『学び合い』が子どもたちに与える影響

井本陽久氏(以下、井本):それでは「放課後」の時間になりました。もうちょっと授業を延長して、質問に答えていければなと思います。

(スライドを指しながら)今、ちらっと見たのですが、「できる子ができない子に教える『学び合い』という手法が最近、中高の現場ではやっているようなのですが、どう思いますか?」。

これも、やっぱり……。聞いて嫌な思いをする人がいるかもしれない。どうしようかな。

いろんな「研修の場」があるじゃないですか。僕はそういうところには基本的に行かないんです。ただ、あるとき若手が「こういうところがあるんですけど、一緒に行きませんか?」と言ってくれたので行ったんですよ。

「学び合い」のコミュニティだったんですけど、みんなすばらしい人たちなんですよ。そこは誤解しないでください。すばらしいんだけど、「『学び合い』じゃなければ学びじゃない」という感じなんですよ。その瞬間に、僕は(心の)シャッターがスパーンと閉まって(笑)。

そりゃあ、僕も大人なのでニコニコしていますよ? 僕はその場では、「そうですよね」とか言っているけど……。「アクティブラーニング」というものがあって、「アクティブラーニング」というのは本来、「自発的な学び」ということだったんだろうけど、どうしてもそれじゃわからないので「型」を求めますよね。それが「共同学習」みたいな方向にいくわけですよ。

でも、間違いなく言えるのは、基本的に「共同学習」ばっかりになったら、学校に来られなくなる子はどんどん増えますね。だって、そうでしょう? 自分のやったことが、この班で出す成果に影響しちゃうんですよ? もう、それが怖くて行けないという子は絶対に出てきますね。

先生も生徒も、一人ひとりが違うからこそ

僕は学びというのは、やっぱりこれにつきると思うんです。さっき、「人は一人ひとり違う」と言いました。子どもたちは一人ひとり、みんな違う。だから一人ひとりの学びというものを認めるということが、まずベースにあると思います。

当然、授業をやったときに一人ひとりみんなに違う方法でやるなんて、無理じゃないですか。でも教員は、「こういう方法をとるけど、この子はどうかな? あの子はどうかな?」というのをずっと見ているということです。

だから、方法じゃないと思うんですよ。その先生が一人ひとりを本当に大事と思っているかどうか。そう思っていたら、自然にその人の授業は自分にしかできないということが……。まさに、アクティブラーニングですね。それを、子どもたちに提供する場になると思うんですね。

「できる子に合わせます」とか、「できない子に合わせます」というものがあるじゃないですか。僕は、それを本当にそうしている人って、やっぱりうまくできてないと思うんですよ。「できる子に合わせてやったら、このできない子たちはどうなるのかな?」というふうに見て、初めて授業って成立すると思うんですね。

一人ひとりを見捨てないことは基本だと思います。これは大変ですね。苦しいけど、それをやるというのがやっぱり教員だと思いますね。

大人が不安から子どもに関わろうとするとうまくいかない

(スライドを指しながら)「先生の講演は2回目です。プロフェッショナル(注:NHK総合テレビジョンの情報・ドキュメンタリー番組『プロフェッショナル 仕事の流儀』)を見ました。ひどく共感しました」。

ひどく……。そうですね。ありがとうございます。

「(子どもが)中学受験予定です。家庭での仕掛けをずっとしてきたので、受験勉強に意欲的に取り組んでいます。しかしながら算数はそこそこで、計算はあまり速くないです」。

子どもの学びに、一生懸命関わろうとするじゃないですか。まず、いいことがないです。これはみなさんも経験しているんじゃないですか? まず、いいことがないですね。もうちょっときちんと言うと、(親は)みんな不安から関わろうとするからです。そうすると絶対、うまくいかないんです。

なぜかと言ったら、その子からしたら、教えてもらっていることを聞くんじゃなくて、「あなたを認めない、あなたを認めない、あなたを認めない」というのをずっと「聞かされる」のと同じだからです。これは、うまくいくわけがないですね。

