IVS特別番組「経営者としての経験の積み方・成長の仕方」

奥田浩美氏(以下、奥田):こんにちは。IVS特別番組をお届けします。このセッションは、経営者としての経験の積み方と成長の仕方ということで、お二人の経営者をお招きしています。株式会社じげん、平尾さんです。よろしくお願いします。

平尾丈氏(以下、平尾):よろしくお願いします。

奥田:もうお一方は、株式会社セプテーニ・ホールディングス、佐藤さんです。よろしくお願いします。

佐藤光紀氏(以下、佐藤):よろしくお願いします。

奥田:ではここからは、お一人ずつ、自己紹介と事業説明など、お話しいただけますか。

カテゴリーに依存しない「じげん」のビジネスモデル

平尾:私、次元を超える事業家集団じげんという会社をやっております愛情、友情、平尾丈と申します。よろしくお願いします。

奥田:よろしくお願いします。

平尾:もともとIT社長になりたくて慶応のSFCに入学して、大学で実際に起業してから、14年ぐらいやらせていただいています。

その間に、リクルートという会社に入らせていただいたんですが、新卒採用なのに自分の会社やったまま入れていただきました。起業でいうと3回目でございます。

事業家集団と言っているとおり、ITの先輩方にあこがれて私たちも事業をやっていますけども、今IT企業ってふえてきてまして、どちらかというと、フロントにIT企業といっても格好がつかない時代かなと思っていて。

なので、インダストリーインターネットみたいな話も出ていますけども、インターネットを武器に、各産業に染み出していけるような事業家集団になりたいという思いでやっている会社でございます。上場したのは、もう一昨年のことになりまして。

奥田:もうそんなに!

平尾:そうなんです。1年半ぐらいたちまして、だんだん忘れ去られないように頑張らなきゃなと思っているんですが(笑)。

私たちがやっている事業というのは、求人であったりとか、不動産であったり、旅行であったりとか、生活者の方々が意思決定されるときにわりとコストがかかる領域で、プラットフォームを複数つくらせていただいている会社でございます。

うちの会社がちょっと変わっているなとよく思っているのは、ひとつのカテゴリーに依存してその業界を変えようというのではなく、「各産業すべていくぞ」という欲張りな姿勢でいることです。それもあって、サービス面じゃない「じげん」という会社名をつけています。

奥田:この分野に特化というのじゃなく。

平尾:じゃないです。全部やりたい会社です。欲張りな会社を経営しております。

奥田:わかりました、ありがとうございます。では続きまして、佐藤さん、お願いします。

ミュージシャンの道からIT起業家へ

佐藤:よろしくお願いします。セプテーニ・ホールディングスの佐藤といいます。セプテーニというインターネット広告の会社を中心に、今、20数社による企業グループになっています。

もともと私自身の話でいうと、24歳のときに今の事業、もともと新卒で入った会社で立ち上げて今に至るということで、17年目ですね。なので起業家として、最初は20代でわりとピチピチしていた時期だったのがいつの間にか……。

奥田:今なんか大御所っていう感じが……。

佐藤:こういうIVSとかも出始めたのですけども、いつの間にか平尾さんみたいに、まぶしい後輩の方々がどんどん出てきて、だいぶ中堅になってきた。こういう時期なのですけど。

事業としては、インターネットの広告だったり、メディア、コンテンツ系ということで、ゲームとか漫画とか、コンシューマー向けのインターネットサービスというのもつくっている。

今、7ヵ国で20数拠点にオフィスが広がって、社員数でいうと1,000人ぐらいの会社を経営しているということで、もともとこういう場でも何度かお話しているのですけど。

自分自身は、起業家を志したというよりは、もともと16〜24歳までミュージシャンをしていて。今の事業を起業するまでは、ずっとミュージシャンで曲をつくったり、演奏したりとか、そういうパフォーマンスをしていたんですけども。

奥田:どういう分野の。

佐藤:もういろんなジャンルです。ロックからポップスから、ファンクとか、踊れる音楽みたいなものいろいろ、楽器を弾いたり、曲をつくったりとか、そういうことをしていて。音楽をして、自分がつくりたいものを世の中に出していって、自分も相手も幸せになったらいいなと。

会社経営とモノづくり、双方から受ける刺激

佐藤:こういうのからだんだん事業をつくって、偉大な会社を目指して経営をして、それで世の中にいい影響を与えていくほうが、音楽よりもっとおもしろいなというふうに途中で気づいてしまって。それ以降、こういう仕事に没頭しているというのが、最近の日々です。

