90年代後半、バンド活動に熱中

藤岡清高氏(以下、藤岡):新田さんの学生時代からShowcase Gig(ショーケースギグ)を立ち上げるまでの経緯をお話いただけますか?

新田剛史氏(以下、新田):学生時代はバンド活動に熱中していました。音楽も好きでしたが、それ以上に当時のロックのエネルギー、ムーブメントやカルチャーが好きで、そういうものに惹かれてバンドにのめり込んでいたのだと思います。

実は大学には合計8年もいたのですが、最初は地元仙台の東北大学に入学してその後2年経って上智大学に移りました。英語に強い環境に行きたかったというのが表向きの理由で、実は単に東京でバンドをやりたかったからなんですけど(笑)。

僕が学生だった90年代後半は、音楽市場がまだ元気で。フジやサマソニなどのロックフェスも始まった頃で、「音楽産業で何かできるんじゃないか?」という期待がある時代でした。

エンターテイメントやクリエイティブな世界で人を楽しませながら大きなお金が動いていることが素晴らしいし、そういう世界に関わりたいと思っていました。

一方で、海外だとU2の(ボーカル)BonoがビルゲイツとダボスやG7で対談していたり、ロックバンドやアーティストがビジネス的にもすごくダイナミックなステージまで行くのですが、日本ではすごく成功してもいわゆる「J-POPアーティスト」にしかなれないし、どうもそれは格好良くないと思っていました。しかも、それだって生計を立てられるレベルになるのはよほど運も実力もなければ難しい。

僕自身、当時のすべての時間とエネルギーを音楽に費やして、実際にプロとして活動するメンバーやその後プロデビューするようなメンバーと組んで、「あと一歩」というところまではやりました。

ただ、大学の先輩でプロのミュージシャンになってテレビCMに曲を提供するようなレベルまで行った人でも、ファミレスのバイトを辞められないとか、なんかもう切ないんですよ。

ロックンロールでダイナミックなことをやりたいと思って、「アウトローだけど大金を稼ぐ世界を夢見てプロデビューしたはずなのにファミレスのバイト辞められないってどういう状況なの?」というのがあって。やっぱりお金を稼げないのは格好悪いなと。この世界ではないなと思い始めたんですね。

出版業界の高給に憧れて就職

音楽と同じく“カルチャーが好き”ということもあり、雑誌の編集にも興味がありました。出版業界の市場規模は90年代後半を境にピークダウンしていますが、自分の学生時はちょうどそのピークだったので、まだギリギリ元気な時代で、すごく魅力的な世界に見えました。

バンドで食べていくのは針の穴を通すような狭き門だけど、出版ビジネスは大きな世界なのではないかと感じていました。

トップクラスの大手出版社は1年目の年収で700〜800万円レベルと聞いていました。学生から見たらそれはすごい。30歳になると年収1200万とかにもなると言うし、それでいて文化人や芸能人に会えておいしいもの食べられて最高じゃないですか。「出版業界の方が実はロックじゃないの?」と。だいぶなめてるんですが(笑)。

でもやっぱり、調べていくと、大手出版社の新卒採用には縁故採用も多いという噂を聞いたり、実力で入る人にしても学生時代からずっと出版社でバイトしていたり、ものすごく努力している。

「この世界も超狭き門なのでは?」「むしろバンドよりきつくない?」という事実に気づきました。でも、当たり前と言えば当たり前なんですよね。ある種のプラチナチケットですから。「これは困ったな……」となりました。

カルチャーや出版の世界で生計を立てて、しかもできるだけ金を稼ぎたいと思っていましたが、そんな夢みたいな話はなくて。気づいたら23歳くらいになっていて。これはまずいなと。

ちょっとひねくれた感じの学生生活を過ごしてきたので、いまさらまともに就活する気にならない訳です。

楽しいことして高給取りは難しいとしても、普通の平凡なサラリーマンになるのもどうかな……とかそんなことばかり考えて、結局面接にもいきませんでした。それで何やっていたかというとバンドを休止して、アルバイト状態のままで卒業しちゃったんです。

その後、観念して縁のあった小さな出版社に中途扱いで入りました。仕事自体はいやではなかったのですが、ほぼブラック企業で(笑)。土曜出勤が当たり前で、社長が帰るまで全員帰れないという暗黙のルールがありました。

