人生のすべてを市場に委ねてはいけない

ホセ・ムヒカ氏:現在、多くの市場をもとにしたさまざまな文明が発達していきています。文明は一方では非常に素晴らしいものを築き上げてきました。

例えば、さまざまな素晴らしい技術を開発しました。非常に素晴らしい力です。そしてまた、非常に素晴らしいモノを得るということもできます。その力で歴史を推進してきた点があります。

しかしながら、永遠というものはないのです。

そういった進歩の反面で、負担も多く遭遇しました。例えば、市場で非常に負担な面ももちろんありますが、すべて悪いわけではありません。すべて否定しているわけではありません。先ほどのギリシャの哲学に戻りますけれども、過度がいけない、行き過ぎはいけないということです。

私たちの人生のすべてを市場にまかせてはいけません。私たちの人生、そして人生の冒険のすべてを市場の手に委ねてはいけません。

私たちは文明を築き上げました。そして、文明の発展の速度が、創造の速度がどんどん加速度的に早くなっています。そして、本来ならば、その速度にリミット、制限をつけなければいけないけれども、現在はそれを統治する術もなく、その市場の力が、まるで自立的な生き物のように、まるで動物のように1人で加速度的に進んでいます。

ある物語で、地球をひっくり返す魔術の棒を見つけた。でも、ひっくり返したはいいけれども、ひっくり返したあとにそれをもとに戻す術を知らなかったという話がありました。今、そのような状況が起こっています。

私たちは環境破壊を止める術を知らない

私たちがこれから先、何が起こるのかわからない、という状況もあります。私たちは自分たちの人生を統治できるように、支配できるようにしなければいけないはずですけれども。でも、私たちは市場の力を現在統治できないくらいになっています。

なぜこういう話をするか? 例えば、以前、京都議定書が結ばれました。その合意に基いて、環境破壊に何らかの制限を加えようとしました。それでも環境破壊を止めることは実現できませんでした。

私たちは、海の汚染がだいぶ前から始まっているということを知っています。知りながら、私たちは何もなす術を持ちませんでした。私たちはそういうリソース、手段を持っていないのでしょうか? なんて恥ずべきことでしょう。今までこれほど、人類でこれほどのリソース、そしてこれほどの能力を持ったことはありません。

世界中で1分間に200万ドルが軍事予算に使われています。しかし、これが最悪なのではありません。最悪なのは、こういった方向性を止めることができないことです。これはすべて何を意味してるんでしょうか? こういった例を数限りなくあげることができます。

でも、すべてに関して私たちはブレーキをかけられない。その結果、世界中の85人から100人のお金持ちが、300人の人の富と同じくらいの富を占めるようになってしまった。

これはどんな意味があるのでしょうか? 例えば、いっぱいお金を持っている人、あるいは富裕者から、何か学ぶことができるのでしょうか?

消費で残るのはモノの蓄積にすぎない

私が言いたいのは、文明のなかで多くのモノを浪費しすぎたということです。つまらないことに浪費しながら、一番重要なことには目を向けてこなかった。一番大切なことは幸せになることです。

でも、今までこれほど生産性が高まったことはないのに、分配の仕方が悪いために、今の私たち人類はそういった生産性の恩恵にあずかっていません。わずかな人が恩恵にあずかり、ほとんどの人がフラストレーションを抱えています。これは何を意味するのでしょうか?

非常に美しい大義というのがあります。この大義というのは、人生に美しい意味を与えること。そして、人生の存在に意味を与えること。そして、種全体がよくなること。これが大切な大義であるはずです。

もちろん、いろんなかたちで屈服したままで負けて生きることもできます。そして、単なる守りに入ることもできます。そして、多国籍企業のためだけに一生を捧げるという人生もあるでしょう。

でも、私のようにリウマチ持ちの老人になったときに何が残るでしょうか? あなたは、ローンの支払いを一生続けるために生きてきた、というふうになるでしょう。

2年ごとに新車を買いたかった。家が小さいから、さらに大きい家が欲しくなった。それでいろいろ負債を積み重ねて、いろんなことをして負債に追われる。自分でさまざまなモノを買うこと自体を楽しみにして、自分の人生の時間を浪費してしまうわけです。そういうかたちで残るのはモノの蓄積にすぎません。

