偉大なアーティスト夫婦の物語

カリン・ユエン氏:みなさんこんにちは、カリンです。Little Art Talks へようこそ。みなさんバレンタインデーを楽しんでいますか(動画は2月14日のもの)。今月はバレンタインデーをお祝いするため、美術史における最高の伴侶をシェアします。

もちろん、ドラマやその関係性においては甘く情熱的なラブストーリーだけでなく、アーティストの伴侶であることがどのようなものなのか、そしてときには共働によって、どのようなアート作品を制作し、相棒が作品にいかに影響を与えているかをシェアしてみましょう。みなさんがもしこれらのストーリーに興味があるのなら、毎週月曜日に新しい動画を配信するLittle Art Talks にご登録ください。

ディエゴ・リベラとフリーダ・カーロの結婚は、もっとも知られたアーティスト同士の結び付きです。その関係性というのは情熱的で、愛に満ちているだけでなく、ほかの恋愛関係と離婚、そして再婚と衝動的であることでも知られています。どちらも生前に称えられた稀代のアーティストでした。リベラはメキシコでは存命中はもっとも偉大なアーティストと考えられていました。

2人が出会ったとき、リベラは、すでにメキシコでは重要な画家であったため、彼は妻を栄誉であるとは思っていませんでした。素敵なことでしょう。彼は、社会的、政治的なメッセージの強い巨大なフレスコ画で知られていましたが、メキシコ美術においてメキシコの壁画運動を普及させ、人々に歴史と革命を教えることによって、作品は人々を救うということを強く信じていました。

彼の小品には、しばしば農夫や大地や労働者の姿が描かれています。リベラの表向きのテーマとまったく正反対で、カーロの作品は激しく、そして個人的です。

彼女はメキシコ原住民の母とドイツ人の父との間に生まれ、6歳の頃ポリオにかかり右足の成長が止まってしまいました。18歳のころ、大規模なバス事故により石膏ギブスに包まれてベッドに拘束されることを余儀なくされました。

このとき、彼女は退屈を紛らわせるために絵を描き始めたのです。彼女は奇跡的に回復しましたが、しばしば、その人生の間中に痛みが再発し、残りの人生を入院して過ごすことになりました。このことは彼女の作品の主だったやりに方影響を与え、彼女はときおり自分自身を肉体的な痛みを受けつつ、精神的な憧れと自然世界へのつながりの中にあるものとして描写しました。

リベラと出会ったとき、まだカーロは美術学生で、彼女はこの有名なアーティストにキャリアについてアドバイスを得ようとしました。彼は彼女の作品に心を捉えられ、このように述べています。

「作品は、尋常でない表現のエネルギーがあり、物事の性質を正確に描写し、真に激烈である。基本的な造形の誠実さを持ち、それ自身に芸術的な個性がある。この少女はまさに真正のアーティストであるということは明らかだった」。

リベラはそのとき既婚者でしたが、2人は交際し、そして1929年に結婚しました。この結婚は彼にとっては3度目の結婚であり、女たらしで44歳、一方彼女は22歳とずっと年上だったので、彼女の両親は震撼しました。リベラは巨体で、フリーダはもっと小柄で痩せていたので、しばしば象と鳩に例えられました。

不倫と家庭内暴力で離婚、しかし…

2人は、リベラが注文を受けた場所どこでも旅しました。最初はクウェルナバカで、カーロの作品は次第にメキシコのフォークアートの要素を汲み上げました。メスティソ(混血)と呼ばれる血統を強調するために、彼女は伝統的な民族調のメキシコ農民のドレスを纏い始めました。不揃いな足を長いスカートで隠し、リベラはメキシコ風ドレスを着た彼女を好みました。

彼らは、サンフランシスコで6ヶ月過ごし、デトロイトで1年を過ごし、それからニューヨークに行きました。ロックフェラーセンターの論議を呼んだ壁画「十字架の道行き(Man at the Crossroad)」を手掛けました。この間夫婦は多くの影響力を持つアーティストやコレクターやクライアントに会いました。

