多田氏と福岡氏の生命論との差異

柴村登治氏(以下、柴村):途中でちょっと話をさえぎってしまったんですけれども、池田先生の方から「話が長くなりがちなので時間を見て区切ってほしい」と言われていたからで、もしそのことで不快な場面がありましたらお詫びいたします。

私は先生方お2人を心より尊敬しております。

福岡先生は今回の仕事について、先ほど「渾身の」というお言葉もありましたが、メールに「燃え尽きました」と書いてくださったこともあります。

池田先生も、これも覚えていないと言われるかもしれませんが、この仕事に対して、「自分の人生をかけて」とか「生涯をかけて」ということも仰っていただきました。ここ半年くらいはほぼ毎日ショートメールまでいただくようになり、さまざまなことをご教示いただいたことに、本当に心から感謝しております。

福岡伸一氏(以下、福岡):哲学者はどんどん壊しているから過去のことは覚えていないんです(笑)。昨日の私は今日の私ではない、みたいな感じで、未来を含みながら進んでおられるので、ほとんどこの本を作って苦労したところを覚えていない、みたいな感じなのでしょう。

柴村:お二人を心から尊敬していることを最後にお伝えして。では、質問がある方は、両方の先生にでもいいんですけど、どちらの先生に何を聞きたいかということをお伝え下さい。

質問者1:どちらの先生でもいいんですが、一通り今回の本を読ませていただきました。先ほども福岡先生が仰っていたように、最近の生物学では、生物の個体が発生したり作られることと同時に壊すことというものを視野に収めるようになってきた、という視点はすごくおもしろいとともに、今、私が興味を持っているのが多田富雄さんの免疫システムについてです。

多田さんの免疫の議論というは、大分前の本もよく読んでみると、免疫系というのはどういうふうに生成していくのかということと共に、多田さんが提唱されているスーパーシステムというのがどう崩壊していくのかを含むような議論も一生懸命されているところがあります。

多田さんの言葉ではシステムとかネットワークなどが崩壊していくということが出てきて、今回福岡先生の本を読みながら多田さんの議論との対応を考えると、非常におもしろいと思いました。また、多田さんの著作の中に出てくるところに、老化やエイジングということを論じたチャプターが『免疫の意味論』にあって、そこには「プログラムそのものが壊れだすんだ」ということを多田さんはお書きになっていました。

福岡先生のモデルや、書いておられることには、合成と分解と言って、物質が分解していくところ、これは多田さんの本の中ではネットワークやシステムとかが分解するというところと重なり合うような気がしたのですが。

多田さんが言われている中の1つで、私が福岡先生のご著書との対応で引っかかって分からなくなってしまったのは、プログラムそのものが壊れて、崩壊していく論点というのは、福岡先生の物質的なものが崩壊していったりとか、システムとかネットが崩壊していくということと微妙に違うことがあるような気がして。この点について福岡先生がどうお考えになるのかということをぜひお聞きしたいと思って、今日はこの場に来たんです。いかがでしょうか?

生命をプログラム的に捉える事の落とし穴

福岡:これは大変難しい議論だと思います。多田富雄先生は惜しくも亡くなられてしまいましたけれども、私も大変リスペクトする科学者でもありますし、哲学者でもあるわけですよね。多田先生の免疫の議論の最も白眉とも言える部分は自己と他者ということの問題で、実は免疫システムというのは自分自身を知らない。他者と戦うことだけを一生懸命やっている。

しかし、その他者を他者と認識するプロセスにおいて、他者でないものが自己であるというふうに、自己というのはボイドであって、他者の中に描かれた穴として、無というものが自分であると捉えられる、というふうに考えられたんですよね。それはある意味で、絶対矛盾的な自己同一みたいな、互いに他を認識し合う、図と地の関係でそれが絶え間なくいれかわっているものとして、我々の自己意識というものがある、ということですよね。

今ご質問にあったプログラムとしての生命ということについては、私は多田先生とはちょっと意見を異にしています。プログラムというのはアルゴリズムということですよね。線形的な時間の中にある因果関係として作られるものがプログラムなわけです。でも生命をアルゴリズム的、プログラム的に捉えすぎると、それはロゴスの罠に陥ってしまうことになる。実は生命の中に一見プログラムと思えるように考えられる点はたくさんあります。

DNAの中にタンパク質を合成するプログラムが内包されているし、様々な仕組みがプログラム的に動いているように見えます。でも、生命のほとんどの仕組みというのはアルゴリズム的に動いているのではなくて、アルゴリズムで進んでいるように見えて、もう1つ、見えない形でそれの逆方向の反応が常に行われているわけです。

それは今日もメインのテーマであった動的平衡、あるいは絶対矛盾的自己同一という言葉で示されるような逆の対応、逆相関が常に行われていて、未来が先取りされる形で、現在が進んでいる。それは我々が知っているプログラムとは全然違う在り方が生命によって採用されているということなので、多田先生が仰っているようなスーパーシステムあるいは、それがプログラムによってアルゴリズム的に進行していると生命を捉えるのは、私は若干その点について多田先生とは意見を異にするものでございます。

質問者1:よくわかりました。また考えてみます。ありがとうございます。

西田哲学への禅の影響について

柴村:ありがとうございました。他にご質問がある方いらっしゃいますか?

