テレビのポエム化を防ぐには?

質問者4:先ほどからメディアがポエム化しているという話がありまして。私はポエム化している最大のメディアであるテレビで働いていまして、今の話を聞いてると耳が痛い部分があるんですが、確かにテレビって、何か情緒がないと見てもらえない部分があると思うんです。

その中で開沼さんの本のデータのような、きっちりしたものを取り入れてくか、ポエム化を防ぐにはどうしたらいいのかを、メディアの外から見て、どう思われますか(笑)。

武田徹氏(以下、武田):テレビってこれからすごく変わりますよね。視聴率を録画も含めて取ってきたりするようになったり、ストリーミングメディアだったのが蓄積も可能になっていったり、これから相当変わると思うので。そういうテレビの変わり方をうまく使うことによって活路が開けるような、私は希望を持ちたいなと思っています。

バナナの叩き売りと同じで、その場でチャンネルを回してくれる人をつかまなきゃいけないような要請は、おそらく相対的には減ってくる方向にあるでしょう。

現場の感覚は違うかもしれませんけど、その辺でちょっと変わっていく可能性もあると期待したいところもありますけど、どうでしょう。

質問者4:そこまではまだ行けないですね。

開沼博氏(以下、開沼):4年間ずっとメディアに出ていて、BSフジのプライムニュースとか、もちろんTBSラジオのSession22とか、結構ポエムじゃない、ひたすら時間を取って専門性ある論者の話だらだらラジオ的な感じてやっていくところに一定の固定客がついていますよね。

当然、大きく数字が出るものじゃないけども、今いろいろチャンネルが増えているし、フジテレビもインターネット放送の「ホウドウキョク」とかはじめて自由に番組を作り出している。そういうところでいいモデルを作っていくのがひとつなのかなと出ている側としては思ったりします。

ポエム化は最近始まったものではない

質問者5:僕もメディアの人間で、開沼さんと同じ高校を出ています。それは関係ないですが、メディア論、ポエムというのは昔から、それはもう戦前から戦後もずっとあって、別にここ最近になって始まった話ではないように思います。だから、メディアはずっとポエムで、そういう比喩でしか語れないと思うんですね。

ただ、どういう比喩がいいのかについて言えば、さっき武田さんがおっしゃったように民主主義のあり方、あるいはどういう議論の場が我々にないのかに気がついただけで、ずいぶん意味のある話であって、あんまりポエムがどうしたとか、散文がどうしたとか言ってもしょうがなくて。

だから我々は何がなかったのか、何を作っていかねばならないのか。これもひとつの比喩やポエムであるわけですけど、そういうことに気が付いたのは、開沼さんがおっしゃったBSフジで散文的にたらたらやることも同じ直線上にあると思うんです。それだけでも僕は良かったんじゃないかなというふうに思います。ポエムなんてのは昔からありますよ。

武田:おっしゃるように日本はずっと詩的な文化です。そして、気づきがあったから良かったというのは、その通りだと思うんです。でも、たとえばメディアの公共性とかの議論が311後にちゃんとできているかというと、どうでしょうね。

放送を例にして言えば、1950年に電波三法ができた後に放送法の体制ができ、電波監理委員会がなくなった後の行政との距離感の取り方とか、そういった議論は時間が経ってもなかなか蓄積されてこなかったように思うんです。私は、そこはもどかしいというか、残念な気がして。

言論人には構造を理解したうえで発現する責任がある

質問者5:僕はメディアの内部にいますけれども、もうちょっと中の人間も声を上げるべきだと思う一方で、外部からメディアのあり方について、新聞の評であるとか、あるいはテレビの評であるとか、それもまた内部に取り込まれているかもしれないけども、もうちょっと外部から語る土台を作っていかなきゃいけない。僕は武田さんなんかにも期待するところもものすごくあるわけですけれども。

武田:おっしゃるとおりだと思っていて、さっき言論の自由の問題で言いましたけど、メディアの公共性の議論をやっぱりしていかなきゃいけないところがあって、たとえば先の放送法の問題も当事者である放送では議論しにくいところもあると思うんですよ。

質問者5:僕は放送に期待してません。

武田:議論しにくいテーマを議論するように期待されたらかえってかわいそうです(笑)。

質問者5:期待してないけども。

武田:言いたかったことは、放送ではない、たとえば新聞が放送のあり方について、例えばNHKの会長の問題を議論するときに放送法の構造について理解した上で議論しているかというと、そこはそうでもないと思うのです。放送に詳しい記者の方もいますけども。