なので、今この方がそういう方ということではないですが、「不安があって関わろうとするんだったら、やめたほうがいい」ということですね。でも、(親としては)この子をなんとかしてあげたい。その子がそのお母さんのもとに生まれたということは、お母さんと出会うために生まれたんですよね。お互いに出会うために、生まれたと思うんです。

例えば、僕がこの子と出会ったのは、この子にとっては僕と出会うことに意味があったし、僕にとってもこの子に出会うことには意味があったから、ということなんです。「そのままでいい」というのは、そのことですね。

なので、まずその子の人生を受け入れることができていないと、必ず不安が出てきてしまうし、関わるのはうまくいかないと思います。プロでも難しいですね。

計算はたくさんやるからできるというものではない

あと、僕は(担当が)数学という教科ですけれども、数学って本当に嫌な教科です。「問題を解きましょう」というところで、できる/できないで言うと、数学ほど嫌な教科ってないんですよ。だって、めちゃくちゃできないことがはっきりするじゃないですか。計算とかね。できないとつまんないでしょう?

僕は小学生のことはわからないですけど、中学生を見ていて、計算ということに絞って1つ思うことを言うと、「計算をたくさんやりなさい」と言うじゃないですか。でも、それは嘘なんですよ。雑なんです。そのこと自体は否定しないけれども、計算って、たくさんやるからできるものじゃないんですよ。ちょっとやって身についた人は、たくさんはやらないんですね。

もちろんベースに「自分は筆算を知っている」とか、いろいろありますけれども、それよりも何ができるかできないかを分けるかと言ったら、計算って「工夫をするかどうか」なんですよ。これができる人は、練習しながら「こうすればもっと簡単に出るじゃん!」という工夫を見つけられるんですよ。

だから、計算をたくさんトレーニングさせることはまずいんです。中学の学習内容に代数がありますね。代数の指導で、できない子には、「おまえは暗算するな! 1個1個、括弧を外しなさい!」というふうにやりますよね。あれは、ぜんぜん間違いなんです。

例えばxについての2次式の因数分解。あれはなんでつまずくかと言うと、簡単なんですよ。実は、因数分解って何をやっているかと言ったら、展開の暗算の逆をしているんです。だから、展開の暗算ができなければ、理屈で言われても因数分解なんてできるわけがないんですよ。これは、実際にやってみたらいいと思います。

ぜんぜんできない、展開までできるのに因数分解でピタッとできないという子は、本当に簡単な問題でいいので展開の問題を暗算させてから因数分解をポッとやったら、ぜんぜん変わりますね。

計算ができることと数理的な思考力は別物

もっと簡単なところで言うと、例えば7-9とかを習いますね? (手振りを交えながら)あれを数直線で「7」、「9」みたいにして「おまえら、やれ!」みたいな。最初の頃はそれで満点が取れるけど、その子はもう因数分解ができないです。というか、文字の扱いは絶対にできないですね。

例えば7-9って、やっているうちに「7-9も、9-7も一緒だな」という工夫を見つけるんですよ。「その差はマイナスがつくかプラスがつくかだけだな」と見るようになるわけですよ。数直線で考えている子も、その段階では同じ計算はできますよ? しかし数直線でやっていた人は、例えば文字になったとき、a-bとb-aは同類項だということに気づけないですよね。

教科書は、そういう工夫を自然に身につけていく子が次もできるようになっているんですよ。でも、自分でその工夫をつかみ取れなかった子は、もう何もできないわけですね。なので計算は、そんなにたくさんやらせればいいということじゃないんですよ。

これも縁だと思っているけど、僕は中学の代数について、鎌倉学園の優秀な数学の先生と一緒に生徒のつまずきを分析して、「こういうところを通ったらできるんじゃないか?」というものを作ったんですね。

そのやり方を、鎌倉学園の先生の数学が超苦手な姪っ子にさせたそうなんですよ。そうしたらメキメキ伸びて、いまだに数学の計算はバリバリできる。だからと言って、思考力はぜんぜんついていない。

だから計算をミスなくやれることと、数理的な思考力が伸びることというのはイコールじゃないということです。そこも、冷静にならなきゃだめです。ただ、「計算くらいはできなきゃ」ということで、「ほら、間違えちゃいけない」「計算ミスしちゃいけない」というようなことに走っちゃうというのは怖いですね。

答えを聞きたがるか、自分で見つけようとするか

(スライドを切り替えながら)あとは、何かありますか? 

