両親が出会ったのもミシガン大学

ラリー・ペイジ氏:2009年卒業生の皆さん! まずは皆さん、立ってください! ご家族やご友人に手を振って皆さんの声を聞かせてあげてください。今日この場に呼んでいただき本当に光栄です。「いや、そんなありきたりなこと言って。みんなそう言うさ」と思うかもしれませんが、心からそう思っています。本当です。その理由を皆さんにお話しましょう。

その昔、1962年の9月、ある寒い日のことでした。スティーブン教授が立ち上げた学生のための共同生活宅が、この大学にかつて存在しました。そしてその中のキッチンの天井は、学生ボランティアがまあ10年毎くらいに掃除するレベルの清潔さでした。

(会場笑)

そこにグロリアという女子学生がいました。彼女ははしごに上って、一生懸命その汚い天井の掃除をしていました。そこにカールという男子学生がやってきて、はしごの下からグロリアのことを覗き見て楽しんでいました。そう、こうして私の両親は出会ったのです。グロリアとカールは私の両親です。はい、なので私は、ある意味で正にミシガン大学で「キッチンで化学実験」の結果、生まれたと言えるでしょう。

(会場笑)

今日ここに私の母も来ています。ちょっと当時の共同生活宅跡地に行って、「お父さん、お母さんありがとう!」と書いたプレートでも壁に立て付けたいですね。私、弟、両親、家族全員がこの学校の卒業生です。私の父は3つと半分の学位をここで取得したので、学費の割引が利いたくらいです。父はコンピューターサイエンスのPh.D.プログラムにいました。当時コンピュータなんていうのは、ある一部の人にだけウケるオタク的な存在だったことも学費割引に関係があったかもしれません。

父はコンピューターサイエンスの学位を44年前に取りました。私の両親は、父の学位取得のためにかなりの苦労をしました。私の弟はまだ生まれたての赤ん坊で、両親はお金の事でもよく喧嘩をしていました。母は父の博士論文をタイプライターで打ちました。コンピューターサイエンスの博士論文なのに皮肉ですよね。今私が着ているベルベットのローブは、父が卒業時に着たものです。

(会場拍手)

私が手に持っているのは父の卒業証書です。皆さんもこれをもうすぐ受け取りますね。えーそして、僕のボクサーパンツは……なんでもないです、すみません(笑)。

父はミシガン大学の教授だった

私の父の父、私の祖父はミシガン州フリントにあるシボレーの工場で、ベルトコンベアのライン作業をしていました。彼は、彼の子供たちをここに連れてきて、「お前たちは大きくなったらこの大学で勉強するんだ」と言いました。彼の2人の子供は、そろってミシガン大学を卒業しました。まさにアメリカンドリームです。彼の娘ビバリーは、今日この会場に来ています。

祖父はいつも重い鉄のハンマーを持ち歩いていました。工場の作業員たちが座り込み、ストライキをしたときに護身用に作ったものです。私が子供の頃は、何かを打ち付けるときにはいつもそのハンマーを使っていました。現在はほとんどの人が護身用に重いハンマーを持ち運ぶ必要がないのではないでしょうか? それは平和な証拠です。素晴らしいですね。でも念のために……ハンマーを持ってきました!

(会場拍手、笑い)

そして私の父はミシガン大学の教授になりました! 私はとてもラッキーでした。教授の生活はとてもフレキシブルで、私は多くの時間を父と過ごしました。大学教授の息子なんて、これ以上ラッキーなことがあるでしょうか?

このストーリーで皆さんにお伝えしたいのは、今日この日は、私にとって「ここに戻ってこられて嬉しい」などという言葉では言い表せないほど特別である、ということです。母、弟、妻のルーシー、そして皆さんと共に、私が生きてきた証であるこの最高の学校で今日この日を迎えることができたことを、本当に誇りに思います。皆さんのこれからが本当に楽しみです。皆さんのご家族だってどんなに嬉しく思っていることでしょう。皆さんとミシガン大学ファミリーになれて、とても嬉しいです。

そしてもうひとつ、皆さんにお伝えしたいこと。それは、皆さんの気持ちはよくわかっているよ、ということです。「どこかのおじさんが長いことベラベラ喋るのをじっと座って聞かなくてはいけない……」という気持ち。大丈夫、そんなに長くかかりませんからね。

(会場笑)

夢を現実にする方法とは?