モバイルeコマースに感じた可能性

そんな折、ファッションブランドで配布するフリーペーパーを制作したり、モバイルeコマース事業を展開している会社を知りました。もともとファッションは好きでしたし、編集の経験が活きることもあり、その会社に転職しました。

入ってみるとモバイルにすごい可能性があるなと思ったんですね。今もだと思うんですが、紙の世界ってものすごく古くて。そこからモバイル・インターネットの世界に熱中しました。カルチャーショックでしたね。

ネット系の広告代理店と話していると、当時からもうCPC(ネット広告1回クリックあたりの料金)だのCTR(ユーザー獲得コスト)だの聞いたことのない言葉を使ってて(笑)。

当時いた会社は、ZOZOTOWNより先に、日本で一番最初にモバイルファッションeコマースに取り組んだ会社で、ビジネスモデルとしては斬新だったのですが、時代を先取りしすぎていて、事業としては継続が難しくなってしまいました。会社が吸収合併されてなくなり、事業が消滅した後、僕も含めたチームメンバーが夢を捨てられずに移籍したのが「東京ガールズコレクション」の当時の運営会社でした。

藤岡:紆余曲折ありますが、出版会社に勤めたことがきっかけでアパレルeコマースの最先端を走ることになるわけですね。

新田:そうですね。当時はモバイルの話をするだけで珍しがられる時代。ただ構造は簡単なんですよ。いわゆるフューチャーフォンの白黒画面に毛が生えたくらいで、当時の僕でもHTMLで書けちゃうくらいのレベルでした。

ただそれを学べたことをきっかけにITの世界に入って、コンテンツを作ってファッションショーも仕切ったり。本当に紙とネット、モバイルとリアルの連動という最先端の仕事に携わることができました。

当時はその仕事が、一体何になるのかさっぱりわからなくて、評価されるともあまり思ってなくて「なんでこんなことになっているんだろう?」とか思いながらも、やりがいは感じていました。

東京ガールズコレクション3回目くらいからすごくメディアの注目を集めることができて、ワイドショーなんかでもランウェイを歩いているモデルが着用している服を会場のお客さんがリアルタイムでモバイルeコマースで買っているシーンを映してくれたり。

それこそ石原慎太郎さんをランウェイで歩かせちゃうし、ユニクロの柳井さんも来ちゃう。ソフトバンクの孫正義さんにもお会いして直接プレゼンさせてもらって、その場でかなりの金額を決めてもらったりしました。

正直、やっているスケールの割には給料はあまりもらえなかったですが、28才でここまでコアな体験はなかなかできないなと思っていました。この頃から周りからも独立してやったらいいんじゃないか言われ始めました。

30歳でミクシィへ転職

新田:自分でもその頃、独立しようか悩んでいました。独立するとしても何のフィールドでやればいいんだろう、自分の立ち位置だとメディアなのかなとか。

当時はミクシィ、モバゲー、Greeの3大SNSが盛り上がった時代でしたが、マネタイズ手法がまだ確立しきっていなくて、とくに僕は企業スポンサードをつけるような広告・マーケティング的アプローチのマネタイズが得意だったので、最初は各SNSのデジタルエージェンシーでもやろうかと考えていました。

ちょうど人づてに、まず最初にミクシィを紹介してもらって。当時のミクシィは上場後、盛り上がりが一段落して株価も下がっていて「次の一手」を模索している時期でした。

ちょっと話して、「自分が手伝えることがあるのでは?」と言ったらその通りでした。あっという間に入社が決まってしまいました。

ちょうど30歳になるあたりで、独立起業にも未練はありましたが千載一遇のチャンスかもしれないということで、決断しました。仕事内容は最初あまり決まっていなくて(笑)、自由にプロデューサーとして何でもよいから事業を組み立ててほしいということでした。

時はソーシャルゲーム元年で、ミクシィが日本で最初にソーシャルアプリのプラットフォームを立ち上げるタイミングでした。

最初の年はミクシィなのにファッションショーもやったり、いろんなことをやってみたのですが、やはり今やるべきはソーシャルアプリだろうという結論になり、当時のミクシィは「ファーストパーティにはならない」と言い切っていたんですが、なかば勝手に“mixiXmas”という企画を立ち上げました。

そうしたら、これが当たったんですね。あっという間にDAU(Daily Active User)で100万人規模に達するアプリになりました。