孫正義の後継者を育成したい

孫正義氏:来月、開校いたします。ソフトバンクアカデミアであります。アカデミアの語源はプラトンが紀元前約400年ぐらい前の時に作った学校であります。何の目的で作ったかというと、その当時の統治者、王様ですね。あるいは将軍。

そういう統治者、次世代の統治者を育成するために作られた学校でありまして、哲学を中心にプラトンが教えました。つまり真の統治者になるためには、数学を覚えるとか、科学を覚える以上に大切なのは、哲学だということでそれを教えていたんですね。

ソフトバンクの次の時代を担う統治者、経営陣を育てたい。それがソフトバンクアカデミアです。

一言でいえば孫正義の後継者を育成すると。事業部長とか部長を育成するための一般的な会社でいう社員教育の場ではありません。社員教育プログラムは他にいっぱいあります。ソフトバンクにもですね。初めて後継者育成のための学校を作ります。

目的はただ1つ。孫正義2.0を作るということであります。もちろん一人で達成できないかもしれないし、リスクがあってもいけないので、複数作ります。300人の生徒を入れます。将来の可能性のある人物。そのうちの30人くらいは外からも招きたいと。

将来の孫正義2.0。さっきなんかね、来てた人。名前なんでしたっけ。ノムラさん。候補になれるかもしれない。30名は常に外からの後継者候補を入れる。270名はソフトバンクグループから後継者候補。私自身が毎週行います。毎週水曜日の夕方5時から、夜まで。

私自身が初代校長先生としてソフトバンクアカデミアを責任を持って運営します。後継者を1ヶ月2ヶ月で育てるのではなくて、10数年かけて、直接私が指揮し指導して、競争させて、後継者育成プログラムを作るということであります。例えばの例をあげます。

21世紀のプラトンアカデミーに

ソフトバンクバリューとして、後継者にはこんなことを学んでほしいというふうに思います。

ということで21世紀の統治者育成のためのアカデミア、プラトンアカデミーに相当するものを私は作りたいということであります。これが、ソフトバンクの新30年ビジョン。

もう一度繰り返します。最先端のテクノロジーでありさえすれば、同志的結合で外からどんどんどんどん仲間を増やしていく、最も優れたビジネスモデルがあれば、ソフトバンクの社員がゼロから作らなくても、同じ志を共有する仲間であれば、アリババとかタオバオがいい例ですね、ヤフージャパンもそうです。

同志的結合をどんどん増やしていく。ただ一つのために。繰り返します。情報革命で人々を幸せに。

アインシュタインも言っております。人は他人のために存在する。何よりもまず、その人の笑顔や喜びがそのまま自分の幸せであるそういうひとたちのために。そして、共感という絆で結ばれている無数にいる見知らぬ人たちのために。無数にいる見知らぬ人たちのために、人は存在している。

マザーテレサも言っております。この世で一番大きな苦しみというのは、独りぼっちで、孤独で、誰からも必要とされない、愛されていない人々のそういう人々の苦しみであると。

これがもっとも大きな苦しみである。孤独で誰からも必要とされない。

14歳で韓国から日本に渡ってきた祖母

最後に、見慣れないおばちゃんの写真です。私にとっては大切な大切な人物であります。14歳で日本に渡ってきた。14歳で結婚しました。相手は三十何歳。私のおじいちゃん。

彼女は私のおばあちゃんであります。途中で戦争も体験し、生きていくのがやっとと。泥水をすすって、飢えから子どもたちを守って、精一杯という状況。

日本にいて、韓国の国籍で、言葉もカタコトで、知り合いも頼る人もいなくて、14歳で渡ってきたんです辛いですよね。わからない、何も。14歳ってまだ娘です。中学生ですよ。一人で見知らぬ国にやってきた。辛かったと思いますね。

