30年で大きく低迷した日本経済

坂本建一郎氏(以下、坂本):では工藤校長、おそらくいろんな言いたいことがあるんじゃないかと思って伺っていましたが、どうぞよろしくお願いいたします。

工藤勇一氏(以下、工藤):こんにちは、工藤です。よろしくお願いします。今、植松さんから日本の課題についてお話がありました。今日は学校関係の方が多いと聞いているので、もしかすると同じ僕の話を何度も聞いたことがあるかもしれないんですけれども、植松さんの話に関連するスライドを出したいと思います。

日本はこのままじゃだめだと、僕も思っているんですけど、でもこれは日本だけじゃなくて、たぶん世界中の方々が「もしかしたら、地球はだめかもしれない」と思い始めた時代を、僕らは生きていると思うんです。日本だけ見ても、今から30年前の日本と今の日本はぜんぜん違う。

どうしても日本が経済的にうまくいかないことだけがクローズアップされることが多くて、植松さんもこのあいだお話をしていましたけれども、平成元年の頃は日本の会社は絶好調の時代で、株式の時価総額も世界の20位までに14社と7割が日本企業で、50社のうちの32社が日本企業という時代がありました。

それから30年が経って、平成31年にはもうすでに20社の中に日本企業は1社もなくて、トップ3はGAFAと言われる、AppleとかAmazon、Facebookとか、そういった会社ばかりになっていた。それから、50社の中にもトヨタ1社しかない。それくらい経済が低迷している。

平成元年の頃だったら、1人あたりのGDPはたぶん世界でほぼトップの時代です。GDPそのものは世界第2位で、たぶん1人あたりが世界トップくらい。それから今はもう30年以上経っていますけれども、今現在はと言うと、2020年の1人あたりのGDPは日本は23番目でしたっけ。

“自国のための学校教育”の時代から変わりつつある世界

工藤:先ほど言いかけたこのスライドの図に戻りたいと思います。実は日本がだめになっているというよりも、世界中が「地球が保たなくなっているんじゃないの?」という考え方が主流になってきている。

例えば自然災害だけ見ても、日本だけじゃなくて、最近ではドイツや中国も大変なことになっています。世界中が自然災害だらけになっている。どうも地球の環境がおかしくなっている。「その原因は何?」と言った場合に、人間たちが自由な経済活動を続けてきたことが大きな原因の1つになっていることを、地球上で人類が認識し始めた。

「学校教育の目的って何ですか?」と言われたら、今から150年くらい前にさかのぼった明治維新の頃だったらすごく簡単で、「国民全員に学問を与えて、国を豊かにして、外国と渡り合える国を作ろう」「兵力を強くして、戦争に負けない国を作ろう」というようなことが、富国強兵という日本の学校教育の目的だったし、それは日本だけじゃなくて、おそらく世界中がそうだったと思うんです。

世界中が自分の国のことを考えて、学校教育を考えていた時代が長く続いた。でも、十数年くらい前から「そうじゃないぞ」と気づき始めたわけです。「今地球上に起こっている問題は、自分の国だけでは解決できない」とみんなが気づき始めた。

学校教育の2つの目的を実現させる「当事者意識」の重要性

工藤:「Learning Framework」とこのスライドには書いてありますけれども、これはOECD(経済協力開発機構)が2030年を目指して作った教育目標と言ったほうがいいと思います。学校教育の目的は2つあって、1つはわかりやすいものです。どんな子どもも、世の中に出た時によりよく生きていけるようにするために学校がある。

もう1つは、これが新しく位置づけられたことだと思うんですけれども、社会全体、地球、また人類全体が持続可能な方向で、よりよい社会が作られていくために学校はあるということです。

これを実現することは非常に難しくて、実現するためには、スライドに「Agency」とありますけれども、すべての人間が、この社会を作っている当事者であることがまず大事です。「Agency」というのは、そういう当事者意識のことです。「主体的にこの世の中を生きていますか」という話です。

みんなが主体的になるのはすごく難しい話で、そこでどんな力が必要かというと、1つは「Taking Responsibility」と書いてありますけれども、一人ひとりが自分で考えて、自分で行動をすることができるという力。主体的な自律した人間として、責任ある行動が取れるという力です。

