脳科学発展の歴史

中野信子氏(以下、中野):今日のテーマは「脳科学と世界の中の日本」ということで、お話させていただきたいと思います。

まず、「脳科学」について、私が今問題だと思っていることを列挙してみました。「脳科学者」という呼称の問題についても少なからぬ声を聞きますが。脳科学は従来の神経科学や認知科学と違って、いわゆるポピュラーサイエンスなんじゃないか、という視線も感じられるように思います。

脳の研究というのは、どうしてか多くの人の興味を惹きます。脳のことをもっとよく知りたいと思う人がたくさんいます。このこと自体は、学者の側は本来、歓迎すべきことなのだろうと思います。

しかしながら、多くの場合は国民の税金を使って遂行したはずの研究が、その成果が国民に還元されていくという作業が十分であるとは言えない状況があるのではないか。

果たして脳の研究を、一般的な視点、あるいはもっと踏み込んだ言い方をするなら「ユーザー」側として見ていった場合に、どこまで「使える」のか? なにが本当でなにが嘘なのか。どの程度までその結果は信用できるのか。

ここに来ている学生のみなさんはアカデミックの世界に触れるところにいるわけですから、ちょっとでもリテラシーを高めていっていただきたいなと思います。

さて、人間の行動は脳で決まると考える人が多いようなのですけれども、それではそう仮定するならば、脳機能が形成されるうえで重要なのは、生まれなのか、それとも教育・育ちなのか。これに関してもお話していきます。最後のほうになってしまうかもしれませんが。

では、脳科学の発達、発展の概要について、ちょっとおさらいをしてみたいと思います。ここにきていらっしゃる学生さんはこういうことはあまり系統立てて学んだことはないんじゃないかなと思ったので、少しまとめてみました。

脳科学という言葉、20年前には聞かなかった言葉だろうと思います。20年前はこの領域の学問をなんて言っていたかというと、神経科学、ニューロサイエンスと言っていましたね。細々と「認知科学」「認知心理学」もありました。それから、「大脳生理学」という呼び方もありました。この時代と今との違いは、脳を生きたまま見ることができる機械の違いです。

PETとか、脳磁図、脳波を見る機械はありました。ただ、生きた状態の脳を、そのまま、どこが機能しているのかを数秒程度の時間分解能で追っていくことはできなかったんですね。これを可能にしたのが、現在多くの研究機関で使われている、ファンクショナルMRIです。

それでは、神経科学と呼ばれている領域はどういう内容を扱うものかというと、分子とか細胞といった微視的レベルからマクロまで扱います。神経生物学、という言い方もあります。じゃあ認知科学っていうのは何なのか。これは耳慣れないかもしれませんが、みなさんが今イメージされているいわゆる「脳科学」というのが認知科学に近いかもしれないなと思います。

何かを見た時にどこがどう反応するか、聞いた時にはどこがどう反応するか。あるいは、誰かに愛情を感じた時にはどこが反応するか、美人を見た時にはどこが反応するか。ヒトが外界からの刺激をどう処理して、どういう受け止め方をしているのか、これを「認知」と言いますが、その様相を明らかにするというのが認知科学です。いろいろな分野を含んでいて、ちょっと学際的な側面もあります。

先ほどもご紹介しましたとおり、長らくヒトの脳を適切な時間分解能、空間分解能で観察することができなかったために、脳のことを研究する、という流れでは神経科学の歴史のほうがずっと長かったわけです。どちらかといえば、権威があるとみなされているのは認知科学よりも神経科学のほうでしょう。

それでは、神経科学、脳科学の大雑把な歴史をご紹介していきましょう。

神経系の構造研究で100年以上前にノーベル賞を受賞

1906年、もう100年以上前ですね、この年に、ノーベル生理学・医学賞を取った、ラモン・イ・カハールという人がいます。そして受賞者はもう1人いました。カミッロ・ゴルジという人です。この人の名前は、聞いたことがある人もいるでしょう。細胞内小器官の「ゴルジ体」はこの人の名前から名付けられています。みなさんは、理科で生物を選択しましたか?

