『源氏物語』を絵画化

カリン・ユエン氏:平安時代の貴族階級は、新た支配体制からは除外され、誰も古きよき時代を懐かしむ人もいました。紫式部の『源氏物語』は読まれ続け、新しい一連の源氏物語絵巻が制作されました。紫式部自身への関心も少なくありませんでした。ありし日の富と権力を懐かしんだ貴族たちは、著者の時代の栄華を取り戻そうと、彼女の日記を絵画化しました。

日記は、紫式部が京都の宮中の侍女であった際の逸話からなっています。敦平親王誕生の儀式などの催しものがありますが、その豪華さと華麗さにも関わらず、紫式部は宮中での満ち足りなさを漏らすのです。場面は歓喜と逸楽の束の間の感情で満たされていますが、しばしば、より身分が上の人々の意向に左右される、著者の孤独な感情を反映しています。

とある折に、2人の宮廷人が彼女の部屋を訪れようと試みますが、彼女は窓を閉ざし彼らを締め出します。平安時代の源氏物語絵巻とは、絵画的な構成は似ていますが、13世紀の絵巻の効果はまったく異なるものです。平安時代の絵画は、風景を通じて登場人物の感情を表現したのに対し、ここでは人物は直接その感情を露わにしています。

そして風景は、語られる出来事から切り離された、絵的な要素の1つになっています。平安時代の絵巻物のように、作品は「作り絵」の技法(注:最初の下絵を不透明な顔料で塗り隠し、最後に仕上げの細い墨線で描き起こす大和絵の手法)で制作されていますが、同様の配慮はありません。銀の使用は抑えられ、襖絵の意匠のような内部の建築空間への描き込みは少なくなります。

浄土教、あるいは阿弥陀信仰は、平安時代中期に広く普及しますが、戦乱期の荒廃した状況のなかで、人々は自分自身が末法の世に生きていると信じるようになります。仏教の伝統では、仏陀の教えが機能する時代の終わりに、内乱や残虐行為、絶望が顕著な、数千年もの後退した、末法の時代が訪れるとされています。末法の段階では、悪霊が跋扈して、読経や写経、瞑想のような、従来の涅槃に達する方法は役に立たないと考えられていました。

浄土教は、ほかの仏教の宗派では慰めを見いだせなかった人々に向けて、救済の道のりを示し、救済への信仰を中心に据えました。つまり、阿弥陀浄土に生まれ変わることは、阿弥陀仏への信仰と、念仏を唱えることによって達せられると説いたのです。

2種類の極楽浄土の礼拝図が描かれました。それは曼荼羅と来迎図で、新たな重要性を持っています。阿弥陀如来の 西方極楽浄土の描写に焦点が当てられ、これらの絵画を熟視することは、修行者へ約束の地を視覚化することの手助けになりました。

西方極楽浄土の曼荼羅の原型

当麻曼荼羅(たいままんだら)は、奈良県当麻村にある寺院、当麻寺に保存されている織物のもっとも初期の作例です。奈良時代後半に制作され、中国からの輸入物と推定されています。奈良時代や平安時代の文献にも記述は残っていませんが、13世紀に再発見され、西方極楽浄土の一連の曼荼羅のプロトタイプとなりました。この原本の模写が普及し、オリジナルの詳細を伝える写真は1つしかなかったのですが、模写の写真は非常に多くあります。

これは模写の1つで、金、銀をはじめ豊かな色彩で制作されています。

曼荼羅の中央部の内陣は極楽浄土の景観を描写したものです。仏陀は、八角形の高い王座に座り、隣の観音菩薩と勢至菩薩が若干低めの蓮の宝座に座っています。小さな無数の菩薩たちと神々が、衣と裳を身に纏い、頭に冠を巻き付けています。背後には楼閣があり、その正面には蓮の花が咲き乱れる池があります。花の間をたゆたう舟が小さな子供たちと、生まれ変わった魂を表す人間像を乗せています。

絵画の下面と脇面は、経典に基づき仏陀の永遠の人生の描写があります。左側には、王舎城の伝説の中の、邪悪な王冠を得た王子である、阿闍世(あじゃせ)が父王を幽閉して餓死させようとした場面が描かれています。

しかしながら、先王の第1夫人である韋提希(いだいけ)が密かに食べ物を運び生かしていました。これを発見した王子は、自分の母親も同様に幽閉してしまいます。彼女は救出を祈り続け、窮状に心を動かされた仏陀は彼女の前に現れ、十方世界の浄土を見せたのです。彼女は、そこから阿弥陀如来の極楽浄土を選びました。

曼荼羅の右側には、韋提希夫人が生まれ変わるために視覚化しようとした、さまざまな極楽浄土の十三観法の図が描かています。下方一帯は、3つの段階の極楽浄土での生まれ変わりの種類が描かれ、それはまた3つの段階に分かれています。下部はそれゆえ、9つの異なる種類の来迎の表象でもあります(九品往生)。

鎌倉時代に発達した来迎図

2種類の来迎図が、12世紀と13世紀の終わりに発達しました。1つは「早来迎図」と呼ばれるもので、阿弥陀如来が菩薩たちを従えて地上に瞬時に降り立つものです。もう1つは「山越来迎図」、山をまたがった来迎のことであり、ここでは阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩という3体の像が山々の上方に、完全に地上に降り立った姿として描かれます。

