締め切りはいつでも悪夢?

メリル・ストリープ:メリル・ストリープ氏:口が乾きます。みなさん、ありがとう。

スパー学長、ゴードン先生、テラマン学長、理事会のみなさん、卓越した教授陣のみなさん、誇りで胸いっぱいのご両親、そしてゴージャスな2010年の卒業生のみなさん、ありがとう。

もし、あなた方みなさんが、実に幸運に恵まれているなら。もしあなた方が超ハードに働き続けるなら。礼状とその名前を覚えていて依頼された全ての仕事を最後までやり遂げるなら。

また、なんとかして降りかかる問題の先を読んで対処するなら。どうにか災難を回避し大成功を収めるなら。もしあなた方がLSATやMSATやERSATなど、なんにせよ良いスコアを取って夢の大学院に進学したり。リーダーたる責任に見合う給与を得ることのできる素晴らしい仕事に結びつくインターンシップにありついたり。

もしくは、どうにか低予算のドキュメンタリー映画に出演する機会を得たと思ったらそれがサンダンス映画祭に招かれ、おそらくは映画祭で賞をとる。それから、オスカーにノミネートされオスカーをとる。

あるいは、もし友人と一緒に一攫千金を狙ってデザインしたWebサイトがどうにかして投資家や広告主を惹きつけ、それが何であれ人々がものを売ったりブログを書いたり共有したりネットで映像を流したりできるような、みんなが閲覧するポータルサイトになり、輝くような成功を手に入れたとします。

つまり、望んではいるけれど実際は予想もつかないような成功があなたのところに舞い込んだならば、あなたが好ましく思っている知り合いの誰かがやって来て次のように言うだろうことを、私は保証します。

「私の大学の卒業式でスピーチしてくれませんか?」

(会場笑・拍手)

「ええ、いいですよ。それで、いつ?」

「2010年の5月です。」

「2010年?」

ええ、それはちょうど数ヶ月前のこと、悪夢の始まりでした。

私たちみんな経験したことのある悪夢、あなたがたもきっと、卒業後であっても、40年経っても見続けるでしょうあれです。

締切日の大体1週間前くらいの真夜中に目が覚め、「レポートの提出があるのにまだテキストを読み終わってない! どうしよう!」ってね。

エキスパートのフリをするエキスパート

あなたがもし、成功の妖精に触れられたことがあるなら、「人はなぜそのことが分かるの?」と思うでしょう。

成功によって啓蒙する心が育まれ、道徳心からそれを肥料のように辺りに撒き散らすと人々は思うでしょう。

若い心を肥沃にさせよう。

秘密裏に彼らを招き入れ、他の誰も知らないあなたが知っていることって何でしょう?

自省が始まり、ある人は内面を見つめ、ある人は自分の内なる扉を開く。蜘蛛の巣、黒くて、白熱電球が燃え尽きて、通気の悪いジメジメした冷蔵庫、酷く不規則で未審査の生活、ただテイクアウトを得るためだけの生活。

作家の友だち、アン・クインドレンはどこ? 彼女を必要しているのに、新たな本巡りの旅に出たのかしら?

こんにちは、メリル・ストリープです。

(会場笑・拍手)

今日は、2010年度卒業生を前にして、私はとても光栄です。みなさんが人生の次のステージで成功するためのインスピレーションなりヒントになるような話をしてくれと頼まれているのですが、とても恐縮しています。

スパー学長、卓越したメダル受賞者の方々、尊敬を集める理事会、多くを成し遂げた教授陣や家族のみなさん、実際に物事に取り組み、生産してきた人々のことを考えると、一方私は何かをしているフリをしてきたわけですが、みなさんご存知のように私の成功というのは、人との良好な関係性というものに全面的に依存しているので、私の前のこのリストに載っているおよそ3800人の人々のことを考えると畏れ多いのです。

ですから、とにかく私がこんな立派なロールモデルたりえると、ご父兄の方々が考えるという確信はありません。

しかし、私は様々な分野のエキスパートであるかのように振る舞うエキスパートですので、このスピーチでは、あらゆる全てのものからランダムに選ぶと、私は、舞台やスクリーン上でキスをするエキスパートでしたし、今もそうです。

