前田氏が外資系金融での成功を捨てDeNAへ移った経緯

はあちゅう氏(以下、はあちゅう):前田さんはもともとUBS証券にいらっしゃったら、かなりの高給だったと思うのですが、それを捨ててというのは勇気がいりませんでしたか?

前田裕二氏(以下、前田):明確に20代でこの目標を達成するという予定を立てていて、それを達成したら辞めると思っていたというのがありますね。

実際に運が良くて、日本の株をアメリカ人に対して売る仕事をしていたのですが、2012年頃にアベノミクスが始まって外国人投資家が日本の株の比率を増やすというタイミングに差し掛かり、そこですごくがんばってたくさん稼げたということがあります。

目標というのは、そのアメリカの株のチームの部長になることや、年間いくらという目標があったのですが、25歳の時に達成できたので辞めようと思ったということがきっかけとしてはありました。

はあちゅう:辞めてからすぐDeNAに移られたのでしたっけ?

前田:そうです。辞めてアメリカで会社をつくろうと思い、ファンディングもして2億くらいお金を集めて、事業アイディアもあって「こんなのがあります」というところまで話をしていて。そうすると「うまくいかないからやめておけ」と言われて、DeNAの中で1回修行してからということになったという流れですね。

はあちゅう:どうしてDeNAだったのですか?

前田:もともと興味があったのですよね。南場(智子)自体もそうですし、会社としてすごい人材を集めているので。「1回見に来てみなよ」と昔から言ってくれていて。そんな世界でも自分の中では、とくに営業についてはアメリカですごく自信がついていたので。

はあちゅう:そうですよね。英語もできないところから勉強をされたのですよね。

前田:そうです。まあ、やらなきゃクビになるかといった強制力があったから、できるようになったことだと思いますが。

憧れのロールモデルを徹底的にコピーして超えていく

前田:そういった意味でやりたい仕事に出会うというのは、考えたのですが僕の場合、だいたい身近に「この人を超えたいな」と思うロールモデルがあったのですよ。

はあちゅう:学校などでしょうか?

前田:高校の時も日本人なのですが、英語が外国人よりもうまいのではないかと思う先生がいて。その人を超えたくて、英語のディベートを高校で始めて、大会に出たりしていました。それで英語ができるようになって。大学でも「この人を超えたい」というバンドマンがいて、一生懸命にやって、その人と同じくらい褒められるようになりました。

社会人になってからもそうです。UBSでも「この人より早く部長になりたい、稼ぎたい」と思える存在がいました。さっきの南場もそうです。南場が作り上げたDeNAを超えていきたいと思っています。

どちらかというと、他者。なぜこの人に憧れたのか、この人を超えたいと思ったのか? という他者を見つめることを通じて、自分自身の価値観をみているのかなと思っているのですね。

自分がなにに共鳴しているのかを客観視すると、「自分はこういうことを大事にしているのだな」ということを何度も繰り返すことでオリジナルが出てくる。

最初はコピーしながら真似をして、超えていくということを繰り返していたのですが、そういったところもバンドに似ているのかもしれませんね。最終的なオリジナルをポンと出すのではなくて。

はあちゅう:そうか、影響を受けた音楽など、いろいろありますもんね。

前田:ABCDEFといろんなジャンルのコピーをしていくうちに、それが積みあがって自分の独自性として出てくるじゃないですか。そういったものと近い感じがすごくあります。

はあちゅう:身近に素敵な先輩を揃えておくということが大事ですね。この人のようになりたいと思える人を。

前田:そうですね。なりたいと思うことが大事であることと、その1歩先に踏み込んで、どうして自分はこの人になりたいと思っているのだろうかということを、冷静に考えてみる作業というのは、意外としないものなのです。

はあちゅう:そうかもしれません。

前田:例えば、「ここにいる4人の誰かのようになりたい」と思う人がいてくれているとしたら、なんとなく漠然とそのように思うのではなくて、どうしてはあちゅうさんにこんなに惹かれるのだろうということを言語化する。