質問者5:でも、そうである部分もあればない部分もあって、いろいろあると思います。

武田:それはそうですね。ただいずれにせよ、さっきの原子力の話と同じで、構造を理解するような知識をもったうえで発言する責任が言論人にはあるとは思うのですよ。その責任を果たすのが基本の基本でしょう。

政治の力はどの程度発揮されているのか

質問者6:私は杉並区で小学校の教員をやっていますけども、父兄の中には真剣に放射線量を測っている人もいるんです。それはなぜかというと、情報としてはメディアの方々の発信するものがほとんどですよね。

今聞いていると、やはり最初からこういう方向で行くぞというか、会社のものは全部その方向で。うちは東京新聞ですけど、戦争前夜みたいな感じで毎日過ごしていますけど(笑)。ほかの新聞を読むと、なんでこんなに冷静なの、みたいな。

結局どこを信じていいのかわかんない。福島にしても、私、ここに来たのは開沼さんのお話を聞かないとわかんない部分が多いなと思って。きっと確かなものがあるんじゃないかと思って来てるんですけども。

私が聞きたいのは、そういうことを通して、現実的にどれくらい進んでいるのかがメディアを通してはなかなかわかんないとこがあって。「政治の話はしないほうがいい」って本に書いてありましたけど、実際に政治のほうは進んでいるのか。

どうも信用できないという論を立てる人もいっぱいいます。進んでいると言う方もいますが、開沼さんの目から見て、実際政治の力ってどの程度発揮されているのかについておうかがいしたいと。

開沼:一概に全体をこうとは言いづらいですけども、福島の問題、復興の問題について言えば、個人的には当初よりいい風向きになってきていると思っています。間違っていたことは正すように、ダメなところにはリソースを多く割くように少しずつですが改善されつつある部分も多く観察できる。どんどん悪化しているというような論調には違和感がありますね。

データを持って政治家に働きかける必要がある

開沼:意外と細かい問題をそれぞれ解決してきているプロセスがこの4年間、明確にあったと。除染とか賠償に関することはじめ、もちろんまだまだ問題があるけれども、一次産業であったり交通インフラの整備であったりには適切な対応をしてきている部分も大きい。

もっと優秀な政治家だったら早くうまくできたんじゃないかという感覚もありますけども、それは政治家だけの問題ではなくて、もともとの行政の問題や地域のコミュニティの強さも関わってくるので、今できる範囲でやってることはやってるんじゃないのかと認める部分は認めなければ。その上で、まだまだやれる余地はあるのかなと、考えていくべきです。

地元の政治家の発信力が弱い云々というような議論は全く同意しますし、あるいは国のコミットメントが時間の経過とともに弱くなっているのも全くその通りだと思います。その中でできることは、変化し続ける課題をあぶり出していくこと。

はじめての福島学

だからこの本を書いた後、直したいなと思ったところもあって、例えば観光のところはかなり慎重に書いてますけども、もっと楽観的じゃない部分はあぶりだしていかなくちゃだめだったと思っています。

今後の大きな課題は、本の中で書いたとおり、5年でかなり復興予算が削られることです。いまは震災前の1.9倍の県予算規模になっていますけど、それが6年目、あるいは11年目というところでガクガクって減って、そのときに公共事業で生活している人たちの雇用環境が大きく変化し、あるいはそういう方々が利用する旅館等にかなり深刻な影響を与えるのが見えてきています。

そういうのはまた別なデータを出して、こういうふうにやばいんだから行政はこう動いてくれ、政治はこう動いてくれという道具立てをしなくちゃなと思っています。

政治も明確にデータでこうなっているんだから動いてくれと言わないといけなくて、「何となくやばいです」レベルでしか話をしてこなかった責任は地元にもメディアにもある。それこそ、散文で語るべきところを韻文で「つらいんです」「がんばってるのになんで」という部分が中心になってきたのも落ち度だったと思います。だからそういう部分をこれからはサポートしていきたいと思っています。

もう少し早くまともな議論をすることはできなかったのか

質問者7:最初に1万2,000部という話が出て、非常にいいと思ったんですけど、こういったものはデータが出そろって初めて書けると思うんですけど、4年間の中で今まで、習熟した議論を早める方法はもしかしたら何かあったのか。

