子育てと企業経営を両立する、池原真佐子氏

池原真佐子氏(以下、池原):こんにちは。池原真佐子です。私のやっている仕事は主に2つあります。企業や組織のリーダーに向けた組織変革やコーチング。エグゼクティブコーチング。あとは自分自身がキャリアや結婚や出産ですごく迷ったということがあるので、産後の女性のキャリア支援「育キャリカレッジ」を1つの柱としてやっています。

今、子どもが11ヶ月半、来週お誕生日で1歳をようやく迎えます。

新條隼人氏(以下、新條):おめでとうございます。

池原:ありがとうございます。臨月から夫が単身赴任になって。そこから1人で産み、1人で育てて、というところで今、ようやく1年が経ちます。夫とテレビ電話でつないで、常に子どもの様子を共有しながら、夫婦離れた子育を実践中です。

夫もやりたいことがある。私もやりたいことがある。でも、家族が一番大事というなかで、どうみんなの夢を叶えていくのかということを大きなテーマです。

バックグラウンドを簡単にお話します。福岡県出身で、大学で早稲田に入学しました。早稲田の大学院に進学し、成人教育、大人がどうやって変わるか、そういう場をどうやって作るかということを、オーストラリアを事例に研究していました。

新卒でPR会社に就職をします。そのあと、国際教育NPOに転職をし、プログラムオフィサーとしていろんな教育関係の事業企画に携わりました。

次に「職場での成長」ということをもっと追求したくなり、コンサルティング会社の人材開発部で、国内外のコンサルタントの育成の仕事をして、その途中でINSEAD(注:フランスに拠点を置くビジネススクール)に入学をします。

INSEADは、MBAの印象が強いと思うんですが、コーチングの修士がパートタイムで取れるんですね。日本とシンガポールを通いながら修士を取り、その途中でMANABICIAを起業しました。

軸としては、大人の学びとか変化、どうやって幸せに大人が変わっていくかということをずっと追求してきました。

司会者:ありがとうございました。拍手でお願いします。

(会場拍手)

自分に自信がなかった幼少期

司会者:では、続いてトークセッションに移っていこうと思います。よろしくお願いします。

新條:それではトークセッションに移っていければと思います。今日大きく3つテーマが設けております。今のお仕事というか、ビジョンにたどり着くまでの背景をうかがった上で、自信とキャリアというテーマでやっていければなと思っております。

今日、学生の方はどれぐらいいますか?

(会場挙手)

新條:では、ご結婚されてお子さんがいらっしゃる方は?

(会場挙手)

新條:ありがとうございます。それでは、簡単に背景のご経験のところから少しうかがっていければと思います。福岡のご出身というところで、自分に自信がすごくあるわけではなかったというお話をうかがったんですが。小さい頃の経験というか、幼少期ってどんな生活でした?

池原:小学校から高校まで一貫の学校に通っていました。小学校の入学式ぐらいから挫折がはじまりまして。

新條:小学校の入学式から(笑)。

池原:容姿が日本人らしくないということもあり、いじめられました。入学と同時にいじめスタートという、暗い小学校時代。

新條:なるほど。

池原:ですので、自分への自信がありませんでした。

新條:いきなりあれですけど、ご自身の容姿ってあんまり好きじゃなかったんですか?

池原:好きじゃなかったですね。変えられるものと変えられないものってあるじゃないですか。見た目ってどうしようもないので、「外人」って言われても、「外人のなにが悪いんだろう?」って思ってました。

選択肢のなさに苦しさを感じた

新條:なるほど。親御さんは学校の先生をやられていたんですよね?

池原:そうですね。両親は学校の教員でした。自然に家の中で、教育の話はありましたね。

新條:ベタな話ですけど、小さい頃、例えば将来なにになりたいとか、小学生、中学生ぐらいの頃、なにになりたいとかありましたか?

池原:小さい頃は身近なことしか想像ができなかったので、「学校の先生になりたい」と言っていました。

新條:親御さんから「先生になれ」とかは言われなかった?

