『最後の晩餐』の秘密

カリン・ユエン氏:レオナルド・ダ・ヴィンチよって描かれた『最後の晩餐』は世界でもっとも有名な絵画です。壁画は15世紀後半にサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院のために描かれ、ヨハネ福音書13章21節にある、弟子の1人がキリストを裏切ると予言した、12人の弟子たちとの最後の晩餐の情景が描かれています。

みなさん、Little Art Talksへようこそ。私はカリンと言います。今日は、この絵画に隠された興味深い歴史と、多くの人に崇められ、研究や調査され、模写や風刺されているにも関わらず、現在はほんのわずかの原画しか残されていない『最後の晩餐』についてお話します。

この作品は、教会の改装工事の一環としてレオナルドのパトロンであったミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァにより依頼されました。レオナルドの作業を見ていた小説家のマテオ・マンデラによれば、レオナルドは夜明けから日没まで食事もせずに描き続けることもあれば、3、4日間も筆を取らないこともあったと言います。

修道院長はその様子に腹を立てて、レオナルドがルドヴィーコに仲裁を頼むまで不満を言い続けたと言います。どうやら、レオナルドは裏切り者のユダの顔をどう描くかで迷っていたようで、彼は不満を言っていた修道院長の顔をモデルにせざるを得なかったと話しています。確かに作業を早める助けにはなりそうですが、ひどいですね。

『最後の晩餐』は大食堂の後方の壁一面に描かれています。これは大食堂に飾るには、とても伝統的なテーマですが、彼が描いた時には大食堂はありませんでした。ルドヴィーコは家族の霊廟を建てるつもりで、この絵画はその中心に置かれることになっていました。

『最後の晩餐』はキリストがこの中の誰かが裏切り者であると話した時の、十二使徒たちのそれぞれの反応を描写していて、現在は、文書によってこの12人が誰であったのかわかっています。

左から右にかけて、最初のグループの3人はバトルロマイ、アルファイの子ヤコブとアンデレが説明を求めて右方を見ています。次のグループはユダとこの女性ペトロとヨハネの3人です。

ユダは緑と青の服を着ていて、彼の顔は陰に沈んでいます。彼は小さな袋を握っており、これはキリスト裏切った報酬に支払われた銀貨であるか、グループのなかで会計係であったことを象徴した表現かもしれません。また、彼は塩入れをひっくり返していることから、主人を裏切るいう意味がある中東の「塩を裏切る」という表現を暗示しています。彼は絵画のなかで、肘をテーブルに乗せている唯一の人物であり、彼の頭は横向きで、絵画の人物の中で一番低く描かれています。

ペトロは、怒っていてナイフを持っているように見えます。おそらく、キリストが逮捕される時の暴力的な反応の前兆を表しています。ヨハネは最年少で、ショックで卒倒しているように見えます。キリストはもちろん真ん中に座っています。彼の頭は消失点にあり、差す光が 後光のようになっているのがわかるでしょう。

次のグループは、トマス、大ヤコブ、フィリポで、トマスは人差し指を立てて、キリスト復活への信じられないという思いの前触れを示しています。大ヤコブは驚いて両腕を広げていて、ペトロは、なんらかの説明を求めているように見えます。

最後のグループは、マタイ、ユダ、熱心党のシモンで、マタイもユダもシモンを見ながら、答えを求めています。

キリストは、彼がパンを手に取ると同時に裏切り者もパンを手にするだろうと予言しました。キリスト左にいるトマスとヤコブは、彼が左手で目の前のパンを指すのを見て驚き、ヨハネとペトロに遮られていたユダは、キリストがもう片方の手を別のパンに伸ばしていることに気づかずにパンを取ろうとしています。

3はキリスト教の三位一体の教えの中で重要な数字とされており、この絵画に引用されています。弟子たちは3人ずつに分かれて座っていることや、キリストの背後には3つの窓があり、彼の姿は、三角形を思わせます。

この絵画が完成したとき、名作として謳われましたが、長くを置かず劣化し始めました。本当に、驚くほど早く急激に老朽化し、100年以内に絵画は完全に色あせてしました。

何度も行われた修復作業

レオナルドは、この絵画を従来のフレスコ画法よりも、さらに精密で鮮やかに仕上げたいと考えていました。フレスコ画法とは、塗りたての濡れた漆喰に直接絵の具をのせる画法で、画家が制作過程で修正することができず、絵の具が乾燥すると漆喰に直接色が染みこむというものです。

しかしレオナルドは、下塗りの上にテンペラ絵の具を使うことを選びました。これは基本的にただの下塗り用の塗料です。レオナルドは、明るい下塗りの上に描きたかったので、石の壁を2層の乾燥した漆喰で覆い、その上に鉛白絵の具を塗って、暖かくて明るい白の下地を作りました。これにより巨匠が制作に時間をかけ、特徴的な明暗法や緩やかな陰影を成すことができました。

しかし、絵画は薄い石の壁の外側のに描かれたため、温度の変化や湿度の影響を受けやすかったのです。絵の具が上手く壁に付着せず、剥がれたりしました。また、カビの影響も受けやすく、この絵の具の原料は環境には適していませんでした。

そして、次々に起こった出来事も絵画の状態を守るのをより困難なものにしました。

絵画の劣化が進んだ1652年、なんの絵であるのか知られていないまま、出入り口が作られ、絵画の一部が切り取られました。初期の研究を見ると、破損した部分にはキリストの足が描かれており、磔を暗示するように足を組んでいたとされています。

