「目隠し対局」でアマチュア5人に圧勝

早野龍五氏(以下、早野):そうやってプロになられて、賞をたくさんお取りになって。

バイオリンはコンサート前に1時間ずつ毎日練習すると言っておられましたが、棋士の方は対局に向けて、演奏会の前にバイオリンの練習をするような、それに相応することはなにかあるのでしょうか?

佐藤康光氏(以下、佐藤):棋士の場合はプロになりますと例えば50局年間対局がありますとトップ10に入れるぐらいの対局数になります。そうすると、週に一局のペースで対局が付きますので、そこに向けての練習や勉強に時間を費やすのがほとんどになりますね。

今、役員をやっていますからその時間が減っていますが、平均的に考えるとそういう形でしょうかね。実戦といいますか、仲間内で実戦将棋を指したり後の対局に向けての研究をしたりする時間になります。

早野:僕は物理学者をやりまして、それこそ、そのへんを見ると数式が見えたり(笑)。いや、嘘ですけど。たぶん普通の方が自然界にいるのとは違うものが見えていると思うのです。

佐藤会長は目隠しをして5人ぐらいの相手をすることができる、ということをお聞きしましたが。

佐藤:昔、そういうことを行ったことがあるということですね。盤面を見ずに頭の中だけでアマチュアの方5人相手に指して成功したというか、勝って初めて成功になるわけですが、全勝して成功したということが20代後半の時にありましたね。

早野:そういうときの頭の中がどうなっているのかを覗いてみたいですよね。

棋士は「アブセント・マインド・プロフェッサー」

練習をする、訓練をしていくときは、なにか教科書を読んだり、座学と実習をしたり、まず相手なしに自分だけでやる時間と、それから相手がいてやる時間とあります。将棋の場合は、その座学と実習に相当するものがあるのでしょうか?

佐藤:棋士の場合はプロになる上で学校のようなものはないのです。毎日この時間に、この授業を受けてということはないので、自分自身でで勉強のカリキュラムを組んでいく感じです。

もちろん勉強する方法は過去のデータを調べたり、問題を解いたり、あとは実戦ですね。仲間内で練習将棋を指すことが一般的なのですが、この比率は人それぞれというところもありまして。

将棋の場合、電車に乗っているときに頭の中で勉強ということもできるのですね。電車に乗りながらでも、頭の中には将棋盤が入っていますので、それでいろいろと考えているという部分がある。そのため、24時間営業のコンビニのような感じでどこでも勉強できる環境なのです。

でも、ふっと突然頭に浮かんだりすることもあって、私は車を運転するのですが、運転しているときに突然将棋のことを思い出したりすることもありますので、あまり運転には向いていないと思いますね。

早野:我々の業界でも「アブセント・マインド・プロフェッサー」、心ここに在らず状態という言い方もありますね。具体論というのはありませんが。

佐藤:そういう点では常に勉強できるというところですが、座学と実習でいうと、1人で勉強する時間というのは必ず必要なのですが、練習将棋を指すことで総合的なトレーニングになりますので、そういう意味では両方必要ですね。

セオリーを詰め込むと先入観に裏切られる

早野:教科書はないとおっしゃいましたが、我々はこの方程式を知らないと飯が食えないというものがあります。でも、将棋の場合は定石を覚えていないとダメというのはあるのですか?

佐藤:将棋には定跡という、セオリーがあります。これは当然のように知っていなければいけないということがあり、それが知識なのですが、知っているほうが、先入観や机上論になりかねないということもあります。

みんな当然勉強しているので知っていますが、それを必ずしも鵜呑みにするというわけではありませんね。

基本的に将棋の場合のセオリーというのは、かなり部分部分的な感じのところでのセオリーというのはよく言われるのですね。部分部分のセオリーは非常にたくさんあるのですが、いざ実戦となって盤面全体で見るとかなり例外というのが出てくるので、そのときはそのときで読んで判断しなければいけない。なので、あながち知っているからいいというわけでもないのです。

結局、最終的には自分なりに読んで確認するという作業になりますね。

作法を正し、個性を伸ばす師匠の教え

早野:最初は入門されたとおっしゃいましたが、その先生というかお師匠さんの役割はどういったものなのですか?

