台湾の民主改革と憲法改正について

李登輝氏(以下、李):文部科学大臣の下村博文先生、日台若手議連の岸信夫先生をはじめ、会場にお集まりの国会議員の先生方、秘書の皆様、こんにちは。

会場:こんにちは。

:台湾から参りました、李登輝です。本日、こちらの国会議員会館において、お話する機会を得ることができ、たいへん光栄に感じております。

せっかくこの機会を生かし、本日は台湾がこれまでいかにして主体性を確立してきたか。中国主義の「託古改正」からの「託古改新」というパラダイムの転換。そして、これから台湾が進めるべき民主改革と憲法改正について皆さまにお話したいと思います。

大正12年、台湾北部の淡水(たんすい)という小さな町に生まれた私は、純粋な日本の教育を受けながら育ちました。

少年時代から高校時代の私は古今東西の先人による書物や言葉にふんだんに接する機会を得ることができました。これはまさに当時の教育を重視する、日本の教育による賜物と今でも感謝しております。

私は京都帝国大学で学び、その後の農業経済を研究する一介の学者に過ぎませんでした。ところがふとした偶然から、後に総統となる蒋経国(しょうけいこく)の目に留まり、疲労していた台湾の農業を復興させるべく政治の世界に入ることとなったのです。

そして、思いかけずも副総だった1998年、蒋経国総統の急死により、結果的には総統を12年間務めるという偶然のチャンスを得ることになりました。

私は台湾のために全力で働こうと決心しました。そして台湾がいつの日か主体性を確立させ、台湾の人々の尊厳が高まることだけを望んで職務に励んできたのです。

日本の統治下から中国の統治下へ

1945年、台湾を統治していた外来政権たる日本は大東亜戦争に敗れ、台湾を放棄するに至りました。台湾は勝利者である米英の連合国によって中国国民党による占領下に置かれることとなりました。

中華民国という別の外来政権による統治が始まったのです。当時、台湾社会を取り巻いていた大日本帝国による「天下は国家のために」という価値観から、一夜にして「天下は党のために」を標榜する国民党の中華民国に取って変わられることとなり、台湾における新旧の外来政権の交代がなされたのです。

ただ、50年に及ぶ日本の統治によって高度に現代化されていた台湾にとって、文明水準の低い政権による統治は、当然のごとく、台湾の政治や社会に大きな混乱をもたらしました。

あっという間に腐敗した国民党政府への不満を勃発させた民衆を武力によっておさえつけた228事件の原因は、台湾と中華民国という2つの異なる文明の衝突と言えるでしょう。

数百年代、ずっと外来政権の統治下にあった台湾は1996年、史上初めて国民が選挙で総統を選んだことによって、ついにそのくびきから逃れることができました。

日本時代、学生は教室で台湾語を話すと正座させられる罰を受けました。しかし、日本の統治が終わり、国民政権の時代になっても、同じように罰を課されることには変わりありませんでした。

こうしたところに、台湾人に生まれた悲哀を深く感じます。つまり、それまでの外来政権。たとえば日本時代には、台湾人は日本人と比べるとその待遇には差別がありました。

しかし、中華民国は祖国に復帰したと称え、台湾人を同胞と呼びつつも、やはり奴隷たる存在に貶めていたということです。

台湾人は努力して、自分の道を歩み、自分たちの運命を切り開くことが叶わなかったのです。こうした状況下で台湾人の間には「台湾人とはなんぞや」という問題がふつふつとわき起こってきました。

日本統治下の台湾人は、学術的に言う“marginal man”。つまり、異なる複数の集団に属しつつも、それらのいずれにも完全には所属することができず、それぞれの集団の境界にいる人間でありました。個人の尊厳というのも存在しなかったように思います。

その後、228事件の発生によって台湾人自身が「台湾人とはなんぞや」という煩悶(はんもん)を徹底的に振り返るようになると同時に、外来政権ではなく、自分たちの政権による主体性を確立しなければならないと語るのです。

さもなくば尊厳ある台湾人としての独立した存在になることはできない。こうした過程を経ることによって、新しい時代の台湾人としての自覚が覚醒したのです。

そうした意味では、台湾人による強固なアイデンティティの確立は、外来政権による統治下の産物と言えるでしょう。まさに台湾人が自身の独立した台湾人とする絶対意識を確立する契機となったのは、外来政権による統治なのです。

中国の政体は古の歴史の繰り返しにすぎない

戦後、台湾を統治した国民党の中華民国もまた外来政権でした。そして中華民国も中華人民共和国も中国の歴史上、皇帝以後の夏、商、周から明朝、清朝まで脈々と続いてきた帝国体制の延長と変わることはありませんでした。

こうした体系は朋党(ほうとう)と呼ばれ、政権の正当な継承を意味します。この朋党から外れた者が弊害の民であり、夷狄(いてき)の国々なのです。中国5000年の歴史、すなわち、1つの中国の歴史であったといえるでしょう。