「学力」は、世の中のいろんな矛盾を解決するためにある

工藤:もう1つがとても重要なところです。地球上に何かを開発すれば地球環境が崩れてしまったりと、簡単にはうまくいかなかったりする。物事は必ずうまくいかないようにできているわけです。人間がみんな自由に生きたら、必ず対立やジレンマが起きてしまう。

その時に「持続可能な方向で解決をするように、みんなで対立・ジレンマを調停しませんか」とみんなで合意するものをきちんと持っていればよいのですが、いったん大人になった人間はこれが簡単じゃないんです。自分の会社を存続させることに躍起にならなきゃいけないし、自分の生活が大事になってくる。

だから、子どもの頃からこういった訓練を、子どもたちの中でしていく必要があるだろう。日本は、ここをひと括りに「思いやりの心」とか心の教育といったものでまとめてしまおうとしていますけど、そんなに簡単なことじゃないということです。思いやりがあって優しさがあったら地球に平和が来るのかって言われても、来ないんです。

一人ひとりを立てようとすると地球全体がしっぺ返しを食らう可能性があるから、持続可能な方向でどういう方法がいいのかと、みんなで必死になって対話をする力が必要なんです。

3つ目は、学校の役割のもっとも重要な部分かもしれないんですけど、いつの間にか「学校は勉強するところ」という勘違いをみんなしているんですけれども、本当は何のために勉強するのかと言うと、世の中が持続可能な方向でいろんなものを生み出していく力をつけるためで、それが必要なんです。

つまり対立とかジレンマを解決するためには、植松さんのように新しい技術を開発する人たちが必要だし、社会の制度がおかしかったら、その社会の制度を新しい時代に合わせて変えていくシステムを作り出すことが必要だと。学力というのは、いろんな矛盾を解決するためにあるんだという、より実効性のあるものだという位置づけなんです。世の中が変わってきている。

先ほども言いましたけど、もしかしたら人類が存続できなくなるかもしれないという恐れのもとに、教育のあるべき姿が世界中で問われ始めた。でも日本は相変わらず世界と比べて遅れているとか、PISAの国際学力調査の結果がどうとか、数学的リテラシーがどうかとか、そういったことに目が行っている。すごく悲しい話だと思います。

自分を「社会の一員」と思えない日本の子どもたち

工藤:もう1つ見てほしいものがあります。これもいろんなところで何度も説明しているのできっと見たことがある人がいると思うんですけど、もう1回みなさんと一緒に確認したいです。

世界中どの国においても自分が社会の一員だという意識をしなければいけないんです。自分たちが当事者だと。それから、自分で国や社会を変えられると思えるような人でいたい。自分の国には課題があって、それを議論して解決できるようになりたいと、地球上のみんなが思わなければいけない時代なのに、日本の私たちだけがいつも人を頼っている。

このグラフから見えてくるのは、高校3年生の、自分を大人だと思えない日本の子どもたちの姿。社会の一員だと思えない高校生の姿です。日本の子どもたちは、自分で国や社会を変えられると思う子どもが本当に少ない。自分の国に課題が見えない、それを議論しようとしない子どもたちの姿があります。

この子どもたちの姿は、誰が作っているのかというと、我々学校なんです。僕も学校の現場で生きてきたからよくわかりますけど、さっき冒頭の基調提案の部分で、山田さんから、新型コロナの問題で教員は「こんなことをやってあげたらどうだろう」と考えたという話がありました。

でも、横並びがうんぬんと実現できない理由を言って、教育委員会のようないろんな会がNOと言ってストップをかける。でも、ストップをかける社会を作ったのは、我々学校なんです。このことの意識を、教員たちはたぶん見失っていると思うんです。つまり、僕らが教室で育てている子どもたちの姿は、そのまま次の社会の世の中の姿につながっているものなんです。

今の学校に必要なことは、「教室の文化が社会に染み出している」という自覚

工藤:今日は厳しいことをお話しさせてもらいますが、「地球のことを考えて一生懸命がんばっている」とか「そのための教育を僕らは子どもたちにしている」という自負を持ってやっている教員がいっぱいいるかもしれないんですけど、でもその結果が、実は今の社会を作っているという認識が必要です。

