ルールがある共同体ほどいじめを生みやすい

中野信子氏(以下、中野):ルールがある夫婦ほど離婚しやすいというデータからもう1つ推論できそうなことは、ルールがある共同体ほどいじめを生みやすいということです。

これは日本の心理学者が研究していますが、規範意識が高いクラスの方がいじめが多いというんですね。私が所属するならできるだけ緩い組織がいいです(笑)。

悪者、悪たれがいじめをするというより、一見いいやつとか、みんなのリーダーになるような人が、歪んだ正義をもって誰かを標的にするという構造になっているわけですよね。

「みんなのルールに従わないからちょっとみんなで懲らしめた方がいいんじゃない?」といった感じで始まることもあるかもしれません。大人の社会でもそういうことがありますね。

週刊誌などのメディアでも時々そういう人を標的にした記事が好評を博して、その人物が大きな話題になることがあります。これは日本が向社会性の高いコミュニティである証左かもしれませんね。

ヨーロッパの人たちに「日本ではこんなことが問題になっているよ」と言うと、「あり得ないよ。それはポリスの案件じゃないか」と言われます。「どうして学校で処理しようとするの?」と言われるのです。警察権の介入を許すのかという問題についてはまた別の議論になると思いますが。

友光:いじめで生き死にとかお金、カツアゲとかになったらね。

人間が生きる意味はどう決めてもいい

友光雅臣氏(以下、友光):ちなみに、あと10分ほどで終わりなのですが。普通は最後の10分間はQ&Aの時間をとっていますが、手を挙げたそれぞれが「私はこう思います」という話になるので、今回はありません。

ですから、最後まで「みなさんはどうですか?」とかはやりません。やったところで……というのが正直あるのです。こちらでその人の意見をあれこれジャッジしても仕方がありませんし、好き嫌いの話でしかないし。

期待されていたかもしれませんが「質疑応答はないよ」というのを一応10分前に言っておきます。すごく思いがありましたら、Twitterとかで。はい。

中野:私は今回、寛容と不寛容の間を考えた時に思い出したのが、キリスト教神学で否定神学です。

否定神学とはなにかというと、例えば「神はxxではない」と、ある形質を次々に否定していくことによって「神とはなんぞやを語る」という手法をとるものです。こうしたアプローチは、仏教にもありますよね。

友光:仏はこういうことをするとかしないとか、そういうことですよね。

中野:私たちも「生きる」ということを、ああでもないこうでもないと言うことで、おぼろげにその姿を描出していくことはできるんですよね。

私たちが生きている意味なんて本当は……。生きている意味がないというとややラジカルすぎる言い方になるのですが、無意味、無駄ということではなくて、意味はどう決めてもいいということですね。

それをどう考えてもいい、どう捉えてもいいという非常に大きな可能性と共に私は生きているということを、仏教ではあんなに多くの文字をかけて書いているわけじゃないですか。そのことをもう一度考え直してもいいのかもしれない。それがもしかしたら真の寛容ということなのかもしれませんね。

友光:脳科学者の方も生きている意味を考えるのですね。

中野:学者である前に人間ですから。

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