夢を追いかけることについて、お話したいと思います。正確には、夢を現実にする方法と言ったほうが良いかもしれません。夜中にすごくリアルな夢を見て飛び起きたことはありませんか? 飛び起きたときにそれを書き留めておかなければ、翌朝その夢を思い出すことはできません。23歳のときにこれを経験しました。鮮明なビジョンが夢に出てきたのです。バッと飛び起きて考えました。「もしもウェブのすべてをダウンロードできたとしたら? リンクを保存して……」。すぐさまペンを掴んで頭に浮かんだアイディアをすべて書き殴りました。

(眠り続けて)夢を見るのをやめたほうがいいときもあるのです。その夜はずっとアイディアを書き出して、夢を現実にする方法を考えました。そして私はそのアイディアを大学の教授に話します。「……ということで、すべてのウェブをダウンロードするのにたぶん数週間かかると思うんです」。そのとき彼は、私の計画には数週間どころか莫大な時間がかかることを知っていたはずですが、何も言わずに私に好きなようにやらせてくれました。

若者の「絶対にできる!」と信じる力は、時にものすごいことに繋がります。当時はサーチエンジンを作ろうなどと、これっぽっちも考えていませんでした。それでもその後、ウェブページをランク付けする良い方法を考案し、素晴らしいサーチエンジンが生まれました。それがGoogleです。素晴らしいことを思い付いたら、とにかくやってみることです。

私はミシガン大学で、夢を現実にする方法を学びました。それは言い過ぎだろうよ、と皆さんは言うかもしれませんが、「リーダーシェイプ」というサマーキャンプから多くを学びました。プログラムのスローガンは「不可能なことなどない」。このプログラムは自分でもあり得ないと思うようなアイディアだって形にすることができるんだ、と教えてくれました。

「ものすごく大きいバカみたいな夢」を見ること

私は当時キャンパス内を走るバスに代わる、もっと便利な移動手段を開発したかったのです。これは将来の交通手段の改革を見据えたアイデアでした。今でも公共交通機関の改革について考えています。一度見た夢が消えることはないのです。仕事にしなければ、いつまでも趣味として残ります。家事、料理、掃除、車の運転等日々の雑用、毎日必ずしなければならないことに人が費やす時間を減らすために、将来色々な技術が開発されることでしょう。つまり、「不可能なことなどない」をモットーに問題に対して新しいアプローチを取り続ければ、全く新しい解決策が生まれるのです。

ものすごく大きい、バカみたいな夢を見ることは成功するためのキーだと思います。バカなことを言っている、と思うでしょう? 夢が非現実的であればあるほど、競争者がいなくなる。今現在、私レベルにクレイジーな人は世の中に数えるほどしかいないので、彼らの名前を空(そら)で挙げられるくらいです。

(会場笑)

クレイジーはクレイジー同士、惹かれあうものなのです。大きく成功する人は大きな挑戦をします。これはGoogleも同じです。私たちのミッションは世界中の情報を整理して、世界中の人々が整理された情報にアクセスできるようにすることです。こんな素晴らしいアイディアにわくわくしない人などいないでしょう?

わくわくすることが、世界を変える

実は、今のGoogleは生まれなかったのかもしれないんです。私と共同設立者のセルゲイは、Ph.D.プログラムを退学することについてかなりのためらいがありました。雨風突風が巻き起こる中、路肩で踏ん張る虫の気分になったら、それは成功へ近づいている証拠です。それが3枚のクレジットカードの限度額を最大限使ってハードウェアを購入したときの私たちの気分でした。それがGoogle初のハードウェアとなりました。皆さん、クレジットカードはできるだけ多く持っていると便利です。

(会場笑)

常にわくわくすることに取り組むことが、世界を変えることに繋がります。Ph.Dの学生だったとき、3つやりたいことがありました。担当教授から「しばらくウェブに取り組んだらどうだい?」と言われました。これはとてもありがたい助言でした。当時1995年でしたが、すでにウェブは急成長中でした。

テクノロジー、特にインターネットは人に時間を与え、怠け者にします。どういう意味かというと、百万人の人が利用できるソフトウェアをたった3人で書くことができる。でもたった3人の人間が一日に100万人の人の電話対応をすることができるでしょうか? レバレッジを見つけましょう! そしてもっと自分の時間をつくりましょう! 怠け者になるのです!