はあちゅう:そうですね。なんとなく有名になりたいという人はいますよね。

大学1年生くらいで、なにかいろいろなことをやりたいと思っている時は、どうしてもそうなりがちですが。物の本質ややりたいことに目を向けずに、なんとなく社会でワーっとなっている人に憧れてしまい、そこから1歩踏み出してインターンをやってみたら、「あっ、違った」となることはありますよね。

前田:まさに。僕も僭越ながら。

DeNAで立ち上げから1ヶ月で潰した動画サイトとは?

はあちゅう:ちなみに、アメリカでやりたかったビジネスというのはどんなものなのですか?

前田:Q&Aサービスは知っていますか?

はあちゅう:「Yahoo!知恵袋」のような感じでしょうか。

前田:「Yahoo!知恵袋」のもう少しプレミアム版というか。アメリカで弁護士の人たちや経営者などの知り合いがあったので、そういった人たちにつなげて、ちょっと今のサロンのようなノリがあったかもしれませんね。

はあちゅう:そうかもしれない、コミュニティをということですよね。

前田:それを月額でやってみるのか、無課金でやるのかは回しながらやろうと最初は決めていなくて、アメリカでは「Ask.com」というサービスがありますが。

はあちゅう:ありますね。

前田:あれがちょうどできるくらいのタイミングで考えていたのですが、南場に言った時に「これ、Yahoo!知恵袋じゃん」と言われて。まあそうですね、冒頭の質問の通り、僕は学生の時に、就職試験というか就活をしていて、DeNAがすごく異質な存在だったのですね。いろいろと受けた中で印象に残っていて。

はあちゅう:今、移られてからどれくらいですか? 何年経ったのですか?

前田:UBSからですか?

はあちゅう:そうですね。UBSを辞めてDeNAに入ってからどれくらい経ったのでしょうか。

前田:今、4年ですね。

はあちゅう:まる4年間ずっとSHOWROOMに関わっていらっしゃるのですか。

前田:DeNAに移ってから、実はサービスを1個立ち上げていて。誰も知りませんが、1ヶ月くらいで動画のサイトを潰していますね。

はあちゅう:なんというサイトですか。

前田:ぜんぜん聞いたこともないと思いますが、「POC」という。

はあちゅう:あー知らないや、1ヶ月でなくなっちゃったのですか。

前田:1ヶ月でなくなりました。

はあちゅう:それはどうして1ヶ月なんて短期で。

前田:約束していた閲覧数があって、それを超えなかったという。

はあちゅう:そうか、DeNAはどんどん新規事業をやっていきますものね。

前田:そうです、そうです。それで、ぜんぜんITのことなどわからなかったイチ金融マンが、こうやって使用できるのか、デザイナーやエンジニアとコミュニケーションを取るのだということを学んですごく糧にはなりましたね。

そのあとでSHOWROOMの研究というか、ベースになっている海外のサービスを見に海外に調査をしに行って。1から作ったというのがSHOWROOMですね。

ネットは「声をあげられない人々」のために存在するもの

はあちゅう:せっかくSHOWROOMの話になったので、ここからさらに今、みなさんがされているお仕事について深堀していきたいと思うのですが。

家入さんは都知事選などいろいろあった後で、一体どういうことがあって今のCAMPFIREに辿り着いたのですか?

