ポストモダンは「危険な罠」だった

石山友美氏(以下、石山):次に進んでいきたいと思います。第1章では、70年代ぐらいの建築界の様子として、「P3会議」を映画のなかで扱いました。

次、第2章にうつっていって、映画ではバブル期のポストモダン建築をフューチャーしています。坂さんは無縁というイメージなんですけれども、当時のバブル期のポストモダン建築は、外から見ていてどういうような感じでご覧になっていましたか?

坂茂氏(以下、坂):当時どう見たかということと、それからそれが終わってみて結果的に認識したことというのがあるんです。やっぱりポストモダンってものすごく危険な罠だったなという気がしています。もともとすごく正統な建築をやっていた優秀な建築家が、ポストモダンにはまってしまって抜けらなくなって人生が終わってしまったという人はすごく多いんです。

例えば、イギリスを代表する、50年代から70年代の近代建築をリードしていた、ジェームズ・スターリング。ジェームズ・スターリングの最後は、ポストモダンをやって終わってしまった。それから、イタリアのアルド・ロッシも最後はポストモダンで終わってしまう。

あるいは、僕は身近ですごく思うのが、残念ながらやっぱり丹下さんもそうなんですよね。丹下さんも最後は結局ポストモダンをやっています。新宿の都庁は、日本風のポストモダンと言われてます。

そういう意味で、唯一、ポストモダンをやりながら、ちゃんとそれをゲームとして扱って、それに沈まなかったのは磯崎さんだけなんですよ。他の世界の有名な建築家は全員ポストモダンをやって終わってるんですね。磯崎さんだけは、きちっと頭でコントロールした。ある意味では、磯崎さんにとっては良い意味での建築のゲームなんですね。今でもちゃんと建築つくってらっしゃるのは唯一彼だけです。

「自分のスタイル」をつくらないと流されてしまう

それと、丹下さんの話で思ったんですけどね、僕も丹下さんの作品はオリンピックプールを中心としてすごく好きなんですけど。彼の建築家人生を考えてみると、すばらしい建築家ではあるんですけど、結局自分のスタイルを1つもつくりあげられなかった建築家だなと思うんですね。

例えば、同じ時代でいうと、白井晟一や村野藤吾は、彼らのスタイルをちゃんとつくれてるわけですね。だからポストモダンにはまることもないし。

それに対して丹下さんは、例えば当時50年代、帝冠様式が流行っているときは帝冠様式をやる。いわゆるコンクリートの粗いものを、日本の柱梁みたいな様式に例えてつくった代表作が「香川県庁舎」ですけども。そのあとに、アメリカのサーリネンを中心とした「シェル構造」や「吊り構造」などが流行ると、坪井先生という優秀の構造家の助けを借りて、シェルや吊り構造ですごい作品をつくるわけですね。

それが終わって今度は何をやっていいかわからないときに、ミラーガラスが世界的に導入されたから、森英恵さんのビルや、勅使河原さんの草月会館などでミラーガラスの建物をつくった。結局ミラーガラスにして、スタイルがわからない建築をつくりはじめて、そのあとに、80年代ポストモダンの時代になったときにポストモダンをやるわけですよ。

だから結局、丹下さんもポストモダンの沼にはまって終わってしまったんだなって。あれぐらいの建築家でもね。そういう意味で、今、さっきも言いましたように磯崎さんは、それで終わらなかった唯一の、世界の建築家だなって気がしますね。

石山:コールハースさんにインタビューしに行ったときに、磯崎さんのポストモダン建築の話も聞いたんですけれども。彼は、やっぱり欧米中心だった建築業界のなかで、磯崎さんが、世界で生き残っていくための言語として、ポストモダン建築に手を付けざるを得なかったんじゃないか、というようなお話をされてたんですけれども。それにも、ちょっと通じることはあるんですか?

:レム・コールハースはもともとジャーナリストをやってた人だから、ものの見方や分析の仕方が非常にジャーナリスティックですよね。だけど磯崎さんに聞いたら、そんなこと言わないと思いますけどね。

僕が磯崎さんの事務所にいたときに見たんですけれども、磯崎さんがすごいのは、黄色いトレーシングペーパーの上にファサードからプランから全部、色鉛筆で絵を描くんですよ。全部磯崎さんがデザインしてですね。有名建築家でも、ほとんど自分でデザインしない人ってたくさんいるんですよ。磯崎さんはディテールはやらないんですけど、最後の最後まで、エレベーションからプランから全部色鉛筆でかいてましたね。

「バブル崩壊」と「社会貢献」の関係

石山:こうした、バブル期の建築とは、坂さんは非常に対称的なんですけれども。キャリアの、かなりはじめのほうから、社会的マイノリティのための建築など、「社会のために建築家として何ができるか?」ということを追求されてこられたと思います。