この2人は、対立する2つの説を立てていました。この年のノーベル生理学・医学賞の受賞テーマは、神経系の構造研究。簡潔にいうと、神経細胞同士がくっついているのか、それとも離れているのか、という問題についての研究です。

神経細胞同士の間には隙間があって、その間をなにか正体のわからないものが行き来して信号が伝わっていくのか――これをニューロン説といいます、それとも接続してそのまま信号が伝わっていくのか――これを網状説といいます――をめぐって、論争を繰り広げたのです。信号というのは、つまりは情報のことです。前者を主張したのがラモン・イ・カハール。後者を主張したのがカミッロ・ゴルジでした。

この時の受賞記念講演はまったく正反対の立場から行われたようで、その場にいたらきっとおもしろかったでしょうね。後に電子顕微鏡が開発されて、よりミクロに脳の構造が見えるようになっていくと、神経細胞同士の間に隙間があって、実際には直接の接続がなく、神経伝達物質の移動によって信号が伝わっていくんだということがわかった。カハールのニューロン説に軍配が上がったというわけです。

じゃあ一方で、もう少しマクロな脳研究の歴史はどのようなものか。これは19世紀に遡りますけれども、「機能局在説」っていう説があったんですね。今もそれの延長が幅を利かせていると言えなくもない状況ですけれども。脳の特定部位が固有の機能を担っているのである、という考え方です。

こういう考え方が生まれてきたのは、損傷研究が元になっているようです。脳の一部に損傷を受けて、機能を失ったけれども一命はとりとめた、という症例の研究です。

教科書的な例が「ブローカ失語」です。左の前頭葉が損傷を受けて機能を失うと、発話に障害が現れる。この発話の障害はどういうものかというと、単語をボソボソとしゃべることはできるんですが、それが構文をなしていない。つまり、文法を処理することができないという失語です。

それに対して「ウェルニッケ失語」というのがあります。どのような失語かというと、これは、流暢に言葉が出てくるんです。だけれども、何をしゃべっているのかわからない。意味をなしていないんです。言葉は出てくるんだけど意味をなさないという様相の失語です。

また、別の部位では、フィネアス・ゲージという人の例が有名です。この人は、事故でパイプが脳を貫通してしまいました。前頭葉を損傷するかたちで、パイプが脳を突き抜けてしまったのですけど、奇跡的に彼は命が助かったんです。ただ、人格には著しい変化を伴いました。

非常に怒りっぽくなって、自分の行動の抑制ができない。そして、非常に粗野で乱暴になりました。この、ゲージの人格変化からは、前頭葉の損傷がその人の人格に関係するんじゃないかというふうに考えられるようになりました。

今ではタブーとなっている「ロボトミー」

もう少し歴史におつきあいください。戦後、第二次世界大戦以降の話です。1949年、ノーベル生理学・医学賞を受賞したのは、ポルトガルのエガス・モニスという人でした。この時の受賞理由は、「ある種の精神病に対する前額部大脳神経切断の治癒的価値の発見」。

みなさんは「ロボトミー」という手術をご存知ですか? 意外と、ご存知ない方もいらっしゃいます? 若い方はけっこう知らないものかな?

ロボトミーというのは、脳の一部を切除することで、その人の人格変化を望ましい方向に向けることができる、という名目で行われた手術のことなんです。現在ではあまりにも問題が大きいということで禁忌とされていますが、当時はノーベル賞を与えられるほど、すぐれた技術だというふうに思われていました。乱暴で手のつけられないような人、エキセントリックな行動を止められずどうすることもできない人を、ちょっと、脳の神経の一部を切除して、おとなしくさせよることができるというのでもてはやされたという手術です。

問題というのは、感情が消失したり、人間らしさが失われたと感じられたり、本来の自分の手術前の性格と、術後では自分自身の姿がまるで違ってしまっていることにいらだちや失望を感じたり、なかにはついには自殺してしまう例もあったそうです。さらには、その手術をした医師に対して恨みを抱え、殺害を試みようとする事件もあったようです。

ベーシックな知覚を脳に伝える機能を持つとして知られている視床という脳の一部分があるんですけれども、この視床と、前頭の皮質、新皮質と呼ばれているところ、その神経繊維を外科的に切断することで「治療」をするというのがこの手術です。それを世界で初めて成功させたということで、この人はノーベル賞を取りました。

けれども、先ほどご説明しました通り、不可逆的な人格変化を伴う、人間性を奪う問題の大きい手術だということで、1975年頃からはまったく行われなくなったのです。禁忌とされて久しいので、今ではあんまり聞くこともないかもしれませんね。

科学の怖いところかもしれません。今もしノーベル生理学・医学賞をとるような、ものすごくもてはやされるような研究があったとしても、それがもしかしたら30年後にはタブーになっている可能性は否定できないのです。ロボトミーというのはそういう事例ですけれども、脳科学の暗い歴史、黒歴史の1つといえるでしょう。