そんなおばあちゃんが私の父、私の母、父はもう中学のときには家族を経済的に支えて、経済を支えて、7人の兄弟、一生懸命仕事をしました。

大変苦しい苦しい生活の中で這い上がっていって、ヤミの焼酎をつくって、豚を育ててなんとか生きていくということで生活をしていました。

そんな中で私が生まれた。1957年。私が生まれた頃にはすでに少しは生きていけると、トタン屋根のボロボロの部落の家に住んでましたけどね。村の。

私の戸籍は佐賀県鳥栖市五軒道路無番地と書いてあります。無番地ならわざわざ無番地って書かなきゃいいのに。

不法住居ですから。自分たちの土地ではなくて、線路脇の国鉄の空き地にトタン屋根で板を貼って住んでるわけですから、正式に戸籍を認めるわけにはいかないということだったんだと思います。無番地で生まれました。

豚の餌でぬるぬるしていたリヤカー

私が今でも覚えていますが、3、4歳の頃、おばあちゃん可愛がってくれました。毎日散歩につれて。父と母は今日来ております。私の父と母はおかげで存命で元気にしております。今日この会場のどこかにいますけど。一生懸命に、本当に一生懸命に仕事しておりましたので、いつも留守ですね。

私を子守してくれたのはおばあちゃんでした。毎日おばあちゃんが「正義や、散歩いくぞー」僕は喜んでおばあちゃんについていく。おばあちゃんが「散歩行くぞー」というときはリヤカーですね。リヤカーに乗って、しがみついていく。あんまり言いたくないですけどもね、今でも覚えていますなんとなく。

リヤカーが黒っぽいんですね。すべるんです、ぬるぬるして。そのリヤカーはドラム缶を半分に切って3つ4つ積んであって、そこに飼っている豚のえさを、残飯をですね、鳥栖市の駅前の近所の食堂から残飯をもらって、それを集めて豚の餌にして育ててる。

一生懸命ですよね。私は小さいからわからない。ただリヤカーに乗って楽しく行ける。ただなんとなくぬるぬるして、なんか腐ったような臭いがして、雨上がりのでこぼこ道だと、水溜りでね、ぬるっとすべったら落ちて死ぬなあ、と思いながら、しっかりつかまっとけよーってついてるわけです。

おばあちゃん大好きでした。その日が忘れられないですね。大人になって今見ると、リヤカーなんて乗りたくないです。恥ずかしいです。でもその頃は子どもだから別に辛いということはなくて、楽しかった。

そのあと少し物心ついてくるとですね、あれほど好きだったおばあちゃんが、大嫌いになったんですね。なぜ嫌いかというと、おばあちゃんイコールキムチなんです、キムチイコール韓国なんですね。そうするとそれにまつわるさまざまな、生きていくのに辛いことがやっぱあるんですよね。あまり例をあげたくないけど。

やっぱり辛いこといっぱいあるんです。そうするとやっぱり息を潜めるように、隠れるようにして日本名で生きているわけですね。ですからなおさらそれがコンプレックスになってる。あれほど好きだったおばあちゃんが、大嫌いになった。避けて通るというふうになってしまいました。

実業家を目指し、渡米

そんなときに、私の父が吐血をして入院しました。もう家族の危機ですね。1歳年上の兄は高校を中退して、泣き暮らしている母を支えて、家計の収入を賄って、父の入院費と家計のサポートをし母も一生懸命仕事をしました。

僕にとってはもう突然降って湧いたような家族の危機、なんとしても這い上がらないといけないということです。どうやって這い上がるかと。私は事業家になろうと、そのときに腹をくくったんですね。

一時的な解決策ではなくて、中長期に家族を支えられる事業を興すぞと。中学生のときに腹をくくったんです。ちょうどそのとき、竜馬がゆくを読んだんですね。目からウロコでした。いじいじぐずぐずしてた自分が情けなく思いました。