「演技」をすることによって成功した。

これについては、私はどのように準備をしたのでしょうか? 私の準備のほとんどは、ニュージャージーの郊外にある私の高校、あるいは、その高校の裏で起こりました。

私の生活の糧となる仕事においてキスをすることは多くを占めざるを得ません。エアキスだったりアスキス(おべっか)だったり、もちろん、実際のキスも。

俳優は、そこは売春婦の人たちと全く同じですが、好きでもない人、見知らぬ人とさえキスしないといけないわけです。友人ともキスしないといけないかもしれません。あなた方がどう思うにせよ、これはかなり変わったこと、私の世代の人にとっては、友人とキスするのは変わったことです。

私の、他のなんちゃって専門技能、川下り、放射性中毒の効果のモノマネ、どの靴をどのバッグに合わせればよいかについての知識、コーヒープランテーション、トルコ語、ポーランド語、ドイツ語、フランス語、イタリア語、マディソン郡の橋ではアイオワ・イタリアンでしたが、ブロンクスも少々、アラム語、イディッシュ語、アイルランドのクロッグダンス、料理、歌、乗馬、編み物、バイオリン演奏、偶然のエロチックな出会いを演出すること、これらはそうした領域の一部ですが、私はこうした分野──あるいは周辺の他の分野かもしれませんが──のフリを極めて上手くやったことで成功したのです。

ここにいる多くの女性と同じように、と私は思っています。

女性、私は厳としてこのことを言いたいと思います。特に、バーナードでは、私たちの話を聴くことができないでしょうから。

自分のため、グループのために演技をしてきた女性

私は一体何の話をしているのでしょう? 専門的な話ではありません。女性は男性より演技が上手い、ということです。

なぜか?

それは私たちが演技をせざるを得ないからなのです。自分より力のある人たちに、彼らが知らないことを上手に納得させることがサバイバルスキルであるなら、これこそ、この1000年間、女性たちがやってきた処世術だと言えます。

何かのフリをする、ということはただの遊びではありません。何かのフリをする、ということは、可能性を想像するということなのです。

何かのフリをする、演じるということは、人生において非常に重要なスキルであり、実際私たちはみんなそれを使っています。

いつの時代も、私たちは、そうすることで捕まりたくはないと思っていますが、それにもかかわらず、演じるということは、私たちヒトという種の適応の一部なのです。

私たちはその時代時代に突然訪れる危機に応じて自分たちの姿を変化させてきました。

それはただ戦略的だったり、自分自身の利益のためというわけでもなく、ときには共感的なものだったり、グループ全体の改良になるという意識すらなく、行われていたのでしょう。

演技で周りの人を引き込み、他者に感情移入した体験

私は、自分が初めて自覚的に演技を試みたときのことを明確に覚えています。

私は6歳で、母のハーフ・スリップを頭に乗せて、リビングルームで聖母マリアを演じる準備をしていました。ベッツィー・ウィッツィー人形を産着に包み、私は実際に静謐で神聖な気持ちになりました。

私の神々しい顔と変わった様子は父にはスーパー8に捕らわれたとみなされ、弟のハリーを引き込んで、庭で飼ってるジョセフとダナとも一緒に恍惚感の中で演じることとなりました。

私の集中力の激しさゆえに、実際、この降誕祭のシーンに彼らを引き込むことができました。

私のやりたいことを彼らにやらせる普段のテクニックにおいて、彼らに大声で指示することでは決して成し遂げることができなかったことについて、私はその日、何かを学んだのです。

後に私が9つのとき、母のアイブロー・ペンシルをとって、記憶の中にある、大好きだった祖母の顔の皺を再現するべく注意深く顔中に線を描きこみ、母に写真を撮ってもらったたことがあります。

今それを見ると、もちろん、それは今の私自身にも見えるし、当時の祖母の顔にも見えますが、その日、彼女の年齢をどのように感じていたかということを確かに思い出します。

私はそれをやめ、悩みを抱えながらも陽気な気分でした。そう、彼女の存在を感じていたのです。

感情移入こそ演技の核心

演者の芸術の核心は感情移入にあります。高校では、また別の演技が私の心をとらえました。アピールする方法を学びたくなったのです。

私は、頭に浮かぶ私がそうなりたいと思う、いわゆるかわいい女子高生の人格を研究しました。彼女を深く調査しました。つまり、ヴォーグ、セブンティーン、マドモワゼルマガジンの中を浅く。