バブル崩壊のすぐ後の1994年に、ルワンダでの難民たちの惨状を報道で知った、と。そのときに、坂さんは国連の難民高等弁務官事務所に直接話をしに行って、実際に紙のシェルターを提供する、という爆発的な行動力がおありだった。

当時の心境、どういったモチベーションでそこまでやったのか? というのをまずうかがいたいです。それと、こうした活動をはじめたのが1990年代の初頭ということで、何か日本のバブルがはじけたことと関係があったのか? というのをうかがってみたいと思います。

:関係したといえば、仕事がぜんぜんなかったから。頼まれもしないのに被災地へ行ったり、難民キャンプへ行ったりしたという意味では、関係するのかもしれないけども。(石山氏に)それはあなたが書いた……あの言葉がおもしろいなと思っていて。なんでしたっけ。

石山:そうですね、その次に私がしようとしていた質問なんですけれども。映画の第4章、終わりにかけてのところで、建築家たちに話を聞きに行ったときに、みなさん災害などがきっかけになって、社会的な活動に非常に熱心になっていく。安藤さんも伊東さんもそうなんですけれども。

コールハースさんも、やはりそういうことをやっていかなきゃいけないんだ、というお話をされています。彼は、それもやっぱり皮肉を込めて「でもここには地震はないから、僕はヴェネチア・ビエンナーレのコミッショナーをやっている」と話をされるんですけれども。

「社会的な活動」と「野心的な建築」は別物?

コールハースさんに聞きに行ったときに、「そういった社会的な活動と、野心的な建築をつくることは、まったく別物だ」とお話をされていて。それが、私のなかで、映画をつくったあともずっと引っかかっていることではあったんですね。「建築家として社会に貢献することと、人々が驚くような野心的な建築をつくることは別々に考えなければ達成できないものなのか?」とずっと考えていたんです。

坂さんの社会的な活動を拝見していると、そこには野心的な、建築家としての試みっていうのがちょっと見え隠れするような気がしていて。それをうかがいたいなって……。

:あの……そうなんですよ。別に野心とかじゃないんですけどね。僕は、作品もつくるし、災害支援を94年ぐらいからやってるんですけど。そのときはね、本当に仕事もないし、「あんな大事件があったら何かしなきゃ」と思ってはじめたんです。

けどやっているうちに、作品づくりと災害支援のプロジェクトがだんだん重なってきて、最近は「違いがないんだな」というのをつくづく感じるんです。

その難民キャンプや災害支援でも、住みやすさや作りやすさなど、いろんなことを考えながらも、やっぱり、きれいなものでなきゃいけないと思うし、僕にとってそれは作品だと思ってるので。建築とぜんぜん違いがないんですよ。もちろん用途の違いはあるし、お金をもらってなかったりはしますけども。だから、彼の言ってることは僕には当てはまらないなと思います。

紙の筒を使った「難民シェルター」開発

それじゃあちょっと、今までどんな災害支援をやってきたか、さっとスライドで……。

最初に災害支援を始めたのは94年、ルワンダの難民キャンプです。記憶にあると思いますが、ルワンダで大虐殺が起こって200万人以上の難民が近隣諸国に押し寄せて。その難民キャンプの写真をたまたま週刊誌で見た時に、国連がつくっているシェルターがあまりにも貧しい。上の写真2枚がそれなんですけれど。

雨期になるとシェルターで暖が取れないのでみんなが毛布にくるまっている写真を見て、「これじゃいくら医療支援をしてもしょうがない」と思った。ジュネーブにある国連難民弁務官事務所に「もっと良いシェルターをつくろう」と。材料も、ちょうど僕は紙管、再生紙の筒を使った建築を開発したのでそれを提案した。

この写真が国連でつくっている典型的なシェルターです。難民にプラスチックシートを与えて、難民は自分たちで木を切ってシェルターのフレームをつくらなければいけない。ところが、この辺はもともと森だったんですけど、200万人の人が木を切ったので森林伐採になって。彼らはもっと奥まで切りに行っていますけれど、大きな環境破壊になった。

それで国連はアルミのパイプを支給したんですけれども、アルミはこの地域では非常に高価な材料なので難民がお金のために売ってしまって、また木を切って。結局アルミのパイプが代替材料として機能を果たせなかった。そんなことで困っているときに、たまたま僕が紙管の構造を提案したのが認められて、コンサルタントに雇っていただいた。

それで、これはスイスのヴィトラという有名な家具工場で、これはフランク・ゲーリーがつくった工場とミュージアム。うしろに安藤忠雄さんがつくったセミナーハウス。それからその隣にアルヴァロ・シザとか、それからこの工場独特の消防署がザハ・ハディッドの最初の作品など高価な建築コレクションがあります。そういうところにテントを設営させてもらって実験していました。だから僕のテントはこの工場の中で一番安いコレクションなんです。

