ナブラチロワ選手のカミングアウトについて

記者1:フランスのインターネットテレビ、ゲイレポーターのサカイユウトです。よろしくお願いします。レズビアンであることを公表されました(マルチナ・)ナブラチロワ選手の用に、スポーツ界にはLGBTの選手が少なからず存在しますけれども、ナブラチロワさんのカミングアウトを、その当時はどのように受け止められましたか?

(会場笑)

記者1:また、現在のスポーツ界におけるLGBTの選手の状況をどうお考えですか? それと関連しまして、26歳の僕から見ても、伊達公子さんはまばゆく素敵な女性でいらっしゃいますが、伊達さんが今お付き合いされている方や、意中の方はいらっしゃいますでしょうか?

司会者:質問は1つに限らせていただきますので、最初の1問のみの解答とさせていただきます。

伊達公子氏(以下、伊達):ナブラチロワ選手というのは、私にとって子供の頃からいつもテレビでウィンブルドンやグランドスラムの試合を見ていた憧れの選手でした。プロになってから、彼女と同じコートで接する機会を得るようになってから、私が覚えているのは……確か19歳か20歳頃だったと思うんですが、ウィンブルドンの前哨戦か、どこか芝のコートだったことを覚えているんですけれども。

「公子、練習しない?」ということで声をかけてもらって、一緒に練習したのはあまりにも興奮して、練習中は「練習にならなかった」と思われることがすごく嫌だったので、必死になって練習したのを覚えています。

残念ながら、実際の試合で対戦する機会は得ることができなかったんですが、彼女とはその後も話す機会もたくさんありましたし、先ほどお話したカムバックする前のエキシビジョンというのも、彼女と一緒にやる機会を得ることができていました。

彼女がレズビアンであるということをカミングアウトしたことは、私にとってはとくに大きな問題ではなく、彼女を人間として、テニスプレイヤーとして、女性としても非常に素晴らしい方だと。常に子どもの頃に憧れていた存在の人、そして人柄を知った上でも素晴らしい人だなということを、常に思っています。

ソフトを充実させることに関わっていきたい

記者2:第1キャリア、第2キャリアということでお話いただきました。それから非常に価値の高い経験についてお話いただいたことをありがたく思いますが、将来の予定についてお聞きしたく思います。

別のインタビューで「コーチになるつもりはない」とご回答なさっているのを聞いて、個人的には残念に思いました。伊達さんの豊かな経験は、若手選手にとって価値あるものになるかもしれないと思うと残念なのですが、今後のご予定について、少しお話いただくことはできるでしょうか?

伊達:コーチングというお話は、もちろん今回の引退を期に「コーチングするの?」と聞かれることも多いですし、これまでにもそういったお話をいろんな会話の中で聞くことはあるんですが、コーチというのは私は自分が選手をやっていただけに、タフさ、難しさというものはわかっているつもりです。

コーチということを一言に言っても、いろんなコーチがあると思っています。教える年代によっても教え方は随分変わってくると思います。本当に小さな子どもたちがテニスに出会うきっかけを与えるコーチもいれば、思春期を迎える、身体がまだできあがっていない年代を教える場合、また14歳から16歳の年代を教える場合。また、プロに行った後のコーチ。それぞれによってやるべきことというのは大きく変わってきます。

また、自分がプレイをする側と、それを言葉にして伝える側になる場合には、自分自身も勉強が必要になると思います。ということを自分自身は思っているので、現時点ではコーチになる考えは私の中にはまだ生まれてはいません。

ただ、この9年半、セカンドキャリアの中で私は本当に今、日本の女子のトップを走っている奈良くるみちゃん、尾崎里紗ちゃん、日比野菜緒ちゃんとトップ100にいる3人がいますけれども、その3人とはこの9年半をずっと過ごしてきているので、彼女たちからいろんな相談を受けたりする機会もたくさんありました。

その時には、自分が経験してきたこと。プロのツアーのなかで必要なこと。教えられることというのは、これまでもやってきたつもりです。

コーチ以外ということで、これから引退した今やっていきたいということは、もちろん日本のテニス・スポーツにおいてももっともっと環境が整い、これから東京オリンピックが来るので、いろんなことがスポーツ界においても変わってくると思います。

その中でオリンピックだけでなく、日本のなによりも柱になっている錦織圭という男子のプレイヤーがいますが、一時的なものではなく、もっと長いスパンで、本能の意味でテニスというスポーツが日本のスポーツにおいて定着していって、どの時代にもかならずテニスというものが大きな位置づけとなるスポーツになるためには、もっともっと施設、そしてソフトの部分でも充実させることに関わっていきたいということは考えています。