そして、これらの帝国にすべからく共通していたのは古に制度を託して改めるという「託古改正」の思想だったのです。現在の中華民国・中華人民共和国ともに、中国5000年の歴史の延長にすぎず、ここから見てとれるのは、進歩と退歩を絶え間なく繰り返している政権にすぎないということです。

ドイツの社会学者・マックスウェーバーが忠告をして、アジア的停滞、ロングターム・スタグネイション・オブ・エイジア(Long-term Stagnation of Asia)の典型と言えることがあります。これは決して不合理とは言えません。

孫文が建国した中華民国は、理想を宿した新しい政体ではあったものの、政局の混乱によりその理想は夢と終わり、基本的には中国式の朋党の延長線上にある政体になりはててしまいました。

中華人民共和国は、その源をソビエト共産党に発するものの、中国という土地に建国された以上、中国文化の影響からは逃れられずにはいられませんでした。

共産革命が中国にもたらしたのは、中国をアジア式の発展形態から脱出させることではなく、中国伝統の覇権主義の復活と、誇大妄想を有する法廷制度が再び生まれただけのことです。

中国5000年の歴史は、一定の空間と時間の中で、ひとつの王朝から次の王朝へと連結する歴史であり、新しい王朝といえども、前の王朝の延長にすぎません。

歴代の皇帝は権力の維持、国運の拡大、富の搾取に汲々とする以外、政治改革の努力をはらうことはありませんでした。これこそがいわゆるアジアの価値観と呼ばれるものです。

中国の歴史上、政治改革と言われるものはいくつかありましたが、どれも成功しませんでした。歴代皇帝の統治過程を見てみると、どの王朝も脱古改正のゲームに終始していると言わざるを得ません。

「託古改正」というものの、実際は「託古不改正」といったほうがより事実に即しているでしょう。こうした5000年の、閉鎖された皇帝政体に対し、魯迅は次のような見方をしています。

「これは閉ざされた空間で、亡霊が入れ替わり演じる寸劇であり、この国がヨタヨタと歩むつまらない輪廻の芝居である」と。

また、魯迅は中国人の民族性を的確に表しています。

「中国人は騒ぎは率先して起こさず、災いの元凶にならない民族である。これでは、あらゆる物事の改革を進めることはできず、誰も開拓者の役割を担おうとはしない」。

私はこの魯迅の観察は、かなり正鵠を得ているのではないかと感じるのです。ここまで私が述べてきた中国の朋党による「託古改正」は、もはや近代の民主化の潮流に見合わないことは明らかでしょう。

アジア的価値観を捨て去るための民主改革

そこで私は新しい改革の方向性として、「託古改新」という新しい概念の提示をしたと思います。「託古改新」とは、古(いにしえ)を託し、新しく改めるということで、「託古改正」というアジア的価値観を捨て去ることであり、ひとつの中国式朋党による束縛から逃れ、台湾の主体性のある民主国家にすることにあります。

1988年、私が総統に就任した際に描いた、台湾の国家戦略の背景を申しましょう。この当時の台湾における国民党政権による独裁政治は、まさにアジア的価値観の見本とも言えるような状態でありました。

さらに政権内部には、保守と革新の対立、閉鎖と解放の対立、国家的には台湾と中華人民共和国における政体の矛盾、民主改革と独裁政治との衝突など、深刻な問題が散見していました。

特に、民主化を求める国民の声は日増しに大きくなっていたのです。全体的に見ると、これらの問題が抱える範囲は非常に広範でしたが、根本的な問題は、台湾の現状に即していない中華民国憲法にあったと言えます。

私はこれらの問題解決のため、憲法改正から始めるしかないと考えたのです。当時私は国民党主席を兼務しており、国民党が国会で絶対多数の議席を有していました。

言いかえれば、当時の国民党は、絶対的に優勢な政治改革マシーンであったわけです。ただ問題は、党内部の保守勢力でした。保守勢力は時代遅れの憲法への執着を隠さず、地位を放棄することにも大反対でした。

民主改革を求める声には耳を貸さず、ただ政権維持だけに固執したのです。さらに国民党を牛耳る有力者たちは、いつの日か中国大陸を取り戻すという、時代遅れの野望を捨て切れませんでした。

そこで私は一計を案じ、国家統一綱領を制定して、中国の自由化、民主化、所得分配の公平が実現された際には、統一の話し合いを始めるという厳格な規定を設けました。

私は中国が自由化、民主化されるような日は、半永久的にこないと思っていました。仮にそうなった場合には、そのときはお互いが再び話し合えばいいと考えたのでした。

ただこの統一綱領をつくったおかげで、それまで私に猜疑心を抱いていた国民党の有力者たちは安心して、総統の私を信じてくれるようになったのです。

こうして一連の民主化の過程において、私は幾多の困難に打ち勝って、国民の支持を受けながら、経済成長の維持、社会の安定を背景に、ついに一滴の血も流すことなく、憲法改正によって静かなる革命を成就させました。

常に人々が安心して眠れる社会にしたいと考え、夢中で務めた12年間の総統でしたが、曲がりなりにも台湾に民主主義を打ち立てることができたのは、私の生涯の誇りとするところです。