「解答を一切出さないとおっしゃいましたが、解答を欲しがる学生、受け身な学生への対応は、どうされていますか?」。

そうですね。どうしているだろう。というか、生徒が解答を欲しがらないですね。僕は毎年、中1、中2と受け持ちますけど、僕に質問には来ないです。

なぜかと言うと僕が答えを出す人じゃないから。僕の授業自体ができることを求めてないんですよ。彼らからすると、「え、マジ!? 違うの!?」とか、「おー、すげー!」という授業での「びっくり」が楽しいから、そっちのほうに目がいっていますよね。

変な話、答えを教えられちゃったら嫌じゃないですか。自分で見つけてびっくりしたいじゃないですか。だから、答えを聞かないですね。これは生徒一人ひとりの問題というよりも、どのような学びの場を提供しているかということだと思うんですね。

だから受験というものを考えたら「いや、先生。そんなのはいいから解き方を教えてよ」というのになるかもしれないですね。受験って本当にやっかいですね。

最後にエピソードを紹介します。サッカー部の生徒が中3のときに、成績がもうこんな(低さ)で、超やばかったと。2学期に数学の単位を落としたら留年してしまうような感じだった。中間試験前の日曜日に、その子を呼んで特訓したんですよ。

その子には「おまえは余計なことをするな!」「この範囲は、絶対にこの問題が出る。これはできなくても捨てよう!」というふうに傾向と対策で「こうしろ!」と。はっきり言って、今までの人生で唯一、魂を売りましたね。「もうとにかくこれをやれ。これはやらなくていい」ってやったら、平均以上の点が取れたんですよ。怖いと思いました。

だって、傾向と対策でできちゃうんですよ? 東大入試とかも最近はそれでできちゃうんですよ? やばいですよね。本当に、子どもたちの学びはどうなるんだろうと思っています。本当にかわいそうだなと。

勉強を教えるよりも、生徒が学びたくなる関係を作る

最後にもう1つ、補習した別の子の話をします。同じサッカー部で2学期に単位を取らなきゃまずい、数学ができなきゃまずいという生徒がいました。数学αと数学βというのがあって、僕はβを教えていたんだけど、αのほうがメタメタで、これを落とすともう留年しちゃうという子がいたんです。その子も夏休みに15日間ぐらい、毎日4時間ぐらい補習をやったんですよ。

もう、ばーっと学習内容を戻ってやったんです。大分前まで戻りました。中1ぐらいまでやったかな。それでずーっとやって、終わって、「もうちょっと先までやっておこうか」と言って先まで、2学期にやるところまでやったんです。

そうしたら彼は、中間で平均以上の成績を取りました。数学α、僕じゃないほうでね。だけど、やっぱり失速するんですよ。教え込んだ分、失速した。留年にはならなかったけど、やっぱり期末試験はぜんぜんだめだったんです。

でも、話はそれだけじゃなかったんですよ。僕の数学βのほうは、何も教えてないのにそいつがトップですよ。テストのトップ。

これ、不思議でしょう? 僕は何も教えてないんですよ。なぜかといったら、夏休みにずっと一緒にいて、なんか同志みたいな感じなんですよ。だから、たぶん僕の授業は前のめりだったと思うんです。何も僕は教えていない。自主的に学びにいった結果だと思うんですよね。

さっき僕が魂を売ってわーっとやったのと、彼が自分で勝手にできるようになったのと、どっちが彼らを幸せにするかと言ったら、もう迷うことはないと思うんです。

ただ、そうは言っても、僕もそうですけど、学校の先生は受験というのがあって、そこと向き合わざるをえない。受験指導には「こうやったらいい」なんて、すっきりした答えがない。だから大切なのは、ちゃんと悩み続けるということができることだと思うんですね。

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