人間関係を反映した、書院造の接客空間

カリン・ユエン氏:平安時代や中世を通じて、農民は農奴とほとんど変わりなく、租税の負担は江戸時代にも重くのしかかりました。さらに、戦乱がきっかけで、父祖代々所有していた土地を取り上げられた、何千という人々が都市に出て職を得ます。

人々は、しばしば商人や職人として働きました。これらの2つの職能集団は、社会階級では最下層の町人と呼ばれましたが、興味深いことに、中世後期の間、彼らは都市で巨大な富を蓄え、芸術文化の庇護者となったのです。

桃山時代と江戸時代初期には、これらの裕福で教育を受けた職人や町人たちは、町人階級の間でも際立った人口の割合を占めていきます。

16世紀から17世紀にかけて、新しい支配者層の需要に合わせるように、新たな建築の形態が発展します。領地の支配に役立つような、新しい形態の恒久的な拠点が発達します。地方大名の住居、兵の駐屯地や、弓矢や弾丸などに対して難攻不落の城塞などです。この時代の終わりには、ヨーロッパとの交易によって銃器がもたらされます。

安土城、桃山城(伏見城)、大阪城、のちの江戸城のような居城は、支配者の権力と重要さを誇示するための舞台装置でした。不幸なことに、安土桃山時代の巨大な城の多くは現在まで残っていません。江戸城の遺構は、後世になって移設されたことがうかがえます。

もう1つの桃山時代の改良は、貴族階級の寝殿造から発達した、贅をつくした居住空間である「書院造」です。中世の武士階級の政治的な興隆によって発展しましたが、この時代には成熟した様相を見せるに至ります。

書院造の建築における接客空間は、武士階級の領主と臣下との間の儀礼による人間関係を反映しています。書院造の最も重要な広間は、主人が家臣やそのまた高位の主人をもてなす空間です。最も発達した形では、座敷は2つの層から成っていて、上の層は下の層よりも数インチほど持ち上がっています。最も高位の武士が、主人であろうとなかろうと、上の層に座りました。

その背後には床の間があり、一段高くなった床に掛け軸がかけられ、生け花や値打ちある文物が展示されています。その傍らにはもう1つの区切られた床と、さまざまな高さで相互接続した棚、もう片方の壁面には4対の襖絵がありました。

金箔、銀箔を使った新しい美学

桃山時代の間中、襖は貴族や大名、武士階級、あるいは裕福な町人たちのために居住建築の間で広く使用されました。加えて、金地や銀地や、金箔、銀箔を多用した鮮やかな色彩による新しい美学が発達します。城内に薄暗い光を反射し増幅するため、金箔が普及しました。

金箔が用いられた鮮やかな色彩の屏風絵は、極楽浄土の金や宝石の入った環境を暗示するという説もあります。どちらの推測ももっともですが、金の下地は桃山時代の豊かさの自然発生的な表現でもあるでしょう。

襖と呼ばれる、引き違いの扉に描かれた絵画、そして屏風と呼ばれる、折りたたまれた自立する几帳は、日本固有のものではありませんが、桃山時代と江戸時代の絵画の主要なフォーマットとして展開していきます。

襖絵と屏風絵の基本的なモジュールは、薄い木の筋の格子を囲んだ軽い木枠の構造から成り立っています。この骨組みの上に、裏打ちされた一切れの紙が貼りつけられ、ときには絹布が貼られますが、その上から絵が制作されます。

それぞれの襖の扉は、たいてい漆塗りの木の外枠や、金属の手を入れる器具(引手)が取り付けられ、絵を損なわずに前に動かしたり後ろに戻したりすることが可能です。紙が貼られた平面は、襖そのものより幅が狭くなっていて、1つひとつ複雑な仕組みを持つ蝶番で連結されています。外周全体は、黒い漆塗りの木で枠取られています。

もう1つの扉と窓の処理には、桃山時代から引き続く障子と呼ばれるものがあります。障子に特徴的であるのは、場所に固定され、扉をスライドして使用していても、半透明の白い紙が、襖絵の骨組みと同様に木枠の片側に貼られていることです。

障子は、日本家屋のなかで柔らかに光を拡散し、屋外や随伴する空間から区切られている感覚をもたらします。

秀吉の時代も、徳川将軍の初期においても、天皇や朝廷は、政治的な役割よりもむしろ文化的な役割を果たすものとして、平和で安定した繁栄が約束されました。貴族階級の居住区は、この時代に復活を遂げます。

徳川幕府が許可した、穏やかな文化的探求

17世紀初頭に最も素晴らしい設計の建築は、隠居のための皇室の別荘として、京都南西の桂川沿いに建設された桂離宮です。智仁親王によって1620年から24年の間に建設された、数寄屋造りと呼ばれる建築が敷地に組み込まれた建築様式です。

抑制された控えめな効果が、作り込まれた細部にあらわれ、親王が好んだ書物の1つ、『源氏物語』から引用された諸要素が再現されています。

『源氏物語』の小説に叙述にあるように、智仁親王の別荘は、広大な敷地のなかに人工の島が浮かぶいくつかの池を持ち、田舎風の釣殿(茶屋)や、小屋があります。内部は、床の間などに内在的に示されるような、座敷の様々な層によって各々の客人の位を強調するような格式ばったものはありません。

離宮は、宮廷人たちや皇族たちの非公式な会合のためのもので、階級による取り決めから離れ、寛いだ雰囲気のなか、徳川幕府が許可した穏やかな文化的な探求を享受するためのものでした。