カーロは、フォークアートの様式で作品を展開し続けました。そして、何人かの新たな知り合いの肖像画も描きました。サンフランシスコでは、結婚式の写真をもとに2人の肖像画「フリーダとディエゴ・リベラ(Frida and Diego Rivera)」を描き、その作品の中では、彼女は才能あり崇拝される妻でした。サンフランシスコとデトロイトでは旅行を享受しましたが、ニューヨークではホームシックに苦しみました。

彼女は健康上の問題で子供を持つことはできず、妊娠に障害があり、たびたび流産や深刻な出血に苦しみました。2週間病院で過ごし、3ヶ月後に彼女の母親が亡くなりました。「ヘンリー・フォード病院(Henri Ford Hospital)」や、「私の誕生(My Birth)」、「メキシコとアメリカ合衆国の国境上の自画像(Self Portrait on the border of Mexico and United States)」など、この困難な期間に、彼女は数多くの絵画を描きました。

ニューヨークの後で、2人はメキシコに戻りましたが、このとき夫婦関係は緊迫したものになっていました。健康問題は依然として残り、リベラはメキシコに戻ったことが不満で、妻にそのことを責めました。2人の結婚生活は激烈なもので、リベラがフリーダの妹と関係を持ったことが、彼女を大変傷つけました。彼女は、家を出て離婚まで考えましたが、彼は和解した後も不倫の関係性を持ち続けました。

2人は、明らかに多くの異性関係を持ち、そして別の場所に住んだと言われますが、このようなオープンな交際についてお話したのは、この関係性に苦しみながらも、彼らは非常に幸福に仕事をしたからです。これは非常に波乱万丈で、私のリサーチも決定的なものではありません。

1937年から38年まで、カーロは極端に多作な時期を迎えました。「愛が宇宙やディエゴと私を抱く(The Love Embrace of the Universe and the Earth)」では、夫婦が地球と宇宙に抱え込まれているように、彼女は夫を優しく守るように抱いています。「水がくれたもの(What the Water Gave Me)」では、火山から現れるエンパイアステートビルディングのあるニューヨークでも、彼女は流産の肉体的な苦痛の中に生きていました。

1939年に2人は不倫と家庭内暴力によって離婚しました。別離の寸前にフリーダは2つの自画像を描いています。右側にはメキシコの農民のドレスを着た彼女がディエゴの肖像を持っています。動脈が巻き付けられ、今度は派手なヨーロッパ風のドレスを着た彼女自身のもう1つのイメージとつながっています。彼女は血を止めるための鉗子を持っていて、このイメージはしばしば、彼女自身の二面性であると読まれています。

1人はディエゴが愛した女性で、そしてもう1人は彼が愛さなかった女性です。そしてまた、ドイツとメキシコの2つに引き裂かれ受け継いだ血縁とも関係しています。しかしながら、彼らはたったの1年で再婚しますが、2番目の結婚も最初と同様に変わりやすいものでした。再び和解した後、彼女はディエゴのイメージを額に載せた自分自身のイメージを描きます。おそらく彼女は彼のことを心の中から追い出すことはできず、彼無しでは生きていけなかったことの現れでしょう。

フリーダは、以下のように書き残しています。

「ディエゴの妻になったことは、世界でももっとも素晴らしいことでした。私は彼がほかの女性たちと結婚の遊びをさせて置くままにしました。ディエゴは決して誰かの夫になったことはなく、決してそうならないでしょう。彼は最高の同志だったのです」。

リベラは自伝の中で、カーロが死んだとき人生の中でもっとも悲劇的な瞬間であったと書きました。おそらく彼は、妻はメキシコでもっとも偉大なアーティストであると気づいていたでしょう。1980年になって、リベラの壁画が時代遅れと見なされるようになると、カーロの作品が再評価されはじめました。

みなさんが、このフリーダ・カーロとディエゴ・リベラの動画を楽しんでいただけることを願っています。もし楽しんでいただけたなら、2月中に次なる愛とアートの動画を制作するため、「いいね!」とLittle Art Talksへのご登録をお願いいたします。