海外留学での視野の広げ方

小林雅氏(以下、小林):このSessionの登壇者が5人とも全員海外の留学経験がありということで、海外留学とか経験で人生を変えましょう的な、人生が変わったというメンバーを集めてみました。

学生の皆さんは意外にというか、語学留学とかも含めて、大学を1年間休学してアメリカに行っていますという人は、このうち4分の1とか5分の1とかいると思うのですけれども、最近の大学生はそういうのが結構ふえてきたなと思っていまして。

先人の方々から、実際にどう生かせばいいのかというふうに考えていきたいと思います。この中で、海外に行ったとか、これから考えている人はどれぐらいいらっしゃいますか?

むちゃくちゃいますね。予想以上にいたので、ぜひ参考にしていただければと思います。啓蒙する必要ないということで、モデレーターをバトンタッチしたいと思います。きょうは高校のときからカナダに行って、英語はネイティブというかフルーエントで、中国語も話せる。日本語はちょっと苦手ですかね?

田中章雄氏(以下、田中):はい、ちょっと苦手。

小林:(笑)。という人間ですけれども、モデレーターをバトンタッチしたいと思います。よろしくお願いします。

田中:皆さん、よろしくお願いいたします。今回、海外留学をした経験のある、そういうキャリアを積んでいるパネリストの皆さんにも集まってもらいました。

その中で実際に今、起業を考えている人たちも多い中、海外で得た視点とか学んでよかったもの、あとは海外に出たから見える日本のおかしいものとか葛藤を感じるもの、色々な視点が場所を変えることによって生まれてくるのではないか、ということもあると思うので、その辺も踏まえていくつかディスカッションをしたいと思います。

まずは海外留学をしてから、しばらく時間がたってしまっている人たちもパネラーさんの中にはいると思いますので、当時のイメージを見ながら、最初に自己紹介をしていただければと思います。

いきなりビバリーヒルズ高校白書の世界へ

田中:では、まずこれは南さんですかね。

南壮一郎氏(以下、南):僕自身は日本の県立高校から、日本の大学に行かずにアメリカの大学、タフツ(Tufts)というボストンの大学に行ったのですが、やはり普通の日本の高校から行くと、なかなかアメリカの文化に溶け込めませんでした。そういうところで助けてもらったのが小学校から高校までずっと続けていたサッカーです。

うちの大学は強かったので、サッカー推薦の人間しかいなかったのですが、トライアウトという形で入って、結局4年間、体育会サッカー部に。日本と違って選抜制なので、入りたいから入れるわけではないんです。ですので、結局、サッカー部では、唯一のアジア人でした。

田中:ちなみにこのチームは強いんですか?

:一応、東北地方、ニューイングランド地方では強豪の大学です。静岡の高校がもともと強かったので、そのまま行きました。

田中:これは、ちなみに南さんは何歳ぐらいのときの写真ですか?

:22歳です。よく見るとやせていますね(笑)。10番の学生。

田中:行ったとき英語はぺらぺらだったんですか?

:いや、僕は親の仕事で中1までカナダに住んでいたんですけれども、結局、5年、6年、日本の田舎の普通の公立の学校に行っていたので、英語が中1でとまっている。帰国子女だから英語は困らなかったんだよね? と言われると、全然そうでもなくて。

もっというとカルチャーギャップのほうが大きかったです。いきなりビバリーヒルズ高校白書の世界なわけです。こっちは田舎の浜松北高校の高校生で、カルチャーギャップが尋常ではなかったです。

女の子が全員、自分より背が高い

田中:ちなみに、具体的にどういった部分のカルチャーギャップを感じたんですか?

:挨拶でハグする時点で、もうあり得ないですよね。チューしたこともないのにチューとかされるんです(笑)。なかなかのカルチャーギャップ。

田中:それは、うれしかったですか、それともうざかったですか。

:いや、うざいとか、うれしいというよりも、もう挙動不審です。人に挨拶をするのが怖い(笑)。あと、とにかく女の子が全員、自分より背が高い。そういうところが18歳からすると……。

田中:カナダにいたときは、そういうのを体験しなかったんですか?

:6歳から13歳まではずっとエスカレーターで同じ学校で上がってくるので、そういう感覚がなく、それで中学校、高校と日本で思春期を過ごして。

高校はサッカー部キャプテンで学食の1番後ろでどーんと偉そうにやっていたのが、いきなり18歳でアメリカへ行って、逆ガリバーですよね。いきなり小人になるわけです。全員白人だし、もちろんアジア人はモテない。そういうのをやはり乗り越えなければいけない。メンタルな部分が大変でした。

田中:当時、この学校は、アジア人はほとんどいなかったんですか?