20世紀終盤に訪れたBrain Imagingの時代

いよいよ20世紀も終盤に入りますと、ようやくBrain Imagingの時代がやってきます。これは、生きた人の脳の動きを観察することを可能にする装置が開発されてはじめて、できるようになってきたものです。ロボトミーのような技術のインパクトが大きかったこともあってか、不可逆的な変化を伴わずに脳機能を測定する、これを「非侵襲的である」というのですが、これが、脳機能を測るうえで非常に重視されることです。

なかでも、比較的長い歴史を持つ観察法が、「ポジトロン断層法」という方法です。PETというふうに略されます。Positron Emission Tomographyの略称ですね。ただ、この方法はそのポジトロン、つまり陽電子を放出する原子を含む化合物を体内に入れるんですね。この原子が放出する陽電子が、そのときその化合物がどこで代謝されているのかの目印、マーカーになるわけです。

一番みなさんが馴染みがありそうなのは、MRIでしょうかね。MRIをとったことがある人もいるんじゃないかと思います。強力な磁場をかけて、特定の周波数で電波を当てると、体内の水素原子がマグネティックレゾナンスと呼ばれる反応を返しますので、その反応をした部分と強さで画像を計算して描出していくという方法です。

このMRIっていうのは基本的には構造を見るための装置です。主にどういう構造が見えるかっていうと、脂肪があるところと水があるところのコントラストをつけることができるので、そのような構造を観察するのに向いています。脳なら、脂肪の多い白質と水分の多い灰白質とかね。

じゃあ「ファンクショナル」っていうのは何かっていうと、MRIについたオプションなんです。機能をみられるMRIが、ファンクショナルMRIです。

脳にも血流が走っていますね、血管が走っています。血液は何によって酸素を運んでいるかというと、ヘモグロビンですね。このヘモグロビンが酸素化されている時と酸素を失った時で、磁化率が違います。なので返してくるMR信号も異なるんです。そうすると、酸素が脳のどこで使われたかを、擬似的に抽出することができる。これが、ファンクショナルMRIです。

この装置が出てきたのが1990年代後半です。ずいぶん最近です。ずいぶん最近と言っても、みなさんがまだ生まれたばっかりの頃かもしれません。脳科学という言葉が使われてきたのが2000年前後ですね。

多くの人の興味の対象は、神経細胞でも神経回路でも脳でもなく、どうも人間とはなんぞや、というところにあるみたい。自分がどんな人間なのか、自分の気になってるあの人はどんな人かしら。

しゃべっていると、みんな個体に興味がある、人間に興味があるようにみえる。自分や、自分の周りの人はどんな人なのか、そんな疑問に脳科学だと答えられるような感じがするから、それで脳科学に興味がある、ということみたいですね。人間の行動の源泉として脳に興味を持つという流れになっているようです。

ちょっと話が戻るようですけれども、脳の活動を可視化するには、日常の生活の中、私が例えばここで講義している、その途中に、講義を聞いているみなさんの脳を観察することはなかなかできないですね。自然な状態をそのまま直接的に観察することはほとんど不可能です。いきなり電極刺すわけにもいかないですしね(笑)。一人ひとりMRIに入ってもらって講義をするというのも、これもまた難しい。

それから、MRIはすごく大きな音がするんですね。ちょっと静かに話を聞いてもらうという環境とはいえない。また横たわってもらうので、被験者が眠くなっちゃうっていう可能性もあります(笑)。

これはファンクショナルMRIの実験をする人は誰でもすごく困っていることの1つだと思うんですけれど、被験者としてせっかく呼んだのに装置の中で寝ちゃったりするんですね(笑)。入っていただく前にコーヒーを飲んでいただいたりという工夫をする人もいます。おもてなしのために出すのじゃなくて、なるべく寝かさないようにしているわけなんですね(笑)。MRIの実験をやった時にコーヒーを出されたら、「あぁ、そういうことか」と思っていただければと思います。

脳の活動を計測する方法。(スライドを指して)これがみなさんから見て左側がPETです。右側がMRIです。見たことありますかね? 下にある画像がどんなふうに画像が凝縮されるかという例です。PETのほうがちょっと解像度が低いですよね。MRIの方が少し解像度が高い。

PETはすごく大まかな時間変化だったりとか、大まかな場所というのを調べるのには向いています。MRIというのはもうちょっと細かい時間、数秒単位で変化を見ることができます。

だいたいここまでが概要です。