「早来迎図」の古典的な作例は、京都の知恩院の掛け軸「阿弥陀二十五菩薩来迎図」です。上から左へと対角線状に像が入り、阿弥陀如来とそのお伴たちは、群れを成す雲の上に乗って極楽浄土から降り立ちます。この行列の先頭には観音菩薩がいて、往生者の方に向かってひざまずいています。

往生した男は、僧侶の衣服を着て、低い机の背後で座っています。左の角側には、松と花咲く桜の木が点々と描かれた、緑の山々が広がり、右側上方には、阿弥陀如来の極楽浄土の楼閣と思われる、小さな建物が垣間見えます。

名高い「山越来迎図」は禅林寺所蔵の「山越阿弥陀図」です。阿弥陀如来の黄金の頭部と胴体が、暗い空に輝いて見えます。彼の背光は月のようでもあります。

彼の下方には、右側と左側には、既に山を越えた観音菩薩と勢至菩薩がいて、死者を出迎えようと体を曲げています。絵画の下部中央には、川の青い水が見え、その対岸には2人の少年が神々を上向きに指し示しています。画面脇の右と左には、四天王、あるいは4人の天国の王が2組になっています。

最後に、上部左の角には、サンスクリット語で、阿弥陀の名前の最初の文字が見えます。山々には赤や橙色の葉のついた小さな秋の木々がちりばめられています。

変化を遂げた神道の芸術

今まで神道の芸術についてお話していないのにお気づきでしょうか。実際には神道の建築にしか言及していません。奈良時代の後半以前には、神の像は、アニコニズム(Aniconism、反偶像主義)つまり、偶像崇拝が禁止されていて、ありのままの形の再現よりも、なんらかの象徴あるいは暗示が用いられました。例えば、神に人間の形態を与えるよりも、神の現前には鏡が代用されました。

奈良時代の間に、新たに伝わった仏教と、日本に伝来する自然神との間に調和的な関係を生み出そうとする努力がありました。8世紀の中頃には、太陽神である天照大神は、伊勢にある神社を通して相談を持ちかけられ、彼女の答えというのは、彼女と毘盧遮那仏(注:全宇宙を照らす存在とされる仏)はお互いがお互いを放射したものだということでした。2つの宗教の系譜が平安時代と鎌倉時代に混ざり合いました。

平安時代の仏像の強い影響を受け、仏教徒の存在の外見で、神に人間の形態を与えることが一般的になりました。これらの小さな木彫像は、休ヶ岡八幡宮の三神像であり、1人の僧侶と2人の女性像が宮中の衣装で表現されています。一木造りで彫られ、簡素ですが華麗さがあり、何世紀にもわたって神道の彫刻が形象として保持していた一種の美学があります。

この時代の神道の建築はまた変化を遂げました。伊勢神宮や出雲大社の単純な囲いは、屋根と回廊とそれを取り囲む壁に置き換えられ、数多くの神官と神器のための補助的な建物が加わりました。

祇園祭のような夏祭りが、厄病や地震、戦災から救われたいという願いを込めて、神道の神をなだめるために行われました。天皇礼賛と結びついた神社は、14世紀から16世紀の間には衰退し始め、共同体の守り神や、自然現象に対して影響力のあるほかの神々の信仰は、浄土信仰と同様に庶民の間で畏敬の念を集めていました。

新たに祀られた菅原道真

北野天神は、平安時代に生まれたまったく新しい神を祀っています。次第に宮廷だけでなく、武士や民衆の間で人気が出ました。「北野天神縁起絵巻」では、京都に北野天神が建立された裏にある話が語られています。

菅原道真は、気鋭の歌人であり、漢文学者でもあったのですが、藤原氏の陰謀で追放され、不名誉のまま死んでしまいます。その当時の信仰によれば、誤って罪を着せられて死んだ人の魂は、怒りの霊である、悪霊となり、復讐のために死や不幸を招くものだと考えられていました。

923年に彼の魂を鎮めるために、死後になって右大臣に任命されますが、彼の魂は雷神の姿になったと信じられていました。947年に、北の天満宮は彼の栄誉を称えるために京都に建立されます。最終的には彼は天神、つまり天の神に定められ、学業や文学や書道の守護神と見なされたのです。今日でも、重要な試験を前にした学生は北野天神にお参りに行き、道真に祈りを捧げます。

鎌倉時代には、神道の曼荼羅図もまた普及しました。もっとも特徴的な神道の曼荼羅図は、藤原氏の氏神である春日大社のものです。「春日曼荼羅」は、春日大社の境内の鳥居の雲の上に現れる大きな白い鹿が描かれています。

鐙から、榊(さかき)の木が伸びて、その背後に鏡の形象が枠取られています。それぞれの枝には、5人の春日の神が、如来と菩薩の仏教図像の姿で描写されています。鏡は、鏡によって洞窟からおびき出された、天照大神を言及しています。鹿は日本では神聖な動物だと考えられています。仏教の視点では、仏陀は北インドの鹿の園で最初の彼の説法を行いましたが、しかしながら、仏教が伝わる前の日本では、鹿は神聖な動物だと考えられているのです。