私はそのページの中の、髪、口紅、まつ毛、一般に女子高生をアピールするようなしなやかでかわいい服を真似しようとしました。1日に1回リンゴを食べました。以上。

髪を脱色しストレートパーマをかけ、ブランド物の服を求めるようになりました。母はそれを私から遠ざけました。

でも私はやめませんでした。もっと懸命に、かつて思っていた以上にリアルにこの人格作りに取り組みました。

くすくす笑いにも挑戦しました。それが上手くいくときのことが好きだったので、くすくす笑いを軽やかにおこないました。

「えへっ」とか、語尾に「ウフフ」とか「あはっ」などとつけるのが。というのもそれは子供っぽくてかわいいと思っていたので。

これらはみな男子にアピールする仕草でしたが、同時に女子たちにも受け入れられました。とてもトリッキーな交渉法です。

演技で作り上げた人格が自分のリアルな人格になる

あるところでの成功が別の場所での成功を妨げることはよくあることです。私は、このようなあらゆる他の外見を選択することに加えて、俳優の言う、いわゆる内面の調節にも取り組みました。

私の生来の気質、若干横柄で我が強く、少し騒がしくて自分の意見を主張することが多くて上機嫌な性質を調節し、無理やり、ソフトで感じがよく、陽気で愛らしい内気なくらいの性質、もし身につけることができれば男子に対してとっても効果的な性質を身につけました。

女子には総スカンでした。

彼女たちは私を嫌い、このことに感づいていました。演技している、と。恐らく彼女たちは間違ってはいないでしょう。

だがしかし、私はこのことに専心していました。これはまったくシニカルな訓練などではないと確信していたからです。退化してしまった生存に必要な求愛行動のためのスキルを私は今磨いているのだ、と。

卒業年次になると、この調節した人格が私自身であると感じられるような地点にまで到達しました。私は実際、この人格こそが私だと自分自身納得するようになりました。

彼女、つまり私は可愛く、才能に溢れているけれど、決してお高くとまったところがない。

皆さんご存知の、どんな男子が言うバカげた発言についても、いちいちケラケラとよく笑い、正しいタイミングで目を伏せて従い、男子が会話の主導権を握ると素直に譲ることのできるような女子です。

私は本当にこのことを明確に覚えているので、この効果についてお話することができます。以前より男子に疎ましがられなくなり、彼らは私により好感を持つようになりましたし、私もこのことが好きになりました。

これは意識的なものでしたが、同時にやる気もでましたし、これこそがリアル、リアルな演技なのだと満足感を覚えました。

演じていた自分から目覚めて

その後、私はヴァッサー大学に進学しました。43年前は、いわゆるセブンシスターズ、女子版アイビー・リーグのすべての大学と同じく女子大でしたが、そこで私は、何人かの、せっかちですが挑戦的な終生の友人を得ました。

男子との競争の外に身を置き、彼女たちの手助けを得て、私の脳は目覚めました。目が覚め自分を客観視することで、再び自分自身を取り戻しました。私は演技する必要がなくなりました。

間抜けで熱情的で活動的でだらしがなく開放的で愉快で打たれ強い性格になることができました。友人たちがそうしてくれたのです。私は3週間に1回しか頭を洗いませんでしたが、「ビロードのうさぎ」みたいな私を彼女たちは受け入れてくれました。

私は架空のうさぎのぬいぐるみではなく、リアルなうさぎになりましたが、私は高校のときのこのキャラクターをちゃんとしまっておきました。そして、「ディア・ハンター」のリンダとして再び彼女に息を吹き込んだのです。

もしかしたらあなたたち卒業生の中には見た人がいないかもしれませんが、この「ディア・ハンター」は1978年のベスト・フィルムに選ばれました。ロバート・デ・ニーロ、クリス・ウォーケン、決してゲラゲラ笑える映画ではありません。

私はリンダという小さな町の労働者階級の少女を演じました。かわいらしく、物静かで、不幸な少女、愛した男性がベトナム戦争から帰還するのを待っている少女です。

私の世代の男性、たとえばクリントン大統領が、私に会った時に言っていたのが、「自分たちの世代の男性は、私(メリル・ストリープ)が演じた全女性キャラクターの中で、このキャラクターをお気に入りとして挙げる」ということでした。

なぜそうなのかということについて、私は自分なりの理解がありましたし、このことによって私の高校時代の決定が正しかったことの確証を得ることができました。

物語を引っ張る役に女性が少ない理由とは?