質問者2:ありがとうございます。今日の対談というかお話をうかがいまして、編集者の方の手腕がすごかったんだなということを再認識いたしました。2人に関するところで、最初に福岡先生の『生物と無生物のあいだ』を読んだ時に、般若心経でいう色即是空、空即是色に近いなって思ったんです。

今回、西田哲学に取組んでいただいて、西田哲学に僕らも接近することができて大変嬉しく思っているんですけど、西田さんが鈴木大拙さんと非常に親しかったという辺りで、東洋思想や禅、あるいはそのもとにあったインド哲学を、西田先生はどのくらいふまえてのご発言だったのかなとちょっと考えます。

例えばシヴァは破壊の神様と言われるんですけど、破壊即創造の神だと言われるところは、今日の壊すことと作ることという話でも思い浮かびました。梵我一如も、アートマン(個を支配する原理)とブラフマン(宇宙を支配する原理)とが本来一つであるということも、先ほどの個多などのお話でつながっていると感じました。そういうインド哲学の影響が西田哲学にどのようにあったのか、また、鈴木大拙さんとの関係もあるんであったら、「空」などの世界にも福岡先生がブリッジをかけてくださるんじゃないかという期待を含めつつ、うかがいたいと思います。

福岡:それは池田先生にお答えいただいた方がいいんじゃないですか? 西田哲学の根底に禅の考え方があるというのは仰る通りだと思うんですけれども、その辺をぜひ池田先生が解説された方が、長くなるかもしれませんけども、良いと思います。

(会場笑)

絶対無と無の違い

池田:鈴木先生と西田先生というのは、石川県出身でふるさとで同じく学び、かつ友人関係であられたといういきさつがあり、絶えずお互いに啓発なさって交流を深めていかれたといういきさつを私は聞いております。

西田の禅の体験というのは、まさに鈴木大拙の影響が非常に深くあったわけでありまして、彼の禅体験というものなしに、西田哲学はああいう形にはらなかったんじゃないかと。

それほどまでに禅から受けた影響というのは決定的なものがあります。今日は実は無についてお話しするつもりで来たんですが、無というものの問題には、実は単なる無と絶対無というものは異なるということがあり、西田がその違いについて気づかせられたのも鈴木大拙の影響だったと言われています。

この絶対無と無の違いというのは、実は西洋哲学にも存在と無というように、無がなければ存在は語れないという仕組みになっていますけれども、しかし「絶対」が付いた無(「絶対無」)というのは西洋哲学にはないんですね。正直なところを申しますと、西田哲学をかなり勉強して専門家になった方でも、この「絶対無」を正確に理解し、自分の中で消化して理解を深めていくということを簡単に成し遂げた方はいらっしゃらない。

一度はみんな苦労していらっしゃる。これがなぜ単なる無じゃなくて絶対がつくのかということについて実は今日お話しするつもりで来たんですけれども、今日みなさま方にお配りしたプリントの中にも書きましたように、無というものは有、「ある」ということの否定形じゃないわけですよね。つまり、存在と無というものをともに含んでいるものを「絶対無」というわけですね。

おわかりでしょうか。「有無」という、存在と無ということ自体相反することで、これは1つにできない。できないんですけれども、実は1つになっていると。西田の「絶対無」というのは無と存在とが1つになっている。つまり、無に包まれて無を包んでいるという、そういう仕組みの中で彼の哲学は始まっています。

この問題は次のように考えてみることもできます。「To be or not to be」という言葉がハムレットにありますが、西洋ではto beというのは「存在する」とか「生きながらえる」という意味なんです。

not to beというのはそこで無にしてしまうという、それをorという接続詞で2つ並べて考えるわけですけれども、西田の場合はそうじゃなくて、to beもnot to beも同時にある、と。こういう同時にあるというあり方の捉え方が、西田の1番大きな特徴ではないかと思います。こういうことは禅の体験でないと得られない。こういう影響が鈴木大拙から得られたのではないかなと私はひそかに思っているわけです。

柴村:すみません。ちょっと時間が尽きてきましたのでちょっとこのへんで終わりとさせていただきます。先ほどの池田先生の「絶対無」の話から今日の対談が始まるはずだったんですが、最後にしっかりお話しいただいたのでよかったと思います。

ということで、ここで終わらせていただいて、ここからサイン会とさせていただきます。どうも本日はありがとうございました。

(会場拍手)