でも、それは私たち頭の中で考えなければいけません。考える術はこの頭の中にあります。ですから、この頭を使えば、あなたは自分の人生を誘導する、導いていくことができるはずです。

私は貧しいわけではなく、質素が好きなだけ

みんな、私のことを貧しいと言いますが、私は貧しいわけではありません。私は質素なだけです。以前は「慎ましい」(austerity)と言ってましたけれども、それはもう好きではありません。

「austerity」はヨーロッパの緊縮政策と結び付けられるので、今は好きではありません。私は単に質素が好きなだけです。私にとって重要なモノさえあれば、十分なのです。

質素であるほうが、私が本当にしたいことができる時間があるからです。私にとって大切なのは、例えば社会運動もそうですけど、ほかの人にとっては絵を描くことが大切かもしれません。

魚釣りをすること、遊ぶこと、あるいは、毛糸を編むことが大切な人もいるでしょう。あるいは友人と遊ぶことが好きという人がいるでしょう。そういう時間を過ごすことが自由であるということです。

ですから、いろんな大げさな言い方、フランスのいろんな言葉で飾るような人たちがいますけれども。でも、本来の自由というのは、自分がしたいことをできるというのが自由です。

ほかの人に強制することなく、ほかの人の考え方を阻害することなく、それぞれの人の考えを尊重したなかで、自分がやりたいようにできること、ほかの人がやりたいようにできること。それが自由です。

そのために必ずしもモノが必要なわけではありません。ですから、本当に本当に必要なモノがあれば十分なわけです。

ただ、どんどん必要にさせられていく。市場に操られてどんどん必要なモノが増えてしまうと、それは決してあなたは自由ではなくなります。なぜならば、あなたの大切な時間が、その市場によって失われてしまうからです。そして、あなたが欲しいモノを買うためにあなたの自由な時間が失われてしまうのです。

もちろん私がこうやって話したからといって、若者のみなさんに同感してほしいと思っているわけではありません。決して、みんなに同感してほしいと思っているわけではありません。みなさま方自身が自分にとって何が一番大切なのか、何が一番いいのかを考えてほしいのです。

誰でも抱える矛盾をいかに抑えていくか

私たちは2つの矛盾する力によって作られています。すべての生命は誰でもエゴイズムを持っています。

例えば、自分を守るため、あるいは自分が大切に思う人を守るために、エゴイズムというものがあります。エゴイズムというのは、自然が私たちに与えてくれた、ある意味では自然のものでもあります。

ただ、また同時に、もっと違った素晴らしい遺産を持っています。それは文明であったり、文化であったり、知識であったり。それは前の世代が築き上げたものであります。前の世代が築き上げた文明です。そして、世代間の団結、あるいは連帯です。

だからこそ私たちは、そういった大切な感情を中に秘めています。そういった感情を教育によってさらに精度を高めることができます。そして、正しく生きることによって、そういった感情を高めることができます。

それを高めることによって、自分で自分のエゴにブレーキをかけることができるわけです。そして、重要な教訓を学ぶこともできるのです。

一番大切なのは、ともに助け合うこと。そして連帯、協力です。それは男性、女性含めてすべての人間の協力であって。それが創造力になり、モノを創る力になります。そして、チームワークで働くからこそ、私たちの人生をよりいいものにすることができるのです。そういった意味で他者の存在というのは非常に大切です。

こういった、私たちが誰でも抱える矛盾をいかに抑えていくか、支配していくか。

ただ、人間は神ではありませんし、絶対、神にもなりませんし、パーフェクトな存在には決してなれません。こういった社会というのは今も問題を抱えていますし、将来も問題を抱えるでしょう。それは人間が神ではないからです。

私たちは情熱を持っています。エゴイズムを持っています。そして、利害も持っています。そして、間違いも犯します。正しいときもありますけれども、試行錯誤もします。そして、集団で生きなければいけません。でも、矛盾を抱えています。ですからこそ、政治が必要なのです。

完璧な社会がありえないからこそ政治が必要

アリストテレスが言ったように、人間は政治的な生き物である。なぜならば、人間は矛盾を抱えるからです。なぜならば、完璧な社会などありえないからです。そうであるからこそ、政治というのはさまざまな試みをして、そういった差が共存できるように運営しようとするのです。