結局、データが出そろうまでポエムの空中戦を繰り広げる状況でしかなかったのか、お二方はどのように考えられているか。

開沼:僕はなかったんじゃないかなと思っていて。ポエムの力は非常に強いんで、そことどう戦うかをいろいろ苦闘していて、回り道をしてきたなと思ってますが、とはいえデータが出そろってやっと語りやすくなった、議論しやすくなったのを昨年すごい実感して、その結果として、この本の成果になったと思っています。

質問者7:放射線であれば物理的なベースなので、ある程度確定的な推論ができますね。医療的な、生物学的な、化学的な。そうであってもやはり結果的な事象はデータが出揃うまでは難しいことだったでしょうか。

開沼:それは放射能の話も1年目ぐらいにはわかっていたんじゃないかという話ですよね。仰るとおりで科学的にはそうです。ただ、科学的な結論が見えてきても科学的な説明が通用しない社会的な領域をどう考えるかのほうがもっと大きな問題だった。

例えば早野龍五さんも結構議論をしているけども、そこで言って住民が納得するかというとだめで。ベイビースキャンも、別に検出されないことがわかってるんだと。やってる側、作ってる側も全員わかってるけど、そこにお母さんが赤ちゃんを連れてきて入れて、実際に目の前で測ってみて「あ、出ないですね」と言われる、その出ないプロセスを通して安心を再度得ることが大事だから、何億もかけてやってるんだという話であって。

その納得のプロセスを具体的な形にしていくには、これだけの時間が必要だったのかなと思っています。

原発は本当に必要なのか

質問者8:実際に子供を持ってるものとして、童心社の定期的な冊子も読んでるんですけど、そこに児童文学者とか全然メディアと関係ない、本当にアウトローのこういう絵本を書いている作家さんとかがいつも寄稿しているんです。

そういうのを読んでいると、例えば甲状腺の話でも一番最初、1年目とかで調査が入った時にお医者さんがセカンドオピニオンを拒否したことがそこには書いてあったんですよ。実際に調べてみると、案外甲状腺のほうの数値が高い子がいたけど、そこで医療機関自体がセカンドオピニオンを止めてねと言ったらしいです。

ちいさな冊子にそういうことを書いてて、「ああ、そういうことが実際にあるのか」と思ったんですけど、でも全然メディアに出てこないですね。そういうのを読んでいきながら、ここに来たのは本当にぶっちゃけの話なんですけど。開沼さんと武田先生的には、商売的に原発輸出するとか、そういうのは抜きにして、実際放射線っていると思いますか、いらないと思いますか。そういうことを聞きたかったんです。

開沼:放射線がいるか問題?

質問者8:いや、原発自体が。人類がコントロールできないじゃないですか。処理するにも何年もかかるし、どれくらいで処理できるかもわからない。人類が処理できるのかもわからない。物理学者は宇宙に捨ててしまえと言う。そういう人もいる中で、実際本当に原発がいるんですかというのが私はずっと疑問なんです。子供がいる中で。

開沼:ご自身はどう思ってますか。

質問者8:どっちかというと、反対派なんですけど、でもいろんな人と話してると、グレーゾーンの人がすごい多いんです。「やっぱりいるんじゃないの」みたいな。実際、開沼先生と武田先生たちはどう考えているんですか。

開沼:武田さんの本は読まれてここに来てないですか? 僕の本は読んで?

質問者8:これから読みます。勉強不足なんですけど、申しわけないです。

開沼:そのことを書きまくっておりますので、ぜひお読みいただければと思いますけども。

立場を明確にすることが思考停止に繋がることもある

開沼:今日の話もまさにそうなんですけど、「私はイデオロギー的にこちらの立場だ」ということを言ってしまい、思考停止してしまうこと自体が事故のリスクを上げてしまったり、あるいは事故後のいろんな弊害を出してしまったことにつながる。端的に言えばそういう議論の構造です。

こういうふうに言うと「答えることから逃げてるんじゃないか」と言われるとしても実際そうなんで仕方ない。「俺はこっちの立場だ」と決断をして、自らが正義だとあおっていた人が4年たって、ほとんどいなくなり、あるいは自らの過ちを反省することもなく無責任に出ていったところを見てきた。そして、事態が何か解決や改善したのかというと、そうでもない。

だからそういう議論の提示の仕方は間違ってなかったんじゃないのかなと思っています。もちろん原発事故は二度とあってはならないし、そこに向けてできることを今やっていくべき。そのためには、まず福島の問題をクリアにしていくのが必要であるというのが思っていることです。