それで難民キャンプの設営に行きました。1つのテントの予算が50ドルしかないんです。本当はもう少し居心地の良いものをと思ったんですけれど、国連の方針で、あまり住み心地のいいものをつくってしまうと長居してしまうので、早く元の村に返すために、ということで。森林伐採を抑制するというだけのために50ドル、5、6,000円でつくったシェルターです。

今でも人々に愛される、神戸の復興のシンボル

そんなことをしていると、次の年、95年に神戸で大地震が起こった。あんなことがあって、「なにかしたい」と思ったけれど、どこに行っていいかわからない。たまたま新聞で、神戸の「たかとり教会」というところを知って。当時のベトナム難民で日本に帰化した人たちの多くがキリスト教徒だったので、その教会集まっていると。

そういうニュースを読んだので、まずそこに行ってみようと思って行ったら、まだ長田区は煙が上がっていて、焼け野原でした。そんな住所もわからないなかでやっと「たかとり教会」にたどり着いてみたら、キリストの像だけが残って建物が全部焼けていたんです。そこで、なんとかここで活動しようと思って、毎週日曜日6時の新幹線でミサに間に合うように通ったんですけれど。

ベトナムの人たちがこんなテント生活をしていたんで、学生を全国から集めて、紙管とビールケースでこういうベトナムの人たちのための仮設住宅をつくったんです。

それからこれも、学生が紙管を使って教会をつくりました。この教会は、「もう2、3年使えれば」と神父さんもおっしゃっていたんですけれど、結局10年使って。コミュニティセンターとして映画や音楽をやったり、復興のシンボルだったんです。

撮影:Hiroyuki Hirai

10年目に、解体して新しい建築をつくろうという時に、台湾で地震があって。台湾に寄付してほしいと言われて、これを全部解体して台湾に船で運び、皆で組み立てました。今でも、これが使われているんですね。ですから、95年に建って……もう22年くらい使っている。

この時に感じたのは、例えば、赤坂見附につい最近まで丹下さんのプリンスホテルが建ってましたよね。あっという間に壊されて、今は新しいのがもう建って。丹下健三の建築でも30年しか持たないんですよ。「なにが仮設で、なにがパーマネントだろう?」という定義を考えてみたら、たかが紙でつくっても、これは今でも使われているんです。ところが、有名建築家がコンクリートでつくっても、金儲けのための商業建築は仮設なんですよ。この建物GINZA SIXも、もしかするとそのうち……。

(会場笑)

商業建築は仮設ですよ、どんな有名建築家がつくっても。だから、材料がなんだ、ということじゃなくて、「建築が人に愛されるかどうか」でパーマネントなのか仮設なのかが決まるのかな、ということを感じます。

坂茂氏の世界各地での災害支援

これは99年、トルコで地震があって、呼ばれて仮設住宅をつくりました。これが2001年、西インドで地震があったとき。唯一問題だったのが、紙管は手に入ったんですけど、ビールケースがなくて。地元の人だれもビールを飲まないんですよね。「コカ・コーラのケースを使ったら?」と、地元の建築家が言ってくれたんですけど、どうも真っ赤なアメリカの象徴のようなケースではインドに合わないなと思って、土で伝統的な土間をつくって学校や住宅をつくりました。

これは2008年の中国の成都。小中学校が、こういうふうに随分倒壊したので。うちの学生と中国の学生50人が合宿して、地元で手に入る紙管で小学校をつくりました。仮設の小学校は今でも使われていて、子どもたちが喜んで使ってくれています。構造は全部紙管でできています。

2009年は、イタリアのラクイラですね。旧市街が地震で全部やられてしまって、ここに音楽ホールを提案しました。この人相の悪いこの人、覚えてますか?

(会場笑)

ベルルスコーニ元首相ですね。この人がこの地震でいろいろと批判を浴びた時に、G8サミットを本当は自分の別荘のある島でやろうとしていたんですけど、いろんな先進国の支援を得ようということで急遽、ラクイラで開いて。

ローマの日本大使館から電話がかかってきて、なにか日本らしい支援をやりたいということで、「僕、今、音楽ホールを仮設でつくる計画をしています」と言ったら、それを支援すると言って。(スライドの麻生太郎氏を指して)この方、この人相の悪い方(笑)と2人で、記者会見で僕の模型をプレスに見せてくれています。たぶん、ベルルスコーニさんはなにを持たされているかわかってない。紙管持たされてるんです。

(会場笑)

記者会見をやってもらって、そのおかげで6,000万円ぐらい集まって、仮設の音楽ホールができたんですね。オープンニングコンサートに西本智実さんが指揮棒を振りに来てくださって。これも、今でも使われています。

次の年は2010年のハイチ。ハイチのポルトープランスは空港も港も閉まっていたので、まず隣の国のドミニカの首都サントドミンゴへ行って、そこから車で7時間かけてポルトープランスへ行った。そうしたらこんな状況で、何も手に入らないので、ドミニカで学生と一緒に材料を全部用意して仮設のシェルターをつくりました。