家入:もともとリバ邸は“駆け込み寺”と呼んでいるのですが、学校や会社からどうしてもはみ出てしまう人たちがいて、僕もそうでしたが、そういう人たちが集まれる場所のようなものが、実はこの世の中に少ないのではないか。

というところからリバ邸を1つ始めたら、今、日本にいくつかできていて、そういった活動をやる中で居場所のようなものの定義というか、居場所というものをもっと作らないといけないのではないかというところに至りました。

都知事選も、それなら行政というか、「東京の組長、トップになれば行政側から居場所を作ることができる」と思ったことが出たきっかけだったのですが。残念ながらそれは叶わず、「その後も政治活動を続けますよ」とは言ったものの、なんかモチベーションが続かなくて。結局、民間からやれることをやろうということで今に至っています。

それで今CAMPFIREという会社と、他にいくつかありますが、ビジネスを通じてできることはなんだろうと。

今、CAMPFIREというクラウドファンディングの会社をやっています。そこの売りというのが、最近フィンテックなどと言われたりもしますが、ようはテクノロジーでどんどん従来の産業がアップデートされるのはいいのだけど、その一方で富む者はさらに富む。持たざるものはずっと持たないまま。というのが今後どんどん二極化していくだろうなと思っていて。

その時に、インターネットやテクノロジーは、声を上げたくても上げられない人たちのために存在すると僕は信じているので、そういった人たちのためになにができるのかを、CAMPFIREなどを通じてやっていきたいなという心持ちです。

メディア産業は今すごく病んでいる

はあちゅう:森川さんはLINEを辞められて、そのあとC CHNNELを立ち上げたわけですが。今、かなり日本では浸透されましたよね。今後はどのようにサービスを展開されていくおつもりですか。

森川亮氏(以下、森川):ちょっと話が変わってもいいですか?

はあちゅう:ぜんぜん大丈夫です。

森川:なぜ事業をやりたいのかという話からすると、もともとさっき話した大企業を辞める時は、大きな組織よりは、もうちょっと自由にできる環境がいいかなと思ったのが1つ。

20代の時にギャラリーを経営していまして、その時にいろんなアーティストと付き合う中で、アートはやっぱり確かに物を表現する、生み出すというところに原点がありながら、時代の流れをとらえないといけないのだなということを強く感じていました。

そこから新しい事業をやるにしても、「時代の流れの延長線上の未来を具現化するようなことをやりたいな」ということでソニーに入りました。ソニーでやっていたことは、Appleがやったようなことをもっと早くやろうとしてやっていたのですよ。

ただ、ソニーは大きな会社過ぎて、いろんな人と喧嘩したり、結果的にジョイントベンチャーを作ってある程度まではいったのですが、もう少し早くできる会社ということでベンチャーに移りました。

その後もけっこう新しいことをやったのですが。でもLINEを辞めた時に、新しい物よりは半歩先の方が成功の確率が高いなと思いました。そこからまず踏み出し方を変えたのが1つ。

C CHNNELに関しては、LINEをやってる時にいろんな国に行っていろんな人とビジネスをして、どんどん日本人の元気がなくなったり、日本企業のプレゼン数が下がっているというところがありました。

残りの人生でこの国をなんとかしたいなと。どちらかと言うとやりたいことをやるというよりは、未来を読んだ時にやらなければいけないこと、さっき家入さんが言っていたような、やらなきゃいけないことにスイッチが入りました。

メディア産業は今すごく病んでいるというか、どうでもいいメッセージばかりを発信しています。みんなそれを見て疲れちゃっている状況なので、もっとメディア革命を起こしてポジティブなメッセージや、世の中にとって役に立つことを発信するような、そういった業界の改革をしたいなということでC CHANNELを展開しています。

アジア全域で、日本に憧れている若者はあまりいなくて、みんな韓流なんですよね。それはやっぱり、アジア全域にコンテンツが流れているからなんです。

今、アジア全域に日本のコンテンツを流して、日本に憧れる文化を作って、若い人を巻き込んでいって。日本企業や日本人、もしくはアジア全体で欧米じゃない新しいカルチャーを作るようなことをやりたいなと思ってやっていますね。

日本国籍に帰化した前田氏がインドで受けた衝撃

はあちゅう:ありがとうございます。カルチャーと言えば前田さんも新しいエンターテイメントのカルチャーをつくられていると思うのですが。

前田:そうですね、僕も家入さんとまったく考えが一緒だなと思いまして。さらに言うと、持たざる者と富む者という話があったと思いますが、待たざる者と持たざる者である理由がある者はしょうがないかなと思います。