錦織選手がトップ5にい続けるのは本当にすごいこと

記者3:あおい総研のコバヤシと申します。私も中学生の頃から軟式テニスを始めまして、もう半世紀、下手の横好きでやってますけれども。

私の質問は、素人で恐縮なんですが、初歩的な質問なんですが、昔、熊谷が世界を制した時に彼がやったのは、ウエスタングリップの軟式のやり方でやったわけですね。

それで私も最近、軟式と硬式と両方やってるんですけれども、要するに軟式のほうが強く打てる。スマッシュとかボレーなんかでもね。こういう感じでやりますので。それで、非常に伊達さんが、ライジングボールですか、こう弾んでくるやつをいきなりというのはすごく攻撃的なあれでね。私もすごくたいへん憧れてたんですが。

要するに、今やっぱり日本の錦織選手なんかがナンバー1になかなかなれそうでなれないというのは、あれはやっぱり、どうだろうか……要するに、軟式のウエスタングリップで調整したらどうだろうかということを、非常に素人考えでかねがね思ってるんですね。

お笑いになるかもしれないけれども、いかがでしょうか?

伊達:私、軟式のグリップがどれぐらいのウエスタンかはわからないんですけれども、錦織君のグリップは十分私にしてはウエスタンだと思うんですけれども(笑)。

彼には一度もう肘を手術してる経験もありますし、あれ以上ウエスタンになったら……と思うぐらい、私にしてはウエスタンだと思います。

今のテニスはラケットの進化もあり……ほとんどの私の年齢は比較的、まだウッドの時代でテニスを始めましたので、「ボールを打ったら、ボールを押す」って教わった世代ですけれども、今の若い選手たちというのは、とにかくもうボールはひっぱたくという感覚でやっている選手たちなので。

錦織君の場合も、今みなさんの期待がナンバー1・グランドスラムの優勝ということにターゲットがいってると思うんですけれども、彼の身長で彼の体格でやっぱり世界のトップの中にい続けるということというのは本当に難しいので。

あの体でやっぱりトップ5にいたというのは、またい続けることというのは本当に簡単なことではないし。

今、手首の怪我をしましたけれども、怪我というのはどんなに若い選手でも、どんなタフな選手でも、ナダルですらやっぱり膝の怪我で一時期はツアーを離れなきゃいけない時があったので、ましてや彼の体でってことを考えると、怪我が起きることもいたしかたないのではないのかなと。

まあ十分……それにもちろん満足することはないんですが、今いることがすごい大変なことだということは、みなさんに理解をしていただきたいなと思います。

左のフォアハンドを打てるのはなぜ?

司会者:伊達さんは、ペンが左手で、お箸が右手で、ラケットは基本右で。でも、私たちは伊達さんがプレーしてるときにラケットを左手に持ち変えるとワクワクするというようなかたちで拝見しているんですけれども。

今、グリップとかちょうど話が出ましたので、この点についてなにかコメントがあればお願いします。

伊達:私はもともと物心ついた時からすべて左だったんですけれども、親から厳しく「右手に直しなさい」と教わって、一生懸命右にすべて直して。食べるのは右に直ったんですけれども、字は直りきらず左。

テニスを始めた時は、先ほど言いましたけれども、6歳なんですけれども、とくに今の時代みたいにテニススクールがあって、スクールに行って習い始めたというわけではなく、会員制のクラブに両親がメンバーになって行ってたところに、私がまだ小学校1年で小さかったのでついていったことがきっかけでした。

その時にレッスンを受けてたわけではなかったので、見よう見まねで人のラケットを取って、ボールをメンバーの人と打ってもらったので、みんなの真似をしたんですね。その時にほとんどの方が右利きだったので、「ラケットは右で持つものなんだな」と思って右で始めたので、テニスはずっと右です。

そののち、中学時代に行っていたクラブでコーチが私が左利きだということを知って、「左利きなんだったら左手で練習しなさい」と言われて。「お昼休みに必ず壁打ちに行って、左で100回できるまで終わっちゃいけない」って言われて。

左でフォアハンドの壁打ちをその当時毎日やっていたので、左のフォアハンドだけは打てるようになったので、いつしか試合のときに、もう届かないと思ってパッと左で持ち替えたら打てるようになってから、隠し技になりました(笑)。

(会場笑)

負けず嫌いでないとトップにはいけない

記者4:Haruko Watanabe、HKW。あれだけのtalentedな女性プレイヤーができたので、もう少しグローバルに活躍するかと思ったら、伊達さんだけがサバイブしてるんですよね。

これ伊達さんのこのセカンドキャリア、もしかしたらサードキャリアにいくかもしれないんですが、このサバイバルの根本にあるものっていったいなんでしょうかね? ほかのプレイヤーと伊達さんをdistinguishするphilosophyというかtheoryというのか、それはなんでしょうか?