1768年、絵画をさらなるダメージから守るために、カーテンが上にかけられていましたが、そのせいで、湿気が中にこもってしまい、カーテンが開閉されるたびに、絵の具がさらに剥がれ落ちてしまいました。

そして、以下のような絵画の修復作業も行われました。

最初の修復は1726年にミケランジェロにより行われましたが、彼はこの絵が油絵の具で描かれたものだと思っていたのです。そのため、表面を 強力な溶剤を使ってきれいにすると、はげ落ちた部分を油絵の具で描き足しました。そして絵画全体を二スで覆いました。

これは長持ちしなかったため、1770年この復元作業以外では知られていない画家、ジュセッペ・マッツァによって2度目の修復が行われます。ミケランジェロの行った修復を消し去り、ほぼ同じように油絵の具で上描きをしました。あと3つの顔の修復を残したところで、人々の反感を買い、作業を中断せざるを得なくなりました。

1796年、反教権軍によって、食堂は武器庫として使われ、彼らは、絵画に石を投げつけたり、十二使徒の目を削ったりしました。また、のちに牢屋としても使われていましたが、それ以上損傷の記録はありません。

1862年にステファノ・ブレージは、絵画を安全な所へ移設するよう依頼されました。彼は、壁に描かれたフレスコ画を壁ごと移設する専門家でしたが、前述したように『最後の晩餐』はフレスコ画ではなく、彼は、絵画の中央が大破損するまでそれに気づきませんでした。その上、破損した部分を糊でつなげようとさえしました。

次の修復は1901年から1908年、ルイージ・カバナギによって行われました。彼は、修復の前に十分な調査をし、初めてこの絵がテンペラ絵の具で描かれていて、油絵ではないと明確にしました。

さらに1924年、オレステ・シルバストリによって一部の漆喰の安定化が施されました。

最後の修復で劇的に変化

そして、第二次世界大戦中に食堂は連合軍によって爆撃され、絵画は砂袋に守られていましたが、振動によって損害を受けたかもしれません。その後も食堂がすぐに復興されなかったため、1年もの間、絵画はひどい状態にさらされることになります。

また修復と補強をマウロ・ペリコーリが1951年から1954年にかけて行い、彼は、白カビを取り除き、絵画を一体化させようとしました。ほこりを集めやすく、水に溶けやすい糊を使う代わりに、エタノールに溶ける樹脂であり、湿気から絵画を守ることのできるセラックニスを定着剤として使いました。

最後の修復はもっとも長期にわたるもので、ピニン・ブランビッラ・バルセロナによって行われました。彼女は修復専門のアーティストとして名高く、新しい技術を駆使して、原料と絵画の状態を撤退的に調査し、修復は1978年から1999年にかけて行われました。

彼女らは、筋金入りのスパイ映画のように技術を駆使し全力でことにあたりました。絵画を補強し、ほこりや汚染による損傷を回復させ、18世紀から19世紀にかけて試された修復を取り去りました。絵画をもっと管理された環境に移すことは不可能であったため、食堂を密閉して環境制御された部屋へと改造しました。

赤外線反射鏡や顕微鏡でのコア試料などの 科学鑑定を行い、絵画の原型を判定して研究することに成功しました。化学分析の結果、過去の修復で上塗りされた絵の具が、レオナルドの使った元の絵の具を侵食しているとわかりました。絵の具が剥落した部分は、レオナルドの絵の具もろとも剥がしていたのです。

レオナルドが1498年に作品を完成させた後に行われた、すべての修復作業の際に使われた絵の具は、すべて落とされることになりました。顕微鏡カメラで絵の具が上塗りされたであろう部分を最大限に拡大させて正確に割り出し、赤外線反射鏡で、重なった絵の具の下にレオナルドの原画を見つけ出しました。コアサンプルは、研究室に持ち込まれて、原料と色を分析しました。

また、サンプルの採取のために開けた穴に小さいカメラを挿入して、ひびや空洞の状態を判定し、音波探知機やレーダーは絵の下にある石の壁の弾性と構造上の特徴を掴むために使われました。

これらはすべて細かく、大変時間のかかる作業でした。ほとんどの日は、ハガキの切手ほどのなごく小さな部分しか修復できませんでした。絵画の一部は修復不可能と見なされ、原形ではないことを明確に示すために、水彩絵の具が使われました。

21年にわたる修復作業のあと、作品はついに公開されることになりました。

公開されると、劇的な色彩の変化や、顔の形の変化などを革新的だとの称賛もあれば、修復に使われた絵の具をすべて取り除いたり、水彩絵の具を原型を留めない部分に使ったのは正しかったのかなどの論争が起こりました。

絵画は、湿度を計り、ほこりを取り払う空気清浄システムを含んだ制御された環境で保護されています。

絵を見学するには、予約をしなければならず、1度に部屋に入れるのは25人までの上、作品を見られるのは15分とまでと決まっています。すべては絵画を保存しようとするための努力です。過去に行われた多くの修復作業は、改善するどころかより大な損傷を与える結果になったような気もします。今日では多くの技術が保護管理者や修復者を支え、彼らのすばらしい修復作業が重要な作品を保護し、次の世代へと存続させることができるのです。