マメな男子としつこい男子の差とは

岡田斗司夫氏:今日すごい質問来てるな。「マメな男子としつこい男子とは、だいたいどこらへんに差があるんでしょうか? やっぱり顔ですか?」。

もう答えをご存知じゃないでしょうか(笑)。マメな男子としつこい男子の差は何かというと、やっぱり顔ですか。まあ、顔なんですけどね。

顔っていうのは表情じゃなくて印象のこともあるんで、しつこい男子っていうのはしつこいことに無自覚か、照れがあるか、どっちかなんですよね。

マメな男っていうのは、相手があんまり嫌がることをしない。結局、相手が嫌がることを何度もしてると、しつこいっていうふうに言われるわけですね。

相手が嫌がることじゃなくて、ちょっと嬉しかったりすることを何度もしてると、マメっていうふうに呼ばれるんで、マーケティング能力の差ではないのかなと思うんですけどね。

だから、それを顔っていうふうに言っちゃうのは、男子の側から言ったらちょっと思考停止じゃないのかなあと思う。顔が良くても、実はしつこくて嫌がられてる人っていくらでもいるんで、そのあたりを考えたほうがいいのではないでしょうか。

スウェーデンの屍姦と近親相姦を合法化する運動について

ほう。変なのが来た。「スウェーデンで屍姦と近親相姦を合法化しようとする運動が起こってるそうです」。屍姦っていうのは、死体とセックスするっていうことね。近親姦っていうのは、親兄弟とセックスすることですね。

「それらを合法化しようとする運動が起こってるそうです」。それは知らなかったなあ。

「気持ち悪いイコール違法というのは間違ってる、という理屈だそうですが、なんだかしっくりきません。岡田さんはどう思いますか? もし可能なら、合法化擁護の理屈を組んでもらいたいです」。

なるほどね。これはね、僕の3、4日前のFacebook見てくれたらですね、橘玲さんっていう人のコラムの紹介のところに、ほぼその回答みたいなのが書いてるんですけども。

屍姦とか近親姦を合法化しようとする運動が起こってる。これ、すごいよな。こういう話をすると「やっぱりそれはけしからん、嫌だ」っていうのは当たり前なんですね。

じゃあ、理屈で考えたらどういうふうになるのかって言ったら、理屈で考えたら違法のはずがないんですよ、別に。

自分の肉親であったら、例えば自分の奥さんが死んじゃったと、息引き取ったと。そのときに、自分の奥さんを愛するあまりセックスしたっていう男性がいたら、それは確かに気持ちは悪いのは悪いだろうけど、法律で罰するようなもんかねっていうのは、僕にはあります。

タブーに対して合理的に説明できた理屈が一度もない

近親姦も、橘玲さんが書いてた例では、避妊を完璧にやれば、兄弟でセックスをしても実は悪いことはないというよりは、これは議論の実験であったそうなんですけども、何がいけないのかを説明できた理屈っていうのが、1つもなかったそうなんですね。

そんときに書いてたのがなんだったかな、「自分のペットが死んだら食べる」っていうのと、「兄弟でセックスする」っていうのと、あと1つ、何かタブーが書いてあったんです。それに関して、なぜいけないのかを合理的に説明できた理由が一度もないと。

しかし、合理的に説明できた試しが1つもないんだけども、それに対する反対意見、嫌悪感っていうのは社会から絶対になくならない。イコール、社会というのは、非合理な約束事というか、非合理な道徳律でできている。

それに対して、「それは道徳律に反するから違法だ」にするのか「道徳律に反するから、違法じゃないんだけどもマナー違反だ」っていうことにするのか「道徳律っていうのを国民のコンセンサスとして守るために、違法扱いにするよ」「本当は違法じゃないっていうのはわかってるんだけども、こんなのは違法にしちゃうよ」っていうのにするのか。

