が小学校の6年、中1くらいのときに、升田先生と大山先生に出会って、それから将棋も指してもらった、ということがやっぱりあると思うんです。

子どものころに両先生と話をしたり、あるいは将棋を指してもらって、それがやっぱり両名人を壁と思わなかった理由だと思います。大山先生も升田先生もね、そういった子どものころからの、懐かしい間柄なので、将棋の戦いは厳しかったけれども、将棋を離れたら、良好な関係が続きましたね。

僕はあらためて思うんですけども、将棋の棋士の世界というものはですね、何事も基本的に先輩後輩というものがあるんだけれども、はっきり言って、その間柄というのは、無きに等しいくらいの感じですね。

例えば先輩に天才の名人がいても、「俺は天才で、君たち後輩は俺のこと大切に、言葉遣いだって気をつけなさいよ」という名人、達人は、将棋の世界にはいないんですよ。わりあい、フランクなんですね。

だから今のところ、将棋の世界は何事も基本的に問題が起こったら、例えば2人が戦うタイトル戦で、なにか不測の事態や問題が発生した場合は、「話し合いで解決する」ということになっています。

どんな大きな勝負でも、問題が発生することは、ほとんどなくて、100分の1くらいです。今まであった実際の例で言いますと、こんなことはけっこうありましたね。

あれは確か、なんだったかな……2人の名人戦で、一方の棋士が大きなうちわで、音を立てながら扇いでおりました。すると対戦相手が、委員に向かって言いました。「相手のうちわの音がやかましいから、やめさせてほしい」と。そういう申し出をしました。そういった場合、委員会というのがありまして、4~5人で協議をして答えを出します。

そのときは、こういう裁定でした。つまり「うちわを扇いでいる棋士は、自分が考えているときはそのままでよろしい。それで、相手が考えている時は、そのうちわで扇ぐのをやめなさい」という裁定でした。