だから、ストップをかけている人たちを作っているのが僕ら学校そのもので、実は批判をしている相手は、自分たちの教室の姿そのものとなにも変わっていないかもしれないですよということを、今日の問題提起として最初にお話をしておきたいと思います。

坂本:ありがとうございます。とてもすばらしいお話で、オンラインで聴講しておられる方のチャットの書き込みでも「勇気をいただいた」と書かれていて、私も工藤校長にいろいろお話を伺うんですが、毎回、勇気をいただけると思っています。

植松社長のお話は、今日本の社会がどういう状態にいるのかということでした。それから工藤校長のお話は、世界規模で起きていることを踏まえると、私たちは学校において何をしなければいけないのかという、かなり強い問題提起であったと思います。

山田先生、何か言いたいことがありそうな顔をしているんですけれども、いかがですか? 今回講師として参加してくださったお2人の先生方のお話を受けて。

山田洋一氏(以下、山田):まず、僕はストップをかけているのは教育委員会とは言っていないです(笑)。

坂本:そういうことじゃなくて(笑)。

山田:そこはいいんですか?(笑)。ただ、僕もさっきオンライン上の控室でお2人とその話をしていたんですが、教室の文化が社会に染み出していっているという自覚から私たちはスタートしないといけない。つまり、僕ら学校は自分たちが染み出したものによって、自分たちの首を絞められていると思うんだよね。そこをまず自覚して、じゃあ何から変えられるかと言ったら、自分の教室から変えていく、あるいは自分の学校から変えていく、自分の現場から変えていくしかないんだということです。

「言うことを聞け」という指導が生む、「指示待ち」の子どもたち

山田:それと、植松社長の最初の「外国から来た人が日本で起業して、その起業した会社に日本の大学生がアルバイトで使われている」というのは、衝撃的な話だと思いました。

坂本:確かに工藤校長がおっしゃったとおり、主体性を失っていくと「指示待ち」になりますよね。「指示待ち」は使い古された言葉で、長らく指摘されてきたことですけど、まず自分で何かしようと思えなくなっちゃっている。まさしく植松社長がおっしゃったとおりで、どんどん創造性を失っちゃうという話でしたよね。

山田:1970年くらいの時から始まっている日本の一番景気のいい時期に、僕ら学校は「先生の言うことを聞きなさい」という指導をずっとしてきた。

その頃に大事にされたことを、未だに大事にしている先生方がけっこういらっしゃって、とにかく「俺の言うことを聞け」「俺の言うことを聞いていれば間違いないんだ」という指導をされている方々って、その人たちはこれからの社会にどうやって責任取るのか? という話だと思うんだよね。ちょっと言い過ぎたので、ここからは穏便に(笑)。

坂本:(笑)。植松社長、工藤先生のお話と山田さんの応答を聞いていかがですか?

植松努氏(以下、植松):地球環境が変わっていくのは、過去の歴史上もいくつかあったことなので、その原因が何なのかはよくわからない部分があるんですけれども。大事なことは、環境が変化しても絶滅はしてこなかったということなんです。大事なことは「変化」なんです。

その変化を食い止めるというか、一番絶滅に近づく道は、「現状維持」なんです。なんとなく今の子どもたちを見ていると……例えばこのあいだ、札幌の学校の子たちが修学旅行で来てくれたんです。最後にみんなでロケットにデザインをするんですけど、誰も何も書かないんです。全員真っ白。

「なんで?」と聞いても誰も答えてくれなくて、それでも僕はしつこく聞くわけです。そうしたら、ある子が教えてくれました。「何か書くと、何か言われるんです」「何か言う人は、何も書かない人なんです」。恐ろしいことが起きていると思いました。

社会を変えるのは、「子どもたちを支える教育」と「保護者をどうにかする企業」

植松:その学校の子たちが帰った後で感想文を送ってくれたんだけど、感想文の260枚くらいが全部同じなんです。「拝啓、新緑の候、植松電機のみなさまにおかれましては」「敬具」と。「けんか売っているのかな」と思いながら読みましたけれども(笑)。

