広島の被爆者がノーベル平和賞授賞式で講演

サーロー節子氏:両陛下。ノルウェー・ノーベル賞委員会の高名なメンバーのみなさま。この会場と世界中にいる運動家の仲間のみなさま。淑女、紳士のみなさま。

この賞をベアトリス(ICANベアトリス・フィン事務局長)とともに、ICAN運動のすばらしいすべての人々の代表として受け取ることは、大変な栄誉です。みなさん一人ひとりが、核兵器の時代を終わらせることは可能であり、かつ終わらせるのだという大いなる希望を与えてくれます。

私は、広島と長崎への原爆投下から生き延びた被爆者の1人としてお話しします。私たち被爆者は70年以上にわたって核兵器廃絶のために尽力してきました。

私たちは、この恐ろしい兵器の生産と実験で被害を被った世界中の人々と連帯してきました。ムルロア、エケル、セミパラチンスク、マラリンガ、ビキニなどの長らく忘れられてきた地の人々です。放射線により土地と海を汚染され、人体実験に使われ、文化を永遠に破壊された人々です。

私たちは、被害者であることに甘んじてはきませんでした。私たちの世界が、一瞬で劫火に包まれ終わることと、緩慢に汚染されていくことを座して待つことを拒みました。大国とされる各国が、無謀にも核の黄昏から核の夜更けへと私たちを率いていくことに、ただ安穏と恐怖することを拒みました。私たちは立ち上がりました。生き延びて物語を伝えました。人類と核兵器の共存は不可能だと声を上げたのです。

原爆が落ちた瞬間

今日、この会場において、広島と長崎で亡くなったすべての人々の存在を感じていただきたいと思います。私たちの上や周囲に雲のように漂う、25万人の魂を感じてください。一人ひとりには名がありました。一人ひとりが誰かに愛されていました。彼らの死が無駄ではなかったと確認しましょう。

私の郷里、広島に、アメリカ合衆国が最初の核兵器を投下したとき、私はわずか13歳でした。あの朝は、今でも鮮明に覚えています。8時15分、私は窓から目がくらむような青白い閃光を見ました。宙に浮くように感じたのを覚えています。

静寂と暗闇の中で意識が戻ったとき、私は倒壊した建物の下敷きになっていました。周囲では同級生たちが「お母さん、助けて。神様、助けて」と、かすれた声で叫ぶのが聞こえてきました。

突如、私の左肩に手が置かれていることに気がつき、男の人が声をかけてくれました。「あきらめるな! がんばるんだ! 今、助けてあげるからな! 向こうの隙間から光が見えるだろう? あそこへ急いで這い進んで行くんだ」。這い出てみると、崩壊した建物は燃え上がっていました。建物にいた同級生は、ほとんどが生きながら焼かれて死にました。そこらじゅうが想像を絶するほど、完全に破壊されていました。

亡霊のような姿の人たちが、足を引きずり行列をなして行き過ぎていきました。グロテスクな怪我を負った人々は、血を流し、やけどを負い、黒焦げで、膨れ上がっていました。体の一部がありませんでした。肉や皮が骨から垂れ下がっていました。飛び出た眼球を手に持っていました。腹が裂けて腸が出ていました。周囲には人の肉が焼ける嫌な臭いがたち込めていました。

こうして、たった1発の爆弾により、愛するわが街は消滅しました。住民のほとんどは非戦闘員でしたが、燃かれ、蒸発し、炭となりました。これには私の家族と351人の同級生も含まれています。

その後、数週間、数ヶ月、数年にわたり、何千人もの人たちが、放射線の後遺症により、さまざまな不可解なかたちで亡くなりました。今日もなお、放射線は生き残った命を奪っていきます。

核兵器は必要悪ではない

広島を思い出すとき、最初に思い浮かぶのは4歳の甥、英治の姿です。小さな体は、見分けもつかない溶けた肉塊に変わり果てました。彼は、死によって苦しみから解き放たれるまで、弱々しい声で水を求め続けました。

私にとって甥は、世界で今まさに核兵器の脅威にさらされている、世界中の罪のない子供たちの代表となりました。核兵器は、日々常に、愛する者すべてと大切に思う物すべてとを危機にさらしています。私たちは、この狂気をこれ以上許していてはなりません。

苦悩と生き延びるための苦しい闘いを経て、灰の中から復興するために、私たち被爆者が確信したことは、終焉をもたらすこれらの核兵器を、世界に警告しなくてはならないということでした。私たちはくり返し、証言をしてきました。

それでも広島と長崎を、残虐行為や戦争犯罪だと見なすことを拒絶する人々がいました。彼らは「正義の戦争」を終わらせた「よい爆弾」だったというプロパガンダを認めたのです。今日まで続く破滅的な核軍備競争は、この神話が原因だったのです。

いまだに9カ国が、都市を燃やし尽くし、地球上の生命を滅ぼし、私たちの美しい世界を未来の何世代もが住めないものにすると脅し続けています。核兵器の開発は、国家が偉大さの高みへ上る現れではなく、最も暗い堕落の深淵へと落ちぶれることなのです。核兵器は必要悪ではありません。絶対悪です。

核兵器禁止条約は、私たちの光である

今年7月7日、世界の大多数の国々が核兵器禁止条約を投票により採択し、私は歓喜で胸がいっぱいになりました。かつて人類の最悪の瞬間を目撃した私は、この日、最良の時を目撃したのです。私たち被爆者は、72年にわたり、核兵器廃絶を待ち望んできました。これを、核兵器終焉の始まりにしようではありませんか。

責任ある指導者であれば、必ずや条約に署名するでしょう。そしてこれを拒む者たちは、歴史の厳しい裁きを受けることでしょう。彼らの行いは大量虐殺であるという現実を、抽象的な理屈で隠し続けることは、もはやできません。「核抑止」なるものは、軍縮抑止でしかないことが明らかになりました。恐怖のキノコ雲の下で生きることはありません。

核武装した各国政府と、「核の傘」なるものの下の、その共犯者たちへ伝えたいと思います。私たちの証言を聞き、警告を心に留めなさい。あなたたちの行動は、尊大ぶったものに過ぎないと知りなさい。あなたたちは各々が、人類を危機にさらす暴力の体系に欠かせない一部分なのです。私たちはみな、陳腐な悪を警戒しなくてはなりません。

世界中のあらゆる国の大統領や首相に懇願します。核兵器禁止条約に参加し、核による全滅の脅威を、未来永劫、根絶してください。

13歳の少女だった私は、くすぶる瓦礫の中に閉じ込められながらも、もがき続け、光に向かって進み続けました。そして生き延びたのです。

核兵器禁止条約が、今の私たちの光です。この会場にいるすべてのみなさんと、これを聞いている世界中のすべてのみなさまへ、広島の廃虚の中で私が聞いた言葉をくり返したいと思います。「あきらめるな! がんばるんだ! 光が見えるだろう? あそこへ進んで行くんだ」。

今宵、松明を燈してオスロの道を行進し、みんなで核の恐怖の闇夜から抜け出そうではありませんか。どのような困難に直面しようとも、私たちは進み、がんばり、光を分かち合い続けます。この光は、ただ1つのかけがえのない、この世界を守るために、私たちが注ぐ情熱であり、責任なのです。