池原:言われてましたね。「公務員最高」って(笑)。

(会場笑)

池原:「公務員はいいぞ。安定してるぞ」って。

新條:なるほど。じゃあ例えば小学校の受験とかも、わりと親御さんが、「こういう学校に行きなさい」とか言ったんですか?

池原:小学校受験は意識がないまま連れて行かれて、気がついたら入っていたので、選択肢がない。中学も「違う中学に行きたい」とか、高校も「違う高校に行きたい」っていうのをすごく主張したんですけれども、認められず、却下されました。

新條:ちなみに「ほかのとこ行きたい」というのは、どんなモチベーションだったんですか? 合わなくてとか?

池原:狭い世界にいるというのが嫌で。閉じられた12年間でした。校則も厳しく、外部との接触もあまりない。小学校の頃は髪型も決まっていましたし、遠足の持ち物も、おやつの種類も全部決まってました。

新條:おやつの種類も決まってるんですか?

池原:飴玉3個(笑)。

新條:それもう支給にすればいいのにね(笑)。

池原:支給でしたね。

新條:あ、支給だったんですね。なるほど。

池原:差別が起きないように。

新條:へえ。

池原:なんかもう、苦しくて、苦しくて。

教育学部を選んだ理由

新條:福岡にお住まいで、大学から東京に来られて。

池原:そうですね。実は一度大学受験に失敗しています。東京の大学を受けたいなってぼんやり思い、ぼんやり受けたら全滅でした。

新條:なるほど。高校生の時とかって、さっきの小中学校よりはもう少し選択肢広がるじゃないですか。例えば専門学校行かれる方もいらっしゃいますし、就職する方もいらっしゃいますし。

そのなかで、例えば東京の大学に進学しようという理由もそうですし、例えば教育学部に行ったのって、どんな背景が?

池原:当時はまだ選択肢があまり許されていなくて、「行くなら広島大学までだ」と。「そこが限界だ。そして国公立に行って欲しい」。そんな感じでした。

新條:地理的にっていうことですか?

池原:地理的に。

新條:へえ。

池原:自分なりの反抗として「東京へ行く」ということを押し切って受けました。ですがその中でも「教員免許だけは取得しなさい」など、けっこう縛りがありました。

新條:それ縛るのは、学校じゃなくて親御さんが?

池原:そうですね。両親と祖父母が「女の子で働くんだったら先生になるのが一番」だと言われましたね。

新條:それあれですよね。別に良い・悪いの話というよりは、価値観的に「こんな人生を歩んでほしい」というのを言われてたんですね?

池原:そうですね。一部では保守的ではあるんですけれども、一方でずっと「女性は働き続けなければいけない」とも言っていました。なぜなら「経済的な自立というのが自分の人生を切り開く。主婦になってもいいんだけれども、なにかしら自分で生きていくスキルを身につけなさい」と。

当時、母親が選んだのが教員という安定した職業だったので。両親はその世界しか知らないので、それが私が将来にわたって働ける職業だろうということでだろうって勧めてくれていたのだと思いま。

反対を押し切って東京へ

新條:なるほど。ご兄弟はいらっしゃいますか? 

池原:兄がいます。

新條:お兄さんも同じように、その教育方針で?

池原:まったく私と真逆の人生です。

新條:あ、そうなの(笑)。

池原:兄は私より先に反抗をしていましたね。不良になってみたり。

新條:なるほど。

池原:だから、いい子でいようと思ったのかもしれません。なにかしら親の期待に沿って、女の子だし、堅実に生きていかなきゃなという意識はたぶん人一番強かったと思うんです。

新條:ちなみに、そういうご兄弟まで含めた期待というか、親御さんの意見があるなかで、東京は譲らなかったのってなにが大きい?