要は、みんな同じにすることがちゃんとしている感じというか。違うと何か言われるという、おそらく「現状維持」になってしまう力学になっているんじゃないかという気がしています。今、多くの企業もそれをやっちゃっているんです。

僕は子どもの学校でPTAを長くやっていたんですけれども、そこで多くのお父さんやお母さんを見ていて気が付きましたが、企業がおかしい場合は、働いているお父さんもお母さんもおかしくなって、その子たちもおかしくなります。今の日本って人口が減っちゃっているのに、未だに経済はプラス成長を目標にしちゃったりしているんです。そのせいで、昭和の意識のまま動いている会社が山ほどあるんです。

そういった会社は国内だけでけんかしているんですけれども、世界と向き合ったら、そんな会社はぜんぜん通用しないです。そういった会社で働いている人があまりにも多いから、おそらく子どもたちにもその影響も出るだろうし、社会が全部影響していると思って。

僕は、この社会を変える力があるのは「子どもたちを支える教育」と「保護者をどうにかする企業」。この両方が力を合わせなければだめなのではないかと、すごく感じているところです。「決まりを守りなさい」とずっと言われてきた大人は、本当に決まりを守ることしかできないので、「新しい決まりを作る」ことってすごく大事なことなんですけど、それができない人がすごく増えた気がします。

よかれと思って「型」ばかりを教える教員の問題点

坂本:工藤校長、いかがですか? 今の植松さんの意見を聞いて。

工藤:まったく同感です。日本の教育がよかれと思ってやっていることを見直さないといけない。例えばさっきの「拝啓」「敬具」も、たぶんその指導をした教員はよかれと思ってやっている。それが本当に悲劇です。何のためにやっているかわからなくなったんです。

教員も、自分たちがしていることの目的を考えていないんです。目的を考えないで、惰性でやっている教育が多い。教員にしてみたら、世の中の常識とか世の中の挨拶のしかたを教えてあげなければいけないと思って、先ほどのような手紙の書き方を教えているわけです。

でも、大人の社会って、もう「拝啓」「敬具」でビジネス上の文章を書く大人なんていないですよね。20年くらい前だったら、講師に来てもらった方に「拝啓」「敬具」でお礼の手紙とか、手書きでハガキで出したりしていたこともあったと思います。今はそんな時代じゃないですよね。電話1本のほうが喜ばれる時代だし、電話でなくてもメールで書きますけれども、メールはメールの定型文のようなものがあって、だいたい一番最初に「何とかです」と自分のことを紹介しますよね。

読んでくれる人のことを考えるから、まず誰からメールが来たのかがわかるようにするとか、そういった目的を重視したルールになっているでしょう? ルールは、目的のために編み出したものじゃないですか。でも日本の学校の先生は、「メールの定型文って何だろう」ってきっと調べると思うんです。そして「こういうルールで書きますよね」ということをよかれと思って子どもたちに教えてしまうわけです。

でも本当に教育で教えなきゃいけないのは、「誰に、何のために書くの?」という「目的」と「他者」。そのはずなのに、いつの間にか「型」を教えるんです。「初めの書き方は」「中の書き方は」「終わりの書き方は」みたいなことを訓練させていく。

現実の社会を見失った教員たちが、ハウツーばかりをよかれと思ってやっている。結果的に子どもたちはそれに慣れていくから、目的や他者を見失った「型」ばかりが染みついていくわけです。子どもたちもいつも「どうすればいいんだろう」「先生、次は何すればいいんですか?」と、みんなが「型」がないと不安になるわけです。先生に教えてもらわないと、何をしていいかわからない。

学級担任制度がもたらした、学校の「サービス産業化」

工藤:つまり、学校は「失敗できる場所」じゃなくて、「型やあらかじめ決められたルールを教えてもらう場所」。教員はよかれと思って、丁寧にああだこうだといろいろとサービスをしていくわけです。「ああしなさい」「こうしなさい」と。

それが極端に限界まできているのが今の日本の社会で、保護者の方とか子どもたちは、完全にサービスを受ける側に回ってしまっているので、教員たちを値踏みするんです。学級担任制はその象徴的な姿です。学級担任制をなぜ僕が学年担任制に変えていったかと言うと、学級担任制はもっともサービス産業化をもたらすんです。