この3つのフェーズがあると思うんですね。その問題になると思うんで、僕は「気持ち悪いイコール間違っているという理屈だそうですが、なんだかしっくりきません。岡田さんはどう思いますか?」っていうのは、うーん……。

屍姦は気持ち悪いと思うけど、近親姦は気持ち悪いと僕は思わないですね。気持ち悪いから違法にしたいっていう人が、世の中には山のようにいて、そういう人とは僕はあんまり友達になりたいとは思わないんで、友達がどんどん少ない人生になるんですけども。

「合法化擁護の理屈を組んでもらいたいです」と言われるとですね、非合法にする理屈が立たないんだから、合法で仕方ないじゃんと。そんなに非合法にしたいんだったら、おまえら、非合法の理屈を言ってみろよっていうこと、僕はそっちのほうを言いますね。

例えば、ホモとかレズとかの結婚を認めないっていう人がいるんだったら、ホモやレズが結婚してはいけない理屈を組んでくれたら、それで説得されてもいいんだけど、その理屈が成り立たないかぎり、基本的に合法でしょうというのが、僕の考えなんです。

ただ、この考えというのは僕は社会の多数の人たちとは、さっきも言いましたとおりズレてるんですよ。なので、僕の個人の考えでやっちゃうと、どんどんズレになってしまうんで、社会が安定化しないよなと。

ただ、これだけ国がバラバラにあって、どの国にもみんなが行けるような自由度っていうのが保たれてるんだったらば、ある国ではタブーであって道徳的にはいけないことが、別の国では合法というような状態はかなりいいとは思います。

だから、ほとんどの国が屍姦や近親姦を非合法としてるからこそ、スウェーデンあたりはいわゆる道徳先進国っていうんじゃないんでしょうね、合理化先進国なんでしょうね。合理化先進国がそういうことをやってくれるのは、「あー、けっこうけっこう」って思いますよね。

まず、世界で最初に自殺を合法にしたのも、あのへんの北欧の国々ですから、自殺の合法化っていうのが正しいのかどうかっていうのも、それら北欧のいき過ぎた人権先進国ですね。

そこらへんがやってくれるからこそ、僕らはいろいろ考えることができると思っています。なので、「岡田さんはどう思いますか?」。いいんじゃないかなと思います。

黒板に書いてあるものを写メで保存してはいけない理由

「もし岡田さんが高校教師で担当している生徒から、『なぜ黒板に書いてあるものを写メで保存したらいけないの?』って聞かれたら、どう言いくるめますか?」。

あー、黒板に書いてあるものを写メで保存してはいけない理由ですか。そういう個別のですね、OKとかダメとかっていうのを、僕は言わないほうだと思いますね。「ダメだからダメ」って答えると思います。もし、ダメにする場合は。

もちろん書いたほうが覚えるとか、写メのほうが合理的とか、いろんな考え方があるでしょうけども、僕が高校教師でクラスっていうのを持ってるんだとしたら、まず統一ルールとして、この学校、このクラスのなかでカメラ機能とか、あと携帯っていうのを使えるかどうかっていうのを、まず大枠として決めます。

使えると決めたんだったら、黒板を写メで写しても、もちろんOKにするけども、僕がもし高校の先生やるんならですね、100パーセント、教室のなかで携帯やスマホを操作するのは禁止にすると思います。

それに関して「なんでか?」っていうふうに言われたら、なんでかを説明する必要はないと。それが学校という場所であって「それが嫌だったらば、別に僕の授業に出なければいいよ」っていうふうに話すと思いますね。

そういう、何かすべてに関して理由っていうのがあると、学校に演劇性が持ち込まれない。先生と生徒の関係っていうのは、先生だから偉いんです、先生だから言うことを聞きなさいっていう、ある種、圧迫的な関係があってこその教育効果だと、僕は思っているんで。