最近は漫画をつくってまして、自分自身が漫画の編集者とか企画をする人間として、この2年ぐらいで50作品くらい新連載の漫画をつくって、それを読者の方に届けるプラットフォームを運営してたりとか。感覚的には何か最近、音楽をしていたときの自分のモノづくりの感覚に近づいてきて。

経営をしていると、どうしても左脳的な計数管理の世界で生きていくみたいな、スプレッドシートを前にして(数字を)叩くみたいな、そういうことになりがちなのですけど、一見するとロジックのないようなモノづくり、直感的なモノづくりを同時並行で(やっていて)、今ちょうど50パーセントずつくらいですかね。

経営とそういうモノづくりをフィフティ・フィフティくらいで毎日過ごしているのですけども。それは自分にとってはすごくフレッシュな体験で、自分自身がクリエイティビティを刺激されるという意味では、毎日心地よく、ストレスなく楽しく生きているという、こんなちょっと能天気な感じです。

奥田:ありがとうございます。

佐藤:叱られちゃいそうですが。

奥田:何をお話しても、何か照明のせいじゃなくキラキラきますよね。平尾さん。

平尾:格好いいですよね。僕なんか、実は一番近い距離にいるので、佐藤光紀社長の笑顔と横顔がここにあると緊張しちゃって、すごいですね。何かテレビ番組を見ているみたいになっちゃってます。

奥田:この枠は、プリンス枠でお二人呼んでいるので(笑)。

平尾:見習いで今日はやりたいなと思っています(笑)。

奥田:ここでは、本当にお互いお話をしながら、気になることはそれぞれ突っ込みながらで進めていきたいと思うのですけれども、どういう経緯で起業したかというのは、今までのお話にもちょっとは出てきたんですけれども。

これが一番のきっかけになったという出来事があって起業の道に入ったのか、そのあたりをちょっと聞かせていただけますか。

幼少期に芽生えた「格差」に対する問題意識

平尾:最初に起業したのは、学生時代なのですけども。今、ちょうどピケティの「r>g」みたいな、いわゆる格差問題ってかなり出ているんじゃないですか。

結局その格差問題って、今すごい言語化されてきているのですが。実は私は幼少期から、ちょっと裕福ではない家庭で育ちまして。経歴だけご覧になられると、慶応大学出てたりとか、わりとおぼっちゃまなんじゃないかとよく言われるのです。風貌から。

奥田:そう思います。風貌から。

平尾:実は私は相当たたき上げていまして、ちょっと漫画の話があったので、漫画の話を出すと、『キャプテン翼』ってあるじゃないですか。サッカーのやつです。

あれで名言があって「ボールは友達だよ」と。翼君世代ですよね。少年ジャンプ世代なので、今日はそこのあたりから入っていきたいと思いますけど。家にボールしかないわけですよ、翼君も。うちにはボールもなくて、あったのは公文のプリントだけだった。「やっててよかった公文式」の公文。

奥田:算数、国語みたいな。

平尾:そうなんです。祖父が社長で工場みたいなのをやっていて、本来父はそれを受け継ぐおぼっちゃまだったのです。2代目なりのいろんな人生をたどる予定だったのですが、祖父のところで潰れてしまいまして、その頃に生まれたのが私なんですよね。

そうすると生まれた頃には、「昔、金持ちだったらしい」ということしかなくて、家に食糧もあまりなく……これは嫌な記憶ですけど、家の冷蔵庫を開けると何も入っていないんですね。昔、ジュースだと思って、植物にあげる栄養ドリンクみたいなのが……。

奥田:緑色みたいなやつですか。

平尾:そうなんです、入っていて。それを食べちゃいけない、飲んじゃいけないと思ってないのと、あまりにも喉が渇いて……。それを飲んで、救急車で運ばれたこともあったり。

そんななか、家に公文のプリントがあって、そればっかりやっていたら、わりと勉強は軌道に乗っていきまして、学力でなんとか私立に入れていただきました。わりとヒエラルキーというか、裕福なご家庭の方、おぼっちゃまとの会話を通じて自分との差をどんどん感じてきていて。

幼い頃から格差に対する問題意識が芽生えまして。例えば、私も慶応大学に行くと福沢諭吉先生が創立者ですから、「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」とおっしゃっているのですけれども、「これはうそだな」と13歳ぐらいで思いまして。

奥田:ずっと東京で育って。

平尾:育ちも生まれも東京でして、血はちょっと半分佐渡島が入っています。色白でございますけども。

奥田:さっきから突っ込みたくなる。

平尾:長くなっちゃうので。

佐藤:切っていただきながら。

平尾:絶対話長い。

奥田:起業のところにいきましょうか。

情報格差への取り組みが人生のテーマ

平尾:なので、その「格差に対してどう向き合うか」というところが私の原点なんですよ。途中ゲーマーになったりとか、いろいろあるんですけど。その格差のなかでも所得格差とかではなくて。

当時、インターネットが出てきたというのもあったんですが、私は情報格差というところに一番、ビジネスチャンスというよりも、「何なんだこれは」と感じるところがあったんですよね。

奥田:2000何年ですか?