佐藤:将棋界の場合、師弟関係が昭和の時代はかなり密接だったと言いますか、例えば地方にいた人は師匠の家に住み込んで寝食を共にして生活する “内弟子”でした。今はなかなかそういう形はなくて、自宅から通うことがほとんどです。

私の場合も自宅から将棋教室に通っていましたので、そういう意味では若干形式的なところもありますし、旧式の部分もありました。

基本的に必ず師匠が必要になりますので、どんな形であれ“師弟関係”というのはあるのですね。私の場合でいいますと、師匠の教室に毎週土日に通っておりまして、土曜日は泊まっていましたので、そのときは師匠に将棋を教えていただいたりとか。

早野:教えてもらうというのは、実際に指すのですか?

佐藤:そうですね。実際に指していただくのですね。当然、うちの師匠は九段で、私が六級なので、普通は勝てないのですが、何回に1回かは勝ってしまうこともあったのですよ。ですからうちの師匠はあまり強くないのかなと錯覚したりなど(笑)。もちろん緩めていただいてていたのですが。

そういうところを気が付きませんでしたので、ちょっと自信をつけさせてくれたのかもしれません。私は入門して1年で東京に引っ越したのですが、奨励会で200局ぐらい教えていただいたので、そういう意味ではかなり教わっているほうかと。

早野:それは淡々と指すのではなく、「お前そこは」といった指導が入ることはあるのですか?

佐藤:もちろん、あまりにもミスが出てしまうと、それは注意されますが、それ以外はそんなにこと細かにこれはこうだとか、決めつける感じで教えることはありませんね。そういう意味では教え方は自由です。

将棋の場合は正解がその局面で1通りというわけではないので、どう指しても自分の好みで攻めや受けの手を指したりしているというところもありますので、やはり個性を伸ばすということが大事ですから、あまりそういうところの指摘はしませんね。

むしろ指し手というか態度や作法など、そういうところの教えが多いです。

名勝負から強さと美しさのバランスを学ぶ

早野:音楽の場合は楽譜もあるし、素晴らしい演奏の録音を聴くと「ああ、自分はこういう具合に弾きたいな」といったイメージがあって、それに近づけるというのが、子どもが楽器を習うときのプロセスだったりします。

将棋の場合は、目の前の相手に勝つということ以上になにか美的なものというか、どうなると自分の将棋が良くなるというイメージが描けるものでしょうか?

佐藤:もちろん勝つための勉強というのは、相手の研究が必要になってくるのです。自分が強くなるための勉強ということでは、やはり、それはいい音楽を聴くのと同じで、過去に将棋の場合対局もタイトル戦をはじめとした素晴らしい激闘があるわけですよね。

そういうものを自分なりに並べ直して、やはりなるほどというか、強さのバランスや美しさを学んでいくのもひとつですし、詰将棋の問題を解きながらといった形で絶えず訓練するというところはありますね。

将棋でも“美しい棋譜”という言い方をします。楽譜は音楽の表ですが、将棋では棋譜と言いましてね、将棋の棋に譜と書きまして、過去の対戦での名勝負というのが本当にたくさんありますから、そうしたものを並べながら、自分なりに感じながら勉強していくというやり方を行っています。

コンピュータには、棋士にはない常識がある

早野:最近はネットでプロの対局が出ると端っこのほうにコンピュータの予想が出ていたりしています。コンピューターを相手に学ぶということはあるのですか?