紛争というのは必ずあります。社会的な生活のなかには必ず紛争がありますけれども、それをいかに共存可能なものにしていくか、というのが政治です。もし私たちが神であるならば、政治はいらないでしょう。もし完璧であるならば、政治はいらないでしょう。

ですから、政治というのは、何らかの組織の中で座っているということを意味するのではありません。そうではなくて、そのほかの社会全体のことについて、心を砕くということなのです。なぜならば「政治は重要じゃない、関心がない」ということを言うときにも、1つの政治的な立場というものを持っているわけです。

なぜならば、他者のものによって自分の靴を買う。あるいは他のモノを消費するわけです。例えば、どういうような家に住むでしょうか。あるいはウエディングドレスを買うかもしれません。すべて、最終的にはこの政治のあり方、社会の行く末にかかっているのです。

例えば、政治というものを放棄するということ、これは少数の者がそれを制御するということを意味します。

私たちは多くを生きてきました。文明というのものは多くのモノを残してくれました。例えば、共和国。もちろん、多くの過ちも一緒に。

誰もがほかの誰よりも上ということはない

誰もがほかの誰よりも上ということはなく、基本的に男も女も、少なくとも理論的に同じ権利を持っています。青い血はない。例えば、公爵、伯爵というものもない。

そのためにどれだけの犠牲が必要だったでしょうか。どれだけの犠牲があったでしょうか。このような基本というものを固定するためにどれだけの犠牲が払われたでしょうか。

もちろんすべての人にとって、その出発点というものは違います。なぜならば、民主主義というものは完全ではないからです。人間の誤りというもの、それからまた限界というものもたくさんあります。

しかし、それは無限の戦いなのです。つねに改善するために、つねによくして、変革していくためのものです。それぞれの心の中で、よりよくするために、そのためにも、私たちは私たちの社会をよくするために戦わなければなりません。それこそが人生の、生の大義なのです。

そして、それこそが私たちの存在に意義というものを与えるものでしょう。そして、それは大きな責任です。とくに、このような素晴らしい大学で勉学する者、そういうような素晴らしいチャンスを得たものにとってはそうです。

そのようなチャンスがあるのであれば、よりその責務というものも大きくなるでしょう。社会に手を差し伸べ、そのようなチャンスを得ることができなかった人のために役立つという大きな責務です。

もちろん、ここで考えなければなりません。子供たち、それから老人たちというような、脆弱な人々がたくさんいます。しかし、そのなかで考えなければなりません。

私は非常に批判的である、ということは言えるかもしれませんけれども、悲観主義ではありません。反対です。私は人生を愛しています。そしてまた、青少年を愛しています。ですから、ここで申し上げたいことがあります。

人生でもっとも重要なことは「歩き続けること」

もっとも重要なことは勝利することではありません。人生でもっとも重要なことは「歩く」ということです。歩き続けることです。

これは何を意味するか? すなわち転ぶたびに起き上がる。それから、また新たに何かを始める勇気を持つ。何かに打ち負かされたときに、また立ち上がる、ということです。

すべての分野で重要なことは愛です。愛というものを私たちは生きるべきです。例えば、仕事があります。そしてまた何かが起こって、そしたまた、例えば収監される。そしてまた、牢獄に入れられる。

しかしながら、またそこから開放される。そしてまた、生き始める。そして、息をすることができる。いずれにしても、あなたの体が動くうちは、毎朝体が動く、そして生きているという、この奇跡というものを歌い上げるわけです。

人間より強い動物というのはいません。非常に素晴らしいものです。しかしながら、それで自分自身を満足してはいけません。学ばなければなりません。そして、つねに心を持って行動しなければなりません。

すると、大きな教訓を得ることができます。完全に勝利を収めることは絶対にありえないのです。つねに何か欠けているものが出るでしょう。しかしながら、絶対に完全に敗北するということはありません。

実際にどういうことで勝利を得ることができるのかといえば、それは、意思を持って生きるということです。それは例えば、この人生の最終地点に、何らかのゴールとしてのアーチがあって、そこに到達するということではありません。

そうではなくて、自分自身が意思を持って生きるということです。そしてまた、生きる力によって立ち上がるのです。