会社における営業マンと同じで、学級担任が自らの「営業成績」をみんなで競争するわけです。グラフが書いてあって「あなたは何個売りました」みたいなことが、職員室で行われるわけです。その結果、「あいつはだめだな」「あの教員は使えないな」みたいに職員室の教員たちがなんとなく思い始めるわけです。

しかもその「営業成績」は、「保護者と生徒にどれだけ評価されているか」という、今の僕から言わせたら他愛もないことです。僕も若い頃は、もしかしたら教壇に立ったばかりの頃はそれを競っていた時代があったかもしれないけど、それじゃだめなんですよね。そんなことで評価を得ようと思って競争をしているから、本質が見えなくなっちゃうんです。

だから「本当に必要なものって何?」という、本物の本質を見ていく専門性が、今こそ教員に求められている。やや乱暴な言い方になるかもしれませんが、学習指導要領の上を行くような人にならないといけないんです。学習指導要領に書かれていることだけを実現する教員になっちゃいけないんです。

学習指導要領って、どうして作られたと思いますか。だって「本当に重要なものはこれだ」という本質を見つける力は一人ひとりに、大学を出たばかりの教員にも求められていると思うんです。そういう本質に届く教育を大学の教育学部はしなきゃいけないのに、実際にそれができていない。だからみんなが定型になっちゃった感じです。

学校でのトラブルを担任のせいにする、子どもと保護者

坂本:そうですね。形を整えたり、形を守ることを一生懸命になっているけど、本当は社会は私たちが作っているものであって、その当事者意識が失われている。先ほど工藤校長は日本財団の調査結果を紹介しながら高校3年生の姿について話されましたが、そもそも私たちが自分たちの社会を自分たちのものだと思っていないということですよね。

工藤:だから学校でトラブルがあった時、保護者の方とか、生徒までが「うちの担任は力がないから、うちのクラスはまとまらないんだよね」みたいな言い方をするわけです。「誰の教室なの?」って。全員担任制にすればすぐわかりますけど、本当だったら誰も先生を……。

坂本:頼らない?

工藤:頼らないと言ったら変ですけど、必要な時には大人たちの力を借りようとすると思いますが、基本的には自分たちのことは自分たちで考えるようになるので。

坂本:ああ、なるほど。

工藤:自分たちのクラスがうまくまとまらないことを、先生のせいにしないんですよね。自分たちだけで生活していたら、自分たちがなんとかしなきゃいけないと思うわけじゃないですか。

(前の職場の)東京都千代田区立麹町中学校では、数学の授業は3年間自習なわけです。3年間自習で先生が教えなくなったら、「落ちこぼれ」と言われるような生徒は出ないし全員の進度も早くなるという不思議なことが起こったわけです。

たぶん植松電機さんと同じかもしれないですけど、教え込むかたちから、自分で取り組む授業スタイルにすると一見「放任」に見えるかのような感じで数学の授業が行われますが、実際は放任ではなく、自分のペースで自分ごととして皆が学びに取り組むんです。

そうすると、自分がわからないことを先生のせいにする子なんて、1人も育ちません。「わからなかったら人に聞かなきゃ」と思う子どもが育つわけで、まったく違うんです。

学校の先生がやるべきは、「指導」ではなく「支援」

工藤:僕もかつて教育委員会の指導主事をしていたので、よくわかりますが、指導主事は学校を見に行って指導助言をするわけです。

「先生、窓側の後ろから3番目の子がつまづいていたの、気がついていました?」と例えば言うわけです。「あれ、気がつかなければだめですよ」「あそこが問題なんだから、もっと丁寧に教えてあげなきゃいけないでしょう」ということを偉そうに言うわけだけど、これってもう論の立て方がおかしいわけです。

「サービスをもっとしなさい」と教えている教育になっているから、子どもはますます自律を失っていくわけです。そんなことをよかれと思ってやってしまっているのが、今の学校教育です。これを本当に根本から作り直していかなきゃいけない時代がやってきたんだと思います。

坂本:次のセッションでもその話が出るかもしれませんけど、指導ではなく支援、教え込むのではなく自ら学べる環境を作るといった、そういうやり方に学校の先生も変わっていかなきゃいけないということですよね。