人種だとかなんだとか、そういうつまんないことで悩んでたということ自体が、ちっぽけな人間だったなというふうに気づきました。

そこで事業家を志して、アメリカに行こう、アメリカに渡ろうと。まあ言ってみれば脱藩のようなものですね。母は泣きました。友だちも先生も、全員止めました。ばあちゃんが心配して、行くな。泣いて泣いて泣いて泣いて暮らしました。

母は毎日泣いてました。行くなと、そんなわけのわからない怖いところに行くな。行ったら帰ってこれんようになる。僕は振り切って、行くと。

俺はアメリカに行って、事業家になる何か種を見つけてくる。そこで何かつかんで、日本に帰ってきて事業を興すと。絶対に家族を支えてみせる。親戚のおじさんとかおばちゃんとかには言われました。従兄弟にも言われました。

正義、お前はなんて冷たいヤツだ。父親が血を吐いて、生きるか死ぬかのところで彷徨ってるときに、お前の父を置いて、一人でアメリカに行くんか。お前のエゴのために行くんか。と言われました。私は言い返しました。

そんなんじゃない、家族を支えたいから行くんだと。もうひとつついでに言っとくなら、今まで自分が悩んできた国籍だとか、人種だとか、同じように悩んでいる人たちがいっぱいおると。俺は立派な事業家になってみせて、孫正義の名前で、みんな人間は一緒だと。証明してみせると心に誓ったんです。

孫正義が祖母から学んだこと

その決意をしてから、ばあちゃんに言いました。ばあちゃんごめんね、あんなに優しくしてくれて愛してくれたばあちゃんに、俺は大嫌いだとか言ってしまった。

ばあちゃん、俺を韓国に連れて行ってくれと。アメリカに行く前に、アメリカに渡る前に自分が忌み嫌ってきた先祖の国を見てみたい。韓国に連れていってくれ。ばあちゃんと一緒に二人で二週間ぐらい韓国をまわりました。

ばあちゃん喜んでくれた。正義、一緒に韓国いってくれるか。なして韓国に行ってみようという気になったと。二人だけでばあちゃんと渡りました。見にいきました。

小さな村に電気もきてないです。りんごもちっちゃいです。やせ細った土地だからりんごもちっちゃいです。ローソクの中で迎える食卓。でもみんな、暗いローソクの中で、真っ黒い歯がニッコリ笑ってましたよ。一生懸命迎えてくれた。

ばあちゃんは僕らの古着のツギハギのズボンだとかセーターを、親戚の従兄弟のみんなかき集めて大きな風呂敷に詰めて、繕いだらけの服を持っていって、その村の子どもたちにお土産として渡してました。

もうもらう子どもたちは満面の笑みでありがとう。綺麗だ。日本の洋服はきれいだ。ばあちゃんからもらうものを受け取ってました。ばあちゃんのそのときの笑顔が忘れられないです。いつも言っておりました。

ばあちゃんは人様のおかげだ。どんなに苦しいことがあっても、どんなに辛いことがあっても、誰かが助けてくれた。人様のおかげだと。だから絶対人を恨んだらいかんばい。

人様のおかげやけん。私は会社をはじめて先程のビデオにありました、会社を始めて2年で大病をわずらって入院しました。もうつくづく思いましたよ。

お金じゃない、地位でも名誉でもない。ばあちゃんがやってたようなああいう人に喜んでもらえる、何もあげられない、ボロキレでも喜んでもらえる。そういうことに貢献できたらやっぱり幸せだ。入院したときにつくづくなおさら思いました。

もう一度思い出しました。会ったこともない、見たこともない、名前も知らない、どこかカンボジアかどっかの小さな女の子が、泥んこの顔で、りんご1個もらって「ありがとう」。

何か我々ができることをして、誰に感謝してもいいかもわからない状況で、心の中でありがとうって。そういうことに貢献できれば幸せだということであります。

名前も知らない、そういうたった一人の子どもにも喜んでもらいたい。頑張ります。宜しくお願いします。