質問者8:はい、本を読みます。

開沼:武田さんは明確に「こうだ」というのがあると思いますよ(笑)。

武田 いや、最近、私はあなたが思われるようなお気持ちを深く聞きたいと思うんですよ。たとえば逆にこれならば原発がOKになるような条件があるのかとか、その辺の話を。

開沼さんがおっしゃった相対主義の上限下限を定める必要性はすごくよく分かるんですが、今の私はゆっくり議論できる気軽な立場なので、あえてそこは限定を設けずにいろいろ聞かせて貰って、多少は補完的な機能を果たしていきたい。だからそのうちゆっくり話を聞かせてください。

質問者8:勉強します。

憲法、自衛隊、核。戦後日本に君臨した超越的なものの終わり

開沼:最後に武田さんに質問したいんですけれども、山本昭宏さんと僕のオンラインの対談(対談 日本人はフクシマとヒロシマに何を見たのか?)で触れている議論が今日はしなかった話だけども、ぜひ武田さんに伺いたかった議論でした。さっき思っていたとおり憲法の話を出していただきましたよね。

この原発の問題が抱える議論の構造、一方で理想主義があり、もう一方に現実主義があり、科学的なものとポエム的なものがぶつかっているのって、自衛隊論、憲法論と非常に似ている。

「現実的には中国とか軍事的に力が強まってるじゃない? ロシアも来ているじゃん? だから自衛隊の話は是々非々で」と言った瞬間、「お前は軍国主義者か! 子供を戦場に送るのか!」という話になって、もう議論が成立しない(笑)

あるいは「憲法もちょっとは時代に合わせて……」とか言った瞬間、「いや、そうじゃない。憲法の全てを絶対守るということを掲げ続けない限り、なし崩し的に9条が侵犯されてしまうのだ!」とかいう話になってしまう。

超越的に絶対に守らなくちゃならないものを掲げる人と、そうじゃない人の間には分断があった。憲法、自衛隊、核・原子力。これは考えてみれば1945年の8月に全て用意された主要な戦後社会の構成要素だったと言える。これらが揃ったところで戦後社会というのは始まっている。

おそらく戦後社会、そろそろ70年になるというところで、憲法、自衛隊、あるいは核・原子力に関する議論は、一定のポエム的な、超越的なものとして君臨してきた。それがいま、揺らぎ出しているのではないか。

今の政権の集団的自衛に関する議論であったり、もちろん憲法の話も、そして原子力の話も、これまでの枠組みが確実に組変わってきている。もちろんその変化の過程で、いかにもポエム的な言葉がこの超越性を守ろうとするのだけど、でもあと5年ぐらい経ったら現実的にその超越性は失われてしまうんじゃないのかと。

これを一言でいうと、戦後の本当の終わりと言えるのかもしれない。ずっとみんながポエム化しながら守ってきた、それは触れないでおこうとか、そこは対立したらもう話にならないから終了としてきたものが、けっこう現実的なところで調整していこう、運用していこうぜという話になってきている気がしていて。

そういった点で見たときに、原発の議論がむしろ今後も超越的であり続けるのか。つまり武田さんが震災前から『「核」論』でまさに超越的なものとしての原子力の話を描いていたと思います。

「核」論 鉄腕アトムと原発事故のあいだ (中公文庫)

でも、ニュークリア以外の2者からしたら、もう落ちていってもおかしくない時代になってきていると思ってるんですねね。超越的なものであり続けるのか否か論で言うとどうですか。

核の超越性はなくなりつつあるのか

武田:超越的なものはずっとあると思っていて、それは宗教の代理みたいな、ロマンティシズムの受け皿になる必要性もあると思うんです。超越的なものの内容は入れ替わりがあると思うんだけれども、原子力に関してはけっこう超越性が高いと思っていて、そのポジション自体はそう簡単にはなくならない、超越的な立場から離れていくかというとそうでもない。

開沼:憲法9条については超越的なものではなくなりつつある認識ですか?