ところで、このことは彼女や彼女に惹きつけられた男の人たちを誹謗するものではありません。とにかく彼女はいまだ私の一部であり、私は彼女の一部なのです。

彼女は演技をしていたのではなく、脅かされ、服従的で、また、今なお多くの世界でいつ終わるともない暴力に晒されている少女のようにただ振る舞っただけなのです。

さて、世界がいかに変化したかという物差しになるのが、今、男性のお気に入りのキャラクターとしてミランダ・プリーストリーが挙げられていることがあります。

彼女は生粋のイタリア人で、「プラダを着た悪魔」の登場人物でファッション雑誌「ランウェイ」の編集長です。私の考えでは、このことは楽観的な変化を象徴しています。

男性たちはミランダを理解していますが、デートはリンダとしたいと思っています。リンダに対しては哀れみを感じるだけですが、ミランダには共感しています。

彼女の抱える問題を関連づけて理解することができます。彼女が自分自身と他人に課した高い基準、リーダーのポジションにいる者の報われなさ、「誰も私のことを理解してくれない」感、孤独さ、といったものを。

彼らはリンダのようなキャラクターについては、その局外に立ち、彼女に哀れみを感じ恋に落ちるような感覚を覚えるかもしれませんが、ミランダのような他のキャラクターの目を通して物を見ているのではないでしょうか。

これはとても大きな取引です。なぜなら、映画産業に従事している人々は、標準的な男性の観客を説得して、女性運動家が彼女たち自身が体現していることを通して、彼ら男性と彼女たちとの間に一体感を感じさせることが、まったくもって世界で一番難しいことだと知っているからです。

他のいかなる要因よりも、このことは、物語を引っ張っていく役割の女性がほとんど見られないということの理由を説明しています。

男性にも感情移入が芽生えてきた現代

比較すると、これは女性の観客にとってはずいぶん楽なことです。というのも私たち女性は皆、シェークスピアからサリンジャーまで男性キャラクターに自らを感情移入させながら育ち、成長してきたからです。

私たちは、ハムレットやロミオ、ティバルト、ハック・フィンやピーター・パンのジレンマを直感的に理解するのにそれほど手こずりません。剣を抜いてフックに立ち向かうところを覚えていますし、そのとき、私は彼に共感していました。

しかし、異性愛者である少年がジュリエットやデズデモーナ、ピーター・パンのウェンディに自らを同一化させることは、ずっとずっと難しいのです。なぜでしょう?

私にはその理由は分かりませんが、事実、そうなのです。想像上のペルソナを仮定する場合、そのペルソナを女性にすることに常に抵抗がありました。

今、これが変化してきています。あなたたちの世代では、この変化を目にするようになって来ています。男性が適応し始めているのです、時代に。

彼らは自覚的に適応しています。自覚的でなくてもそのことに理解していなくても、このことはグループ全体にとって改善と言えるでしょう。

彼らは、親の世代がとても困難だと見なしていたであろう、祖父の世代が忌み嫌っていたであろう、何が正常であるかということについての根深い偏見を変化させつつあります。

この感情の変化に至るドアは感情移入です。ユングはこう言っています。

「感情こそ意識を形作る主要素である。光が闇に変わることがないのと同じように、感情なしに無関心が情動に変わることもない」

また、レナード・コーエンはこう言っています。

「ひび割れにこそ注意を払うべきだ。なぜなら、そこから光が入ってくるのだから」

女性問題に大きな変化をもたらす世代

あなた方、バーナードの若い女性は可愛らしさというコルセットに自らを閉じ込めたり、自分の意見を消し去ったりしてはいけません。

そんなものは、既にキャンパスに置いていっているかもしれませんが。冗談ですよ。あなた方が得たものは、非常に特殊な教育という特権なのです。

あなた方は、完全に異なる視点を利用して、男女共学の学校で学んだ人たちとは異なる可能性を思い描くことができる人々なのです。この差異がどれほどあなた方に恩恵をもたらすかということを今ここで定量化することは困難です。