(会場拍手、笑い)

世の中は厳しい世界だ、と思っている方も多いと思います。それでも、クレイジーに自分の探究心のまま好きなことを追いかけ、わくわくしながら、今の自分よりもっとよくなろうと努めて下さい。夢をあきらめないで。世界が皆さんを待っています。

父が亡くなった理由

最後にこの話をしたいと思います。このような素晴らしい日は、とても浮き足立った気分になります。サーカスの舞台でキャノン砲からポーンと弾き飛ばされて空を飛ぶような。この世で何ひとつ自分の道をさえぎるものはない、そんな気分にすらなります。でも覚えておいてください。大切な人と過ごす時間、世界を変える大きな仕事を成し遂げるチャンス、人生が私たちに用意した素晴らしい時間やチャンスは簡単に奪われてしまうこともあるのです。それもとても早く、私たちに心の準備ができていないときにやってきます。

1996年の3月、私がスタンフォード大学の大学院に入ってまもなくのことです。父が呼吸困難となり病院へ運ばれました。2か月後、父は亡くなりました。悲しくて悲しくて、どうしたらいいかわかりませんでした。スタートアップを始めたときも、恋に落ちたときも、人生の冒険を楽しんでいても、私は常に父のことを考えていました。

ここから遠いある場所で、ある日(妻の)ルーシーと私は、蒸し暑い村の中を歩いていました。村の人々はとても親切で良い人ばかりでしたが、そこはとても貧しい場所でした。村では皆が室内でトイレを使いますが、トイレ使用後の汚水は、排水溝を伝ってそのまま川へ流れ出ます。私とルーシーはポリオ感染で麻痺した足を引きずる少年と触れ合いました。私とルーシーが訪れたその場所は、世界で未だにポリオが残っている世界の数か所のひとつ。インドのとある村でした。感染が広がった理由は整備されていない下水システム、汚水によってです。水に混ざった排泄物が口内に入り、感染します。

私の父もポリオを患っていました。6歳のときにテネシーに行った時に感染。2か月入院し、父が自宅に戻る際には軍が起動、軍機に乗せられ帰宅しました。軍機での空の旅が、父の人生初のフライトとなりました。「その後も学校に行けるようになるまでに1年以上の自宅静養が必要だった」。これは父が5年生のときに書いた自伝からの引用です。

父は生涯を通じて呼吸困難に悩みました。そしてポリオの合併症が彼の命を奪う決定打となりました。ワクチンがあるのに未だにポリオが残っていると知ったら、父は怒るでしょう。私たちがインドの村で靴の裏にポリオウイルスをつけたまま歩き回ってウイルスを広めたと知ったら、それに対しても父は怒るでしょう。ポリオ撲滅まであと少し、現在世界で328人の方がポリオに感染しています。一刻も早く、ポリオをこの世から追放しなければなりません。皆さんの中からポリオ撲滅に大きく貢献する方が出てきたら嬉しいです。

(会場拍手)

50年前の父のスピーチ

1956年、父は高校の卒業式で90人の同級生を代表する卒業生総代を務めました。最近その当時の父のスピーチを発見したのですが、とても驚きました。53年前、父は卒業式でこう言いました。

「私たちの世界は変化を始めた。全自動化、雇用形態の変化によって教育の在り方が変わってきたのは、経済的観点から見ても当然のことだろう。この変化により、私たちはこれからもっと多くの時間を自分の興味を追求するために充てられるようになるだろう。それに加えて、仕事の時間も減らせるし、リタイヤさせられる年齢もどんどん下がっていく。たとえ今現在この時点で不可能に思えることでも、化学、医学、工業の発達を常に目指すべきである。『国家の未来は、国民の早期教育の良し悪しにかかっている』とはよく言われる。アメリカのすべての若者がこれからもずっと教育を受け続ければ、今後アメリカはさらなる発展を遂げる事であろう」

父が生きていたら(妻の)ルーシーが妊娠していることをとても喜んでくれるはずです。でも多分私がPh.D の学位をまだ取っていないことに顔をしかめるでしょう。父は見識広く、常に新しいことを求めていました。よく思うんです、現代のこの社会の変化を父が生きていたらどう思うのだろうかと。もし父が今日この場所にいることができたら、それは父にとって人生で最も素晴らしい日のひとつとなったことは間違いありません。もし父が今日この場所にいられたら、きっと彼はお菓子屋に入った少年のように目を輝かせ、青年に戻ったかのように興奮を隠し切れていなかったことでしょう。

私たちの多くは、今日この日を家族と共に迎えます。これがどんなにラッキーであることか。友人や家族、帰る場所があることの素晴らしさ。皆さんの中には私とルーシーのように、新しい家族をつくることを夢見ている方もいるでしょう。私もそうだったように、家族のお蔭で今皆さんがここにいるのです。そして皆さんが大事な家族を今日この場所に連れてきた。覚えておいてください。人生において家族より大事なものはありません。お母さん、ルーシーありがとう。皆さん、本当にどうもありがとう!