武田:そっちのほうが早いかもしれないですね。私は原子力のほうが残るような気がします。

開沼:とはいえグローバルに見たら、あるいは、2000年代の日本の原子力を取り巻く議論の現状を見たら、むしろ憲法、自衛隊よりも早く超越性を脱していくようにも見えるわけですけども。

武田:確かに原発が温暖化対策の切り札として期待されたり、ずいぶん道具的に扱われるようにはなりましたよね。ただポエム的な言い方だけど、マッチョイズムのようなものとして残ることはあると思っています。特に日本ではヒロシマ・ナガサキの国民的記憶はさすがに摩滅してきたけれど、フクシマの記憶が上書きされた。そこに代わり得るものが出てこない限りは、原子力の力に対するある種の畏怖の念みたいなものが残っていくのではないか。

不可能な議論をし続けることで超越性が生まれる

開沼:そう納得する一方で、これまで先進諸国のものでしかなかった原子力が、新興国も途上国のものにもなってくる。10年後20年後、世界における原子力の位置づけが今と完全に違ってくれば、日本だけがガラパゴス的に超越化していられるのかという空気にふれる可能性もあるんじゃないのかなと思うんです。

武田 原子力に感じる超越性は脱原発運動を尖鋭化させる燃料にもなっているわけですが、1回封印を解いてしまった技術に改めて封をすることが人類にできるのか。それも結構大きな問題だと思っていて。

開沼:そこは難しいんじゃないかと思っていますね。

武田:例えば、天然痘のウイルスはもう自然発生しないわけだけれども、生物兵器として開発していた株が残っていて、何かのきっかけに出てきちゃう。原子力技術もその利用を封印することはできないと思ってしまうんですね。

開沼:できないからこそ、超越性を逃れていくんじゃないでしょうか。もう仕方ないなと。言うまでもなく、原子力については、事故収束にせよ脱原発にせよ、「徹底的に封印する」という議論が散文的にも韻文的にも今非常に強くせり出して見える。そして、封印できないのにも関わらず「封印する」という議論と超越性はセットになっている。

つまり、憲法・自衛隊の話で言うならば、戦争を絶対的には封印できないのにも関わらず「封印する」という理想的な議論をし続けるところでそこに超越性が生まれる。タブー化と言ってもいいかもしれない。でも、そろそろそのタブーを直視して、現実的に考えようという空気が生まれている。

当然そこへの抵抗感も強く可視化されるのと同時進行するわけですが。いずれにせよ、封印できないことを多くの人が具体的に意識し、タブーが説かれて、「封印しなくてもいいじゃないか?」という議論になると超越性は落ちてきますよね。

そうだとすれば、今後「やっぱり封印できなかったよね」というバックラッシュが始まっていき、結果として「是々非々で行こうや」論が、もしかしたら2000年代よりも強い形で戻ってくるんじゃないかと思うんです。

武田:そうですね。そうして核技術と共生してゆく道もあるかもしれない。しかし核を封印できなかった結果、核施設の事故や戦術核兵器の利用が増え、汚染されて立ち入りができなくなって封印された土地が地球上に増えていったら嫌ですね。そうならないようにするために人類の知恵が問われていると思います。

アカデミズムを超える普遍性のある論文を

司会:では時間も来ましたので、最後に一言ずつお願いしてよろしいでしょうか。

関沼:冒頭に申しましたとおり、毎回武田さんのお話を伺うと、他ではできないような貴重な勉強をして帰ることになりますんで、今日も家に帰って、ずっと頭の中で「あのことはこうだ」とか、さらに自分の研究がステップアップするきっかけになるかなと思いました。

聞いてる方で難しいなと思ってる方や、もっとこういう話をして欲しかったなとか、あると思いますけれども、またいろいろなところで論文などを発表していきたいと思いますので、ご覧いただければと思います。よろしくお願いします。

(会場拍手)

武田:そういうふうに言われると「ちょっと待ってお兄さん」と言いたくなる感じなんですが(笑)、僕も本当によく勉強させてもらっています。この本も読んで発見がいくつもありました。

開沼さんはちゃんと地に足をつけて福島をやって来られた4年間だったとわかる本だと思いました。こういうのが書ける人がどんどん出てきてほしいと思うし、それを支えていかないとメディアとしてはだめだなと思っていて。

開沼さんはその筆頭だと思うので、今後もいい仕事をしてほしいと思っています。まず博論をね(笑)。前に彼も言っていたけど吉見さんが彼のお師匠さんで、3人で対談したときに、吉見さんは博論のことしか言ってないんですよね(笑)。指導教官は心配で仕方がないようでした。

開沼さんも一方では博士課程の院生で、大変な立場だと思いますけど、博論もアカデミズムの中に閉じ込もるものではなく、それを超えていく普遍性を持てると思いますから、ぜひいいものを書いて、また本の形で出していってほしいと思っています。今日はどうもありがとうございました。

開沼:ありがとうございました。

(会場拍手)