私があなた方の利点を分析するのに費やしたのと同じく40年かかるのかもしれません。

ですが今日、いわゆる女性問題、性の不平等という人権問題がグローバルな問題のまさに中心に生存しているこの世界で、あなた方は期待されているのです。

つまり、貧困、AIDSの脅威、暴力的な原理主義者の集団の勃興、人身売買、人権侵害などのグローバルな問題です。あなた方は、皆さんに与えられた美徳によって、これら全ての領域における発展を促す機会と義務を手にしているのです。

これは、とても需要の大きな領域です。その面白さもしかり。今はまさにあなた方の時代なのです。

あなた方にとっては当たり前に感じられることも、実際、世の中では当たり前ではありません。変化あるのみです。

こうした問題に抵抗し、もっと大きな変化をもたらすのです。

歴史上あるいは国内においても、上級学位を授与される女性はほとんどいませんでしたが、今は違います。

人類の夜明け以来、清掃目的以外で、私たちがこのような建物に入ることが許されるようになってから高々100年くらいしか経っていませんが、まもなく、法律や医学の学位のほとんどが女性に与えられるようになるかもしれません。

エコノミストによると、かつて自らが所有物だった世界中の貧しい女性たちが今、自分の資産を所有するようになっています。また、この20年間で、経済的に豊かな国の女性の雇用の増加が成長力の主な源泉となってきています。

グローバルなGDPの成長に対するこうした女性の貢献は、新しいテクノロジーや新興の大国である中国とインドの貢献よりも大きいのです。「天井のひび割れ、ドアの隙間、裁判所や上院のひび割れ」です。

幸福をもたらすのは名声ではなく共感

ご存知かもしれませんが、私は27年前にヴァッサー大学でスピーチをしています。

これは本当に好評で、実際みんな気に入ってくれました。トム・ブロコウ氏いわく、彼が今まで聴いた中で、一番の卒業式スピーチだったとのことです。

もちろん、私もそう信じています。このときのスピーチ原稿の作成は、今回のものよりもずっと簡単でした。

このときは多くのことを知っていたので、ずいぶんたやすくスピーチが浮かびました。そのとき私は母親になったばかりで、2つのアカデミー賞を受賞しており、本当によいことにこれら全てが一度にやってきました。

私は利口だったので、文例集を読んで何がいい感じに響くか理解していました。高校のときにグループに属しており、熱心で本格的なチアリーディングが私の特技だったので、スピーチの内容は私のやってきたことでした。

しかし今、私は若い女性が知っていることの16分の1くらいしか知らないと思います。

最近、物事が不明瞭になってきています。もう私は60歳で、4人の成人した子どもがおり、みんなあなた方と同じ試練に直面しています。

私は自分がまだ知らない物事に関してもっと楽観しており、まだまだ好奇心を持っています。成功、名声、有名であることについて私が知っていることを話せば、もう1回分のスピーチができるほどです。

成功や名声はあなたから友人、現実、バランスといったものを引き離します。無名であるということの大切さ、あなた方はそういう宝物を持っていることを知らないでしょうし、失うまでは分からないと思います。

あなたの家族にとって、そのことがいかに物事を困難にするか、有名であるかどうかは、結局のところ、絶え間なく流れる時間の中ではたいした価値を持ちません。

もちろん、私がここに招かれたのは私が有名で何度も賞を受賞したからだということは分かっています。

私は傲慢にも自分がやってきた仕事──もちろん、私が一人でやったのではありません──について誇りを持っていますが、賞の受賞は、私自身の個人的な幸せや幸福感や目的意識にはほとんど寄与しないということを請合いましょう。

こうした幸福は、世界を学ぶこと、仕事を通した共感によって世界を感じることによって得られます。警鐘を鳴らし、生き続けること、私の手助けを必要としている愛すべき、より広い世界の人々の生活に関与し続けることによって得ることができます。

両親が誇りに思う人であれ

テレビの中で私が小像を手に何かをぶちまけているところを見たり聴いたりしても関係ありません。

それは演技ですから。

有名人になることは私に隠れることを教えてくれましたが、俳優になることは私の心を開いてくれました。

今日ここにいることによって、私は自分自身の内面を見つめ、あなた方と共有できる役立つ何かを見つけることを強いられましたが、私は本当にあなた方がこのチャンスを与えてくれたことに感謝しています。

あなたたちは有名になる必要はありません。あなたたちは、ただただご両親があなたを誇りに思えるようにするだけであり、それは既にできています。

ブラボー。

卒業おめでとう。

(会場・拍手)