佐藤:最近では年々強くなっていますから、プロの棋士もかなり苦戦をしているのですが、とくに若手棋士はコンピューターソフトから学んでいたり、影響を受けているということが非常にあるようですね。私自身はそんなに使わないというか、主に自分なりに基準がありました。

例えば最後の部分は必ず未知の部分になりますので、そういう局面でなにかなかったかなというときに使うことはあるのですが、例えば最初の相手の手はそういうことだろうということには使いませんね。

私は性格的なもので人から聞いたりして、なるほどこれはいい手だと思ってそのまま使うことは嫌いなのですね。自分で確認しないと気が済まないというか、そういう天邪鬼的なところがありまして。

それを使ったほうがいいと思う人は使っていますし、私みたいな人もいるということで、現在ソフトがこれだけ強くなってきたので、それを導入する棋士が増えてきましたね。とくに若手は使うようになってきました。

やはり人間にはない常識といいますかね、そういう部分がありますので、そういう良いところは取り入れようということだと思います。最終的に自分が強くなるために、自分を高めるために使うということですね。棋士の場合は。

人間の強さは「いかに早く読むか」「いかに読まないか」

早野:コンピューターが将棋を指すときには探索というか、次はどこか探すのと、これはいい手かこれは良くない手かを評価するというのがセットになってプログラムがつくられていると思うのです。

本当にしらみ潰しに全手を読もうとすると、それこそ49手詰めのようなすごく長いものでも保っていければ読めるのかもしれませんが、全部やるのは大変なのでどこかを端折るのでしょう。

人間が読むときは一体なにをしているのでしょうか?

佐藤:人間は将棋に当てはめますと、いかに早く読めるかというのも強さなのですが、いかに読まないかというのが強さなんですよね。これはどういうことかというと、早く読むというのはもちろん能力的に早く正確に読めるほうがいいわけですからこれが純粋な強さなのですが、読まない強さというのは、判断ということですね。

将棋では“大局観”という言葉をよく使いますが、読まなくてもパッと見た時、瞬時に自分なりに形勢の基準を判断して、そこでパッとどちらの局面がいいとか、どうすればいいのかというのを判断して次の手を探す。

これが読まない強さ、読まないで次の手を判断するということなのです。これはやっぱり過去の蓄積ですよね。今まで読んできた、考えてきた基準の蓄積を普遍化して判断するという力ですね。ですから、なんでもかんでもしらみ潰しにということは、実はほとんどないのですよ。

「長考する」の落とし穴と苦い思い出

早野:対局中にかなり持ち時間を長く使って考える場面とそうでない場面があります。ものすごく長く考えている場面は、なにを思っていらっしゃるのですか?

佐藤:いいご質問です。素晴らしいです。お昼ごはんになにを食べようか考えているというわけではありません。長考しているときはですね、人それぞれだと思いますが、なにか有効だと思ったときに、ここが急所の局面、その一局を分ける大事な局面というときにやはり当然長考をするのですね。

当然、自分の中で読みを深める場面が長考という作業なのですが、ただ長考したからといって、いい手が出せるわけではないということもありまして。

実は長考してある程度時間が経つと迷っている時間がかなり多いのです。例えば1時間半も長考しているときがあります。1時間まではちゃんといろんな手を読んでいるのですが、そのうち先の状況を考えたときに、どれがいいかなと迷っている時間が20分、30分したりしているときもあるのですね。なので一概に長考しているから必ずしもいい手が指せるわけではありません。

私もそれで苦い経験がありまして。羽生さんと以前対局したときに、これはなにか長考すれば勝てると思って長考したことがありました。ところが長考して指したのですが、六手後ぐらいですかね、そのときにはまったく読んでいない手をいきなり指されました。

長考したときに一手も考えていない手を羽生さんに指されたので、その手を見た瞬間に、長考の時になにを考えていたのだろうと実は後悔しました。後悔したことによって気落ちして、その後ミスするという悪循環があったということがありましたので、一概に長考するからいいというわけではありませんね。

メリハリと言いますか、やはりそういったものがないといけないということだと思います。