大学とかは別なんですよ。でも、高校とか中学、小学校までは、先生が偉いという前提に立たないと、教室っていうのがまったく成立しないと思うんで。

学校は「先生だから偉い」というのが前提にある

(コメントにて)「さっきの話とぜんぜん違う」。うん、さっきの話の尊厳死とか屍姦とかの話っていうのは社会の話であって、次は有限な人数のクラスの話なんですね。

だから、運営方法はまったく違います。その演劇性のなかで、持たれてる嘘の先生への反発と、嘘の先生への尊敬っていうのがあるのが、僕の理想ですね。

それは「先生だから偉い」っていうのを、生徒には建前として言ってほしいし、「先生だからあんなのはくだらない」っていうのは、生徒の浅はかな本音として持ってもらうことが、なんとかクラスを運営するための最低条件だと思うんですけどね。

そうじゃなければ、ただ単に予備校とか、ネットクラスになっちゃうと思うんです。ちょっと合理主義っぽいことを言う人たちが、黒板は写メで撮れば十分とか、学校の先生はこういうふうな勉強を教えればいいっていうのは、ちょい浅いと思いますね。

寿司職人を大量に養成することが必要

僕はホリエモンのですね、例えば、「寿司は寿司スクールで教えればいい」「修業は無駄だ」という、これには100パーセント賛成するんですよ。

っていうのは、寿司スクールにいくような奴が、世界で寿司の基準っていうのを上げて、そんななかで本当の寿司食いたいような、所詮は寿司を食う人口の1パーセントぐらいの人は、いくらでも修業した寿司を食えばいいのであって。

まず必要なのは、寿司というものに対する、なんだろうな、文化に触ることができるように、寿司職人を大量に養成することが必要だ、というふうに僕は考えてるんで、寿司スクールはありなんです。

ただ、中学、高校の教育現場、小学校も特にそうなんですけど、そこには演劇性がないと、教育というもの自体ができない。というのは、寿司と違って、お客さんがいてお客さんが得てるのは寿司を食べるという文化的行為であり、寿司を食べるという満足感である、というような、Win-Winの、いわゆる消費者と提供者という関係でいんです。

学校の先生っていうのは、小中高校においては、もうちょっと政治的な場であり、文化的な場であると、まだ僕は幻想を持ってるんですね。そういう演劇性っていうのがないと、ちょっとしんどいですね。

生徒の自主性は大学から認めるべき

(コメントにて)「ただ勉強を学ぶのではなくて、学校という環境を体験するために必要ってこと?」。うーんとね、いや、学校の目的はただ単に全部の子供たちに問答無用の教育を与えることだと思います。

それは学校に行きたいからではなくて、学校に行きたい子供にも、学校に行きたくない子供にも、問答無用に教育を与えることが国力を上げるポイントだと思うんですよね。そこで生徒の自主性とかを認めてはいけない。

生徒の自主性っていうのは、大学から認めるべきであって、それまでは本当に、なんだろうな、その先生の有能さ無能さに関係なく、先生は演劇的な意味で絶対君主の場にあったほうがいいと思うんですね。演劇的な意味で、ですよ。

なので、その先生が無能で生徒にやさしいという演技をしたければ、無能で生徒にやさしい先生もOKだし、その先生がほんとに能力主義でできる奴ばっかりひいきするっていう先生をやりたいっていうんだったら、そういう先生もありだと。

先生にそんなに性能を求めちゃうと、僕らの先生じゃなくなっちゃう気がするんですけどね。これは何年か前に政治について話したときにもですね、政治家に高度の職能を求めてはいけないと思うんですよね。

有能な奴しか政治家になってはいけない、無能な政治家は排除しろとかですね。有能な人、すばらしい人格者しか先生になってはいけない、そうではない先生は排除しろって言ったらね、国民教育ってのは成立しないと思ってるんですね。

国民教育っていうのは、国民全員がちょっとずつ背伸びすることで成立しているようなもんでですね、決して国民全員をエリートにする教育ではないと思うんでです。

ああ、こんな話がドンドコドンドコ進んじゃうな。ごめんごめん(笑)。