孫がテニスプレイヤーになって非常に優秀になっておりますので、孫がぜひそれを聞いてほしいと言っていましたので、お願いいたします。

伊達:なにが違うかというと……すごく難しい質問ですけれども、私自身がいつも感じていたことというのは、とにかく目標、なんのためにプロになったのかということを、やっぱりただ……。

私のセカンドキャリアはツアーを楽しむということがすごく大きな意味を持っていたということは言ったんですけれども、でもやっぱりプロになる以上、やはり私はグランドスラムの本戦に出場するという。

やっぱり目標というものをしっかりと選手が持っていなきゃいけない。その目標を達成するためにじゃあなにが必要なのかということをやっぱり実現していかなければならないと思うんですけれども。ということがまず1つ大きな大事なことであって。

私は18でプロになった時にコーチに言われた言葉というのが、「1年以内にグランドスラムに出れなかったら、もうプロはやめろ」とは言われていたんですね。

なので、右も左もわからずプロになった時というのは、本当にもうそれを実現しないとやっぱりプロとしてやっていけないんだなという危機感というか、とにかくそれを実現しなきゃいけないという気持ちだけがいっぱいいっぱいでしたね。

もう1つはやっぱり、私も世界をまわっていてトップの選手たち、シュテフィ・グラフ、モニカ・セレス、アランチャ・サンチェス、サバティーニ、たくさんの、第1キャリアの時に、本当に勝負にどっぷりハマってた時の選手たちはみんなそうでしたけれども、やはり負けず嫌いで通ってる私ですら驚くぐらいみんな負けず嫌いでした(笑)。

(会場笑)

その負けず嫌いという気持ちが、「私なんてかわいいもんだな」と。

1つよく覚えているのが、当時、私はアトランタオリンピックに出てたんですけれども、アランチャ・サンチェスと試合をして、それに勝てば銅メダルだったんですが、マッチポイントを持っていながら負けてしまったんです。最後の最後、もうすごく暑くて。後半、ファイナル確か8-6とかで負けたと思うんですけれども、痙攣をしていて。彼女を見ても確かに痙攣をしているんですけれども。

もう試合も負けちゃって、彼女は勝って、ロッカールームで「暑かったね。きつかったね。痙攣したでしょ。私もきつかった」って言ったら、「ううん、してないわよ」って言われて。

(会場笑)

そののち、もう私も引退して、カムバックした時に、もう彼女は引退してマイアミで会ったんですけど、その時に「私はあの時、痙攣してきつかった」って、もう長い年月を、やっと彼女はやっと認めてくれたんですけれども。

(会場笑)

それぐらいのみんな負けず嫌いなので、やっぱりそれだけの気持ちを持ち合わせていないとトップにはいけないのかな、というのはすごく感じました。

引退後の社会活動

記者5:先ほど名前の出たナブラチロワ選手は、引退後、同性愛者の権利向上や動物愛護などの社会活動に取り組んでおられますが、伊達さんは引退後なにか社会活動をしたり、取り組みたいこととかお考えでしょうか?

また、座右の銘や好きな言葉、落ち込んだときに聞く歌などがあれば教えてください。以上です。

伊達:第1キャリアを終えたあとというのは、私はさまざまな活動をした中の1つとして、途上国に訪れて。JICAのオフィシャルサポーターをしていたということもありまして、途上国に行って現状を知るということももちろんそうですし、視察をして。

というなかで、途上国ではなかなかスポーツをする機会というのは少ない国が多いので、やっぱりそこの中でもスポーツ、そののちに、スポーツができなくてもやっぱりスポーツをすることの楽しさを知ってもらったり、スポーツをすることの楽しさを知ることによって、そののちにまた自分の生活の中で生きる力というものを身につけてほしいというところから、そのような活動をしてたんですけれども。

ただ、再チャレンジ、カムバックをしてからというのは、いろんな国に行くチャンスというものも、時間を割くことが難しかったのでその活動もいったんストップをしていたんですが。

これからまたどのような活動をするか考えていくなかで、もちろん社会貢献というのは自分の中でもやっていきたいという気持ちは1つあることにはかわりはないので、また考えていきたいなと思っています。

また、一度ラオスのほうにも学校を作った経緯もあったりしてるのでそういうところにも、自分で作った学校というものに訪れてみたいなという気持ちもあります。

好きな言葉は……いつも、この9年半もそうでしたけれども、いろんなことにチャレンジすることは大好きですし、常に自分のこの9年半の中にもチャレンジというのはいつもあったかなと思います。