禅の思想と室町文化

仏教の禅宗は、中国から輸入され12世紀の終わりには日本において確立されます。しかしながら、独立した宗派として平安時代に広範に栄えることはありませんでした。戦争によって悲愴な時代になり、厳しい自己戒律を重視し、物事の真の性質を理解することが求められる、この宗派を、学者やエリートたちが受け入れるようになりました。禅は、日本の知識階級の思考と行動に強い影響を与え続けました。

禅宗の主な目的というのは、集中した瞑想によって悟りに達することです。この宗派は、外界で起こっている出来事に関心を持たず、清貧といえるような質素な生活を旨とします。この厳格さに知識人たちは惹きつけられ、文化的な軍事的な特権階級の間で信奉されました。

真理を深く認識するに至る方法は主に2つあります。1つは座禅であり、足を交差させて背筋を伸ばして座りながら瞑想することです。対象のない思索の中で、今この時だけを意識しなくてはなりません。もうひとつは、公案(こうあん)といい、合理的な思考では理解できないような問いを師匠と交わすことです。明快で直観的な悟りにたどり着くには、決まりきった思考の型を打ち砕く必要があります。

侘びは、禅と関係の深い美意識です。それは、厳粛さや幽境の喜び、簡潔さの中に見出される美に価値を置きます。そして、時間に晒され風化した物品を愛好します。侘びの考え方は、当初は行者の生活の質的なものを指していましたが、時を経るにしたがい、日常に見出される美学に発展していきました。

寂びという側面は、侘びと対を成す言葉で、人生の終焉に到達できる静けさと隔離の境地を指します。この2つの美学的な概念は、15世紀に禅の実践から発展して、強い茶を飲み覚醒しながら瞑想する、茶道の基本的な演出になりました。茶道では侘寂(わびさび)を実現させるのです。これは、言葉にするのは楽しいです。そして、わさびとは似ていますが全く関係ないということを付け加えなければなりません。

庭園に表現される禅文化

禅宗の影響で、寺院の伽藍配置は変化しました。伽藍の中心部は、公的な儀式のために発展し、その傍らには一連の私的な小院がありました。塔頭(たっちゅう)は、隠退した僧侶などの宗教的な指導者や、信徒を宿泊させるために宿泊させるために建立されました。

東福寺は、京都に建設された初期の禅宗の寺院のうちの1つで、最古の禅宗寺院の外観が保存されています。1236年に設立され、1255年に完成されました。1319年と1334年の大火で甚大な被害を被りましたが、幕府の主導による援助ですぐに再建されました。東福寺は、山門と呼ばれる新しい様式の門が現存する最初の例です。建設は40年以上にわたって行われ、3つの入り口のある二層構造の門で、そして2階は階段から登ることができ機能的です。

外壁はより渋くて荒々しい中国南宋時代の美学を残していて、2階の内部は、14、15世紀特有の意匠である赤と緑と茶色、そして黒と金で着彩され、明るく装飾されています。ひとつの部屋には、山門に特徴的であり、とりわけ禅宗では尊重されていた、悟りに達した偉大な修行者である、釈迦や十六羅漢像などの彫刻が祀られています。

もちろん、禅宗の庭園についてもお話しなければなりません。これらの庭園は、瞑想を促すものとして建造されました。平安時代の中頃まで、庭園は寺院の境内に組み込まれ、貴族の住居を模して配置されていました。しかしながら、禅宗の庵と関係のある庭園はこれとは異なります。限られた空間に建設され、この制限こそが設計的な資産でもあり、極端に簡素なものであり続けました。

さらに、禅の修行の助けとして、庭園に含まれる文物は、形而上的な解釈を誘うものでもありました。それらの多くは、大きな岩々や細かな砂利から建造され、苔などの植物や低木が植えられ、乾いた風景という意味で、枯山水(かれさんすい)と呼ばれました。いくつかの禅宗の庭園は、沼などの水の形相を取り入れていました。

龍安寺は、枯山水の最も名高い庭園です。禅の静寂と内省を具現化した典型例となりました。寺院は、京都の西の近郊に1450年に建設されました。京都の他の多くの地域と同様、戦乱により全てが残っていませんが、1488年に再建されます。18世紀に寺院は再度焼け落ちてしまい、現在の庭園はこの時代のものです。

全体が岩とうろこ状にならされた砂利から作られ、海のイメージと解釈できます。もうひとつの解釈は、雌の虎が子供たちを連れて川を渡るイメージです。どのイメージが喚起されようと、質素で簡略な設計の美は、比類のないものでしょう。