「ネットメディアでは短い記事のほうが読まれるんでしょ?」

司会者:本日は、BuzzFeed Japan創刊編集長の古田大輔と、『リスクと生きる、死者と生きる』を出版いたしました著者の石戸諭より、「なぜ、ネットメディアで震災を取材し、本を出版するのか」というテーマでトークをしたいと思います。

リスクと生きる、死者と生きる

トークセッション中にご質問ございましたら、自由に手を挙げてご質問いただけますので、ご遠慮なくお知らせいただければと思います。

それでは、トークセッションを開始いたします。よろしくお願いいたします。

(会場拍手)

古田大輔氏(以下、古田):みなさん、本日は遅い時間に集まっていただきありがとうございます。

今日は、「なぜ、ネットメディアで震災を取材し、本を出版するのか」という題で、石戸が書いた『リスクと生きる、死者と生きる』という本について、みなさんにお話ができたらいいなと思っています。

なお、この模様はPeriscope(ペリスコープ)で、今も生中継されています。もしよろしければ、みなさま拡散にご協力いただけると幸いです。よろしくお願いします。

まず最初に私のほうから、なぜ、ネットメディアが震災の取材であったり、現場に行って取材をしているのか、ということをお話しさせていただきます。

今、BuzzFeedは編集部が40人、全体で60人ぐらいの組織でやっています(注:9月21日現在)。

インターネットメディアについて、おそらくみなさんがイメージとして持っているであろうことなのですが、「ネットでは短いニュースが読まれるんでしょ?」とよく聞かれます。

長い記事でも、しっかり書けば読んでもらえる

古田:「新聞社とかテレビが書いているニュースをつまみ食いして、それをまとめたようなニュースを書いているんでしょ?」「こたつのなかでテレビを観て、テレビで流れてること、聞いたことを、そのまま書いてるだけなんでしょ?」といったイメージを持たれることが多かったんです。

これ、みなさんに見ていただいているのは石戸が書いた記事です。2016年1月19日、我々がローンチした日ですね。2016年1月に私たちBuzzFeed Japanが一番最初に出した記事が、これになります。

「福島第一原発ルポ 7,000人が働く廃炉作業の現実」。石戸が実際に現場に行って、中の様子を見てきたルポルタージュです。かなり長い記事で、これ、1万字ぐらいだったかな?

石戸諭氏(以下、石戸):8,000字ぐらいじゃなかったかな。

古田:新聞の記事ってすごく長いものでも、だいたい1,000字ぐらいなんですよね。なので、8,000字というと、もう1面を全部使っても間に合わないぐらい。

しかも、見ていただいたらわかるんですけれども、写真も豊富に使って、まるでロードムービーのように、今の福島の現場、そして福島第一原発がどうなっているのかを報道しました。

これ、すごく多くの方に読んでいただいたし、7,000人が今そこで働いているという現状をほとんど知らない方が多いので、驚きとともにすごくシェアをしてもらいました。私たちはこの記事を出した時に、「やっぱり長いものでも、ちゃんとしっかりと書けば読んでもらえるんだ」と。それで自信を深めました。

ネットメディアこそ、震災のような長く取り組むべきテーマを書きやすい

古田:もう1つ、私たちBuzzFeedは、ニュースからエンターテインメントまで、ものすごく幅広いコンテンツを扱っています。

例えば、「Tasty Japan」という料理動画をやっています。(「Tasty Japan」のレシピのドリンクを)今日みなさんに飲んでいただいているのですが。みなさんもFacebookをやっていると、料理に関する動画がよく流れてくると思うんですけど。料理のつくり方を上から写したような、ああいった動画や、エンターテインメントサイドもやっていれば、ニュースサイドもやっています。

そのニュースをやる時に、これまでインターネットメディアがあまり取り組んでこなかった、骨太なルポであるとか長い記事でも、我々は絶対にやっていけるという確信を得ました。

石戸は毎日新聞にいた頃から、東日本大震災を非常に大切なテーマとして取り組んでいました。僕は編集長として「ぜひ書き続けてくれ」とお願いしていました。例えば、「もう二度と米はつくれない?」という記事や、「もう住めないといわれた村で」「自分たちもいじめにあう」という記事。ここらへんはすべて今年の3月に合わせて書いた記事です。

今日は「なぜ、ネットメディアで、震災を報じ……」という題にしましたが、僕自身は、インターネットメディアこそ、こういった震災のような長く取り組むテーマを書きやすいメディアではないか、と思っています。後で石戸にも話してもらおうと思ってるんですが。