池原:なにかしらここで自分で行動を起こさないと、一生自分の人生を歩めないなと思ったんですね。なので、もう東京だけは譲らない。

親とも祖父母とも、勘当するぐらいの勢いで「東京に行くんだ!」と主張していました。1年間浪人したんですけれども、ひたすらに勉強ばかりしていた浪人時代でした。

新條:それってたぶん上京とか受験だけじゃなくて、例えば転職とかでも言えることかもしれないけれども、その行動って、心理的にそれを続けちゃまずいと思ったのってなんでだったのか?

池原:人間って直感が働くと思っていて。「このままじゃまずいぞ」っていうセンサーがあったのだと思います。私は田舎町で育ったので、都会を知ってるわけではない。ただ、ここにいると自分は苦しい。そこで「違う場所に行きたい」っていうエネルギーが湧いていましたね。転職も同じだと思います。ここは違う。では合うところはどこだろうと。

キャリア変化の5つのステップ

新條:じゃあ、決して「こうなりたいぞ」というのがむちゃくちゃクリアじゃなくても、今に対する違和感で環境を変えてみようというのが1つあるのかなと。

池原:そうですね。キャリアが変わる時には、プロセスがあると言われています。

1つは、「今いる場所が違う」ということ。それはキャリアの変化のスタートです。次が「もやもやして先が見えなくなる」。その次が「選択肢が出てくる」。その次が「選択肢が絞られる」。そして最後が「行動する」。というのがキャリアの5つの変遷です。

今思うと、自分は常に「なんか違う」っていう違和感にわりと正直だった。

新條:なるほど。理論と実際のご自身の経験のバランス取りながらうかがっていければと思います。実際に東京に出てこられて、ガラッと関わる人や環境が変わり、かつ、教育支援や多文化政策というトピックに関心を持たれるようになるんですけど。大学時代は東京に来てなにが変わりましたか? 

池原:多様な人と触れ合ったことで価値観が変わりました。人種のるつぼとまでは言わないですが、様々場所から来た人たちがいる。衝撃的でしたね。

新條:入り口の時って、「学校の先生になれ」というのは、まだ厳しく言われてという感じでしたか? もう大学の時は変わってたんですか?

池原:受験の時は、「先生にはなりたくない」と思っていました。ただ、教育自体には興味があったので成人教育を選択します。

新條:「先生になりたくない」というのはなぜ?

池原:人が学ぶというのはすばらしいと思うのですが、一方で、個性を潰すところだとも思っていて。でも、大人になって変われることを研究する成人教育という分野があると、当時知って、それだと思って選びました。

新條:じゃあ、けっこう大きな思想としては、このへんからかなり重心が。

池原:そうですね。もうかなりありました。

「生きててもいいんだ」という証明がしたかった

新條:実際に大学から大学院まで進学されて、わりとNPOとかとかインターンシップの経験があったと思うんですが、大学ってある種、がんじがらめというよりは、ご自身がなにに時間を費やすか選べるところがあると思うんですけれども、一番時間を使われていたことはなんの分野なんですか?

池原:2つあります。1つは、海外に目覚め、留学をしたりバックパッカーで旅をしたりしていました。大学1年の時にはじめてパスポートを取って、そのままヨーロッパ1周を皮切りに、あちこちへ旅行をしました。

旅をする中で、黒人の人もいればヒスパニックの人もいて。「私が見た目でいじめられてたのなんなんだろう?」という疑問を深く考え、多文化教育を学ぶことでいじめ体験が昇華できた。

あともう1つは、今しかないゆっくりした学生時代を、味わって過ごすことを意識していました。友人たちと朝まで政治や哲学や宇宙について話したり。一見どうでもよく見えるような話を深くする、ということをやっていました。

新條:じゃあ、わりとご自身の志向性としては、さっきの成人教育の話も含めて、自分で少し押さえがちで苦しかった部分であったりとか、さっきのいじめとか、フラストレーションを抱えていたことを解放するような分野に関して関心を持たれたと。

池原:そうですね。まさにそうだと思います。「自分が生きててもいいんだ」という証明をここでしたかったんだと思うんですね。

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