:アジア人は7、8%です。入ってわかったのですけれども、35%がユダヤ人でユダヤ人が多い大学だったんです。もちろん浜松の高校生だった僕は、ユダヤ人と白人の違いもわからないので、最初は全員白人に見えるのですけれど。4年間行くと、英語がうまくなった、というのは本当に正直どうでもよくて、色々な考え方や価値観があって。

もっというと、日本はここがすばらしいな、日本はここがだめだな、その違いがはっきりわかったのがこの4年間で1番大きかったのではないかと思います。

田中:ありがとうございます。

竹中平蔵氏の影響でアメリカ留学へ

田中:では、こちらのサッカー部の写真から、ちょっと渋いものに移るのですが、このロン毛の佐々木さん。この人は学生ですか?(笑)

佐々木紀彦氏(以下、佐々木):学生です。

石川善樹氏(以下、石川):学生にはとても見えない。

佐々木:浮浪者じゃないです。いやいや、アメリカって美容師がいい人いないじゃないですか。だから、2年間の留学中1回も髪を切らなかったんです。そうしたら、これぐらいロン毛になってしまったと。ちょっと汚らしいですね。

田中:ちなみに佐々木さん、どこの場所で撮った写真ですか。

佐々木:西海岸のベニスビーチに行ったときに撮った写真だと思います。

田中:ちなみに、この写真は誰が撮ってくれたんですか?

佐々木:奥さんです。

田中:奥さんですか。

佐々木:(笑)。はい、それですね。もうちょっと外国感がある写真のほうがよかったのですけれども、こういう感じで(笑)。

田中:確かに江ノ島と言われてもわからない(笑)。

佐々木:これなら江ノ島でも通じますね。これは28歳か、29歳だと思います。

田中:大学は、これはMBAの留学のときですか?

佐々木:MBAじゃなくて、スタンフォードの大学院で、政治とか経済とか、そういうのを学ぶところに行っていたんですけれども、その意味では、ちょっとMBA留学とは違ったかなというところがあるんです。

今日、いらっしゃっている皆さんの中では、私が1番、いわゆるドメドメ日本人かなと思っています。高校まで福岡の小倉という、帰国子女なんか1人もいないところでずっと育ち、そこから4年間、湘南藤沢のSFCというところに行きました。

2年生のときにスタンフォードに1カ月、サマープログラムで行く機会があったのと、ゼミが竹中平蔵さんだったんです。

竹中さんはアメリカが大好きじゃないですか。なんで、やっぱり授業とかでもアメリカの話が多かったり、授業もアメリカ式だったり、そういうことで1回アメリカの大学に留学したいなという思いが強くて。それで働いて5年たった後、2年間留学してきたという感じです。

留学初日に交通事故

田中:実際にドメドメな日本から、いきなりアメリカに行って、最初のころに感じたことをいただけますか?

佐々木:やはり大きい挫折感です。日本では偉そうにしていたのに、年下のやつらからコテンパンにやられるわけです。そういう経験というのは、今でもすごい生きています。

田中:それは自分の専門分野でということですか。

佐々木:もう専門分野でも、何でもです。そこでも何も歯が立たないので。それで、私は行った日の1日目に、いきなり交通事故に遭いまして……。

石川:すごい挫折感ですよね。

佐々木:イチから挫折感で、いきなり買ったのが20年前ぐらいのマツダかなんかの10万円の車だったのですけれども、それでぶち当たって、いきなり車が大破しました。

田中:廃車になったんですか。

佐々木:廃車になりました。だから、すごい経験でしたね。

田中:それは走る方向が反対だから、ぶつかっちゃったんですか(笑)。

佐々木:私は悪くなかったのですけれども。そういうこともあって、すごく波瀾万丈な留学生活でした。

海外留学で学問の多様性を見つけた

田中:具体的な話は、また後ほどお伺いすることにしまして、続きまして、これは誰だ、北川さん?

北川拓也氏(以下、北川):はい。何歳だろう、18歳、19歳。

田中:19歳、何年前の話ですか。

北川:10年前です。

田中:10年前。

北川:11年前ぐらいのやつで、僕が大学に入った頃です。ハーバード大学という大学なんですけれども、ルームメイト、ルームメイト、僕、姉貴という並びですね(笑)。

田中:お姉さんですか、それちょっと聞こうかと思ったのですけれども。

北川:1人関係ない人が写っているのですけれども、ファミリーなんとかという機会がありまして、親が遊びに来ているときです。当時、留学すると視野が広がるとかいうじゃないですか。僕も多様性を体験してグローバルな人間になるのかなと思っていたら、皆さんと同じような感じで、とりあえず友達のつくり方がわからないというところから始まりました。

結局、僕の1番の友達だった数学と戯れた結果、その学問の世界にすごい多様性を見つけ出したという、内側に向かう方向に行ってしまったのですけれども。そういう日々の始まりでした。うちのルームメイトは結構面白くて、トムというのですけれども、トムは……。

田中:左の赤いシャツの。

北川:はい、左の1番大きい。お父さんが哲学者なんです。カントの世界的な権威が実は彼のお父さんで、そういうこともあって、彼もそういう哲学的な思想が好きで。当初入ったときは、彼も物理が好きで「物理がやりたい」と一緒の授業を取っていたのですけれども、その授業の最後は「面白くないからやめた」とコンピュータサイエンスに行って。