なにが言いたいかというと、すごく努力する熱量、パッションがあるのだけれどもそのぶつけ先がわからず、その機会がない。そして結果として持っていないという状態を、僕らのような仕組みを作っている側が変えていかなければいけないと思うのです。

すごく印象的な経験があって、21歳で初めて海外に行きました。それまではずっと海外に行くことができなくて、初めて行った国がインドだったのですね。

はあちゅう:なかなかチャレンジングですね、いきなりインドだと。

前田:20歳くらいまでは、それこそ家入さんのように自分が弱者だ、不幸だ、はみ出し者だという感覚がすごく強かったのですよね。与えられた境遇として、そもそも海外に行けない制約があったんです。これは、込み入った事情だったんですけれど。

はあちゅう:そうだったのですか。今は?

前田:今はもちろんいけます。そういった過去があって、僕は不幸だと思っている節が若干あったのですね。

不幸というか、働いている環境が他の人よりも恵まれていないという実感がありました。自分よりも劣る環境の人々が絶対にいるはずだと思ってインドにいったのですが、そこでいろいろな経験をしました。1番印象に残っているのは、夜行列車でインドに行ったことがある人はわかると思いますが、インドを横断していたのですね。

その時に寝ていたら少年が近寄ってきて、服を引っ張って「お金をくれ」という感じなのですね。でも、無視するじゃないですか。「きた」と思って無視する僕に、さらに積極的にアプローチをしてきて、その時もっていたバチというかスティックみたいなもので演奏を始めて。さすがに僕も寝ているふりするわけにもいかないから……。

森川・家入:(笑)。

前田:めっちゃうるさいし。それでよく見たのですね。灯りを点けて見てみると脚がなくて、上半身だけだった。その後、彼をよく見たら、列車の中を手でこう……。

はあちゅう:這っている。

前田:それで生きていて。その時にすごい電撃が走ったというか、稲妻が走った。なんらかの理由で脚がないわけじゃないですか、残された手で生きていこうとしている感じに感銘を受けた。まさにこういう子たちがいっぱいいるのですよ。

弱者が努力次第で這い上がれる仕組みを作りたい

その中でなにが起きたかというと続きがあって、周りの人たちが次の駅で少年の手を持ってホームにポンと投げちゃって。僕、彼に日本円で2万円くらいあげたのだけど。

はあちゅう:かなりあげましたね。

前田:そうですね。それも周りのインド人が盗っていったりして。周りのインド人たちが、親が脚を切ると。

はあちゅう:そうですね。

前田:物乞いがしやすように。

それを聞いた時に、自分自身の逆境、例えば、小さい時に稼がないといけなかったとか、それって何でもないなと。逆境には2種類あると思ったのですね。僕の逆境は乗り越えられるタイプの後天的になんとかなる逆境で、彼のそれは後天的にはどうしようもなかったもの。そこから何をやろうが彼は早稲田大学には入らないし、社会で明確に機会の格差というのを目の当たりにした。

この機会の格差を、あらゆる国で資本主義をやるときにも、弱者と強者がいてしまうのはしょうがないと思っていて。そうなのですが、少なくとも弱者が努力次第で這い上がれる仕組みがないことが一番心に来ましたね。それを作りたくて。

例えば彼がポンと捨てられたところに……。僕らはライブ配信のサービスをやっているのですが、ライブ配信ができるブースを作ってあげて、横にATMマシーンを置いて、彼がもらった額に応じて引き出すことができれば、僕みたいな人が見た時に「こいつ脚がないのに手でがんばっている」とファンディングするかもしれない。

そこが家入さんと近いところなのですが、それによってすごくスピーディーに機会格差を民間から変えていくことができるのではないだろうかと思いました。その経験が、そういったものを立ち上げるきっかけになりました