平尾:起業したの2001年ぐらいからずっとまねごとを始めていきまして、ちょうど「ドットコム・バブル」がはじけちゃって、焼け野原になったぐらい、もう1回またベンチャーが出てきたタイミングだと思います。

奥田:私も今の会社は2001年に立ち上げているので。

平尾:そうですか。

奥田:この時代はよくわかります。

平尾:佐藤さんあれですよね、セプテーニさんのほうも2000……。

佐藤:1999年が今の事業始めたタイミングで。

平尾:そうですよね。

奥田:やはりその情報格差っていう部分を確認して、事業を立ち上げ。

平尾:その格差に対して取り組んでいくというところに私の人生のテーマが置かれたというのがきっかけでしたね。

奥田:わかりました。その辺の詳しいことも、また後でお聞きするとして。じゃあ、起業に至ったきっかけを佐藤さんのほうからも。

IT産業に感じた破壊的な影響力

佐藤:先ほども少しお話したんですけど、自分の場合は音楽をずっとしていて、それ以上におもしろいもの見つけちゃった、というのがもうシンプルな動機です。

それ以外でいうと、当時僕が新卒で入った会社が上場を目指していて、自分が今の事業始めたのは1999年だったのですけど、入社3年目のときだったんです。

もともとしていた事業があったんですけど、これがその当時、自分も担当していたのでわかるのですけど、上場した後この事業1本で伸ばしていけるのかというのに、すごく不透明感を感じていて。

もっとダイナミックに会社を伸ばしていくのに、既存の延長線じゃない何か、非連続の成長というのをするにはやっぱり新規事業しかないのじゃないかというのが。

今のは会社的な文脈としてであって、一方で、自分の中にも野性的なというか「やっぱり自分が何かしたい。何者かになりたい」という動機の中で、もともと入社して2年間はずっと音楽と2足のわらじだったのです。

自分はミュージシャンで、一応会社の仕事はしているけれども、やっぱりどちらかというとアーティスト、クリエイター、そっちのほうで生きていきたいというのがあったのですけど。

ただやっぱり、音楽していく中で、もやもやしていた部分というのもあって、「このまま本当に、世界中に自分たちのつくったものを届けて、すばらしい体験だと送り出せるようなものに、自分はそういった何者かになれるんだろうか?」という不安とか焦りみたいなのはあって。それをがむしゃらに仕事することで忘れようとしていた、いう時期でもあったんです。

奥田:一番最初につくった事業というのは、核はどういうところだったんですか?

佐藤:今の事業です。

奥田:その中でも具体的に。

佐藤:具体的に、インターネット広告の代理事業というのがあって、もともとがアドネットワークを最初に、いわゆるEメールの広告、電子メールの広告のアドネットワークというのを一番最初に立ち上げて、そこから広告の手法というのがいろいろと拡張して今の形になっていったんですけど。なので、やっぱりインターネットが産業にもたらす破壊的な影響というのを生でダイナミックに感じて。

ここだったら、新しく世の中に大きな仕組みとか、エコシステムというものが誕生するところに、自分がその当時者として、新しいものを生み出せるんじゃないか、新しい世の中をリードできるんじゃないかというふうに、もう直感的に、電流が流れるような、ビリビリッとくる感覚(があった)。

奥田:よく音が鳴るとも言いますよね。

佐藤:いろんな人からも同じように聞きますけども、自分もやっぱりそういう感覚で、これはある意味、大いなる勘違いなのかもしれないですけど、これはもう自分がやらなきゃいけないんじゃないかって。

やっぱりインターネットがもたらす世の中への影響って、何百年に一度というサイクルでしかこないレベルの産業革命だと、たまたま自分がその場に20代前半でいて、これから世の中が変わっていくタイミングで、そこに自分が旗を立てなくてどうするんだ、という感覚になったんですよね。

なので、そこはもう直感的にもうこれしかないというので、会社をドライブさせるという目的にもかなっているし、やろうということで始めたというのが当時の状況です。

奥田:私もやはり同じように感じていて、今のこの時代にITが広まってきて、先ほど格差とおっしゃいましたけど、地方だとか、高齢者に対して行き渡っていないというところの事業を今立ち上げているんですけれども。

今の時代に、女性であり地方で生まれて、ITの世界でずっと生きてきたこの瞬間だから、というのをすごく私も感じてやっていますので。