ネットメディアは「時間的な制約」「表現の制約」を超えられる

古田:理由はたくさんあるんですけれども、1つは、「時間的な制約を超えられる」こと。いったん記事を書いて出してしまえば、それはネット上でずっと残っていくわけです。

残念ながら、日本の新聞社のWebサイトとかテレビのWebサイトは、記事を1週間とか1年とかで消してしまうことが多いんです。けれども、BuzzFeedや多くのインターネットメディアに関して言えば、記事は1回出したらずっと残していく。

そうすると、誰か関心を持った人が、1年後でも2年後でも見てくれるんですよね。いまだに、先ほどお見せした私たちがローンチした初日に出した記事は、読まれるしシェアされる。何年も残っていく。というふうに、時間の制約を超えることができる。

もう1つは、「表現の制約を超えられる」こと。どういう意味かというと、さっき言ったように8,000字の記事が書けるし、写真を何枚でも使うことができる、ということです。これは新聞社ではすごく難しい。テレビ局でも番組の尺があって、例えば3分で収めないといけない。でも、3分で東日本大震災の何を描くのだろうと考えると、とても難しい作業になってしまう。

というなかで、こういう震災に関する報道に取り組んできました。東日本大震災に限るわけではありません。例えば、これは僕が書いた去年の熊本地震の記事です。写真も多用して、現場の様子を報道しました。

当時、「南阿蘇がすごく大変だ」という報道がたくさん流れたんですけれども。ただ、南阿蘇村って東西にすごく長い村で、西側はすごく大変なんですけど、東側の観光地はほとんど無傷だったんですよね。

「大変だ、大変だ」という報道がなされている間、東側の地域の観光産業にたずさわっている方々は、すごく苦しい思いをしていた。で、「今、実は、東側ではこういう日常が広がっていますよ」という記事を書いたんです。

今年だったら、例えば九州豪雨。この時も私たちはすぐに現場に記者を送って、今の現状が本当にどうなっているのかを、新聞社やテレビ局と同じぐらいのスピード感で発表していました。

物事を伝える時の「適切な分量」と「適切な伝え方」

古田:次に、石戸に話をつないでいきたいんですけれども。じゃあ、「インターネットメディアは震災などについて書くのに優れているメディアだ、と自認をしているのに、なぜそれを紙に落とし込む必要があるの?」「なんで本にしないといけないの?」というところなんですけれども。

最初に石戸から「出版したい」という話を聞いた時に、「それはすごくいい話なので挑戦してほしい」と本人にも告げました。実際本にする時に、すごく苦しんでました。

まず最初に、僕からの質問として聞きたいのが、「本にしてみて一番よかったと思うところ」。ここから今度は石戸に話をつなごうと思います。

石戸:本とかニュースというものを少し考えてみたいなと思うんですけど。僕が考えていることを単純化して言うと、「物事を伝える時に、適切な分量と適切な伝え方、というのがあるんじゃないか」ということです。

この本を書いてる時に、狭い意味での震災の話、被災地の話、原発事故の話などを書いてる、と、僕は思わなかったんですね。つまり、これは1冊を費やすに値するであろうテーマをやっている、と。では、「1冊で語るに値するテーマって何なんだろう?」と考えました。

「正しさ」「わかりやすさ」が先鋭化していくなかで、繊細な心の問題が描きにくくなっている

石戸:僕がこれを書いた後に思ったのは、インターネットの時代になってから非常に強くなっている傾向として、「正しさ」とか「わかりやすさ」みたいなものを信じるというのがあると思うんです。

震災の後のインターネット空間というものを、僕は今でもすごく鮮明に覚えているんです。例えば、原発事故の問題にしてみても、必ず賛否を明らかにしないと話ができないとか。正しさを競い合い、すごく先鋭的になってしまう人たちとか。

ある意味、タコツボ化しちゃう。意見が合う人だけでお互いの正しさを補強し合っていく。それは今でも変わらないだろう、と思っています。そうなった時に、じゃあ、「メディアの人間がやらなきゃいけないことは何か?」を考えなきゃいけないと僕は思ったんですね。

「自分たちこそ正しいんだ!」と言う人たちが、いくつもグループに分かれて、お互い内輪ノリで正しさを補強し合って先鋭化していく様子を、すごく見てきたわけです。

そうなってくると、どういうことが起こるか。おそらく、正しさがだんだん先鋭化していくなかで、問題に直面している人たちの揺らいでいる感情だったり、繊細な心の問題が、描きにくくなってきているんじゃないかと思ったんです。

これは僕が新聞を離れた理由の1つでもあるんですけれども。やっぱり、そういうのって見出しにならないんですよね。社会面で見出しになるというのは、なかなか想像しにくい。僕はその見出しにならないところにこそ、こういう時代にとって、本当に重要な問題があるんじゃないか、と思ってきたわけです。