その後、先ほど言ったのですけれどもDropboxのプロダクトマネージャーです、プロダクトをつくりながら。

田中:でも、Dropboxの前に、彼はFacebookも……。

北川:はい、Facebookにいました。その前にはマイクロソフトでインターンをしていました。そういうルームメイトがいました。

田中:Facebookに行くときに、一緒に行こうよとか誘われなかったのですか。

北川:Facebookに彼がいたときに、Facebookにデータサイエンティストっているじゃないですか。実は僕、遊びに行って一通り話させてもらいました。でも、彼はもうFacebookを出ようとしていたときだったので一言も誘われることはなく「Dropboxに遊びに来たら」という一言ぐらいでした。

田中:ありがとうございます。

「だから日本人はバカなんだ」とすごく怒られた

田中:最後、石川さん、ちょっともう1回ステージのほうに。どういう状況でしたか(笑)。

石川:同時期に留学していたのですけれども、僕の家族の中で、実は弟のほうが先に留学をしていたんです。弟はカリフォルニアに留学していて、ザ・パーティボーイみたいな感じだったんです。

私は26歳のときに初めて海外に出て、ボストンに行ったのですけれども、ボストンに行く前に、弟に留学生活ってどんな感じか教えてくれと見に行ったんです。

そうしたら、弟はハリウッドでクラブイベントに毎週いっていて、行くと黒人の人がどーんといて「善樹、来なよ」みたいな感じで。中に入ると、目の前に30メートルぐらいのプールがぼーんとあるんです。こんな感じでパーティを楽しむんだぜ! って。

田中:そういう場所にはかわいい女の子もたむろしていた。

石川:そうです。水着を着た子たちがわーっといて。

田中:じゃあなんでこの写真、野郎ばっかりなの?

石川:そうなんです。だから全然違うなと思って(笑)。こんな感じで、実際の僕がやはりこの程度の実力なんだなと。

留学して26歳で大学院から行ったので、やはりこれからの自分の人生を変えるんだ、頑張るぞ、勉強するぞと思って行ったのですけれど、最初に教授と面談したときにめちゃくちゃ怒られたんです。

「善樹、おまえ、ハーバードで何したいんだ」と言われて、「頑張って勉強します」と言ったら「だから日本人はバカなんだ」とすごく怒られたんです。

「すみません。どういうことですか?」と聞くと、「日本人は勉強しに来るやつが多過ぎる。お前らが高い金を払ってハーバードに来ているのは、卒業した後にハーバードを使い尽くすために来てるんだろう?

勉強して授業に出たり、友達とワーワーやるんじゃなくて、おまえらが1番やるべきは、とにかく教授とたくさん会って、一緒にプロジェクトをやれ。そうすると一生の財産とか一生のネットワークができる。どうせちゃらちゃら友達と会っても、世界に散った後はもうそんなに会わねぇんだから」って。

なるほどと思って。僕はそこから改心して、とにかく教授と会いまくって「一緒にプロジェクトやらしてください!」という日々が2年ぐらい続きました。

アメリカは実力さえ示せば誰もが認めてくれる

田中:なぜここに石川さんが出没しているんですか(笑)。

石川:難しいんですよ。ハーバードの教授は世界の最先端のことをやっている人たちじゃないですか。その人たちとどうやって一緒にプロジェクトをやったらいいのか全然わからなかったんです。

まさにやっていらっしゃったのは北川さんとかで、彼に「どうやったら世界最先端の人たちと面白いことができるのか」教えてもらったんです。こういうので北川さんに学びながら過ごしたという。

田中:北川さんは、ちなみに当時、教授とどういう研究をしていたんですか。

北川:この当時はまだ始まっていなかったと思うのですけれども。ハーバードの教授って厳しいんですね。「一緒にプロジェクトをやらせてください」、「ああ、じゃあ、やろう、やろう」と言ってくれるんですけれど、初めは1年に1回会えればいい感じです(笑)。

田中:ほぼ放置プレイで。

北川:それって一緒にやってるというんですか、みたいな感じなのですけれども。一番初めのプロジェクトが運のいいことに、サイエンスとかネイチャーという論文があるじゃないですか、1番初めの僕の論文が実はサイエンスに載ったんです。

そのプロジェクトをやってから、やっぱり教授はより信頼をしてくれて、より一緒に時間を過ごしてくれるというのが始まったので、何事も信頼を勝ち取ることが1番初めに大事なんだなということを学んだ、そういう時期ですね。

田中:では、まず何か実績をつくると認められるということですか。

北川:そうです。アメリカという国ではまずは自分の実力を発揮しないと。まさにトライアウトの話があったと思うのですけれども、アメリカはとにかく実力主義なので、実力さえ示せば、もう全面的に受け入れてくれるという文化はやはり気持ちいいなと思いました。