藤原氏の影響が色濃い平安時代中期

カリン・ユエン氏:このビデオでは、平安時代の中期から後期にかけての美術史をお伝えします。

奈良時代がどのような時代だったか覚えていますか? 直接の皇室支配の下で土地が取り戻され改革されていたんでしたね。平安時代までには、土地の大部分は貴族階級、とくに藤原氏へ贈呈されていました。藤原氏は皇室政治において主要な役割を担っており、12世紀の中頃までもっとも強力な政治勢力でした。

したがって、平安時代中期は藤原氏の影響が多く反映されたことから、藤原時代ともよばれています。858年に藤原氏は新しい政府の形態を設立しました。それは、彼ら自身を摂政そして関白に任命するというものでした。

これらの役割を通して、天皇の名において国を統治しだしたのです。この時代は、藤原氏は天皇家との政略結婚を広範囲にわたって行い、藤原氏のトップは大体が天皇の祖父や叔父、または天皇の義理の父という地位に就きました。

天皇の配偶者である藤原氏が跡継ぎを生むことで、天皇は退位を促され彼の義理父である藤原氏が新しい天皇の摂政となり若い統治者が成人に達すると関白となりました。言うまでもなく、藤原氏は政治において多大な権力を握っていたのです。

強力な力を持つ貴族の長やお寺も、天皇に彼らの荘園や私有地の免税を行うように圧力をかけていました。荘園の主は、首都に近い場所にとどまり、一方で実務は大体的に地元の私有地の支配人へ移行していきました。

支配人の下で、そこで働く農民や百姓たちは多かれ少なかれ奴隷として定住させられました。土地所有に関すれば、もともとは天皇の「贈与」という名目で、政略結婚や継承によって土地の持ち主が変わり、藤原氏はこの時の国家歳入の最良の資源を慎重に、かつ巧みに操作していました。

この時代に日本文化は繁栄します。とても平和な時代で、貴族階級は余暇を持ち、短歌を詠み、楽器の演奏、お香の調香、仏教経典の模写や、煌びやかな仏教儀式といった宗教活動に資金を使い、美を追求していきました。美術史家のジョージ・サンソムによると、この時代は「審美眼の統治」と記されています。

以前は、中国風の様式の強い影響で、日本の地形が中国とはまったく異なるにもかかわらず、日本の画家たちは高くごつごつした中国の山を模写していました。

大和絵の最盛期へ

日本の様式が中国風から変わっていくにつれて、絵画は日本人が見たままの日本を映し出し始めました。平安時代中期は大和絵の最盛期とされています。日本人は日本の様式と中国の様式を区別し始め、中国風の絵を唐絵、日本風の絵を大和絵と呼びました。大和は日本を意味し、唐は中国を意味します。

大和絵は柔らかな景観ですが、色使いが派手ではないということが特徴です。景観は、低めの丘やなだらかな渓谷といったもので、平安時代を象徴するかのような絵です。一方で唐絵は、中国の物語のテーマ、獰猛で神話的な生き物、そしてごつごつした岩山が描かれています。

絵解きは、仏教の道理を説明するために発展した絵の形態です。絵巻や手書きの絵、または色づけされた巻物、ピクチャーホールと呼ばれる絵の部屋を使って、僧侶が歴史的な仏陀である釈迦牟尼の物語や、ほかの重要な仏教僧、また中国から日本へ仏教を伝えた聖徳太子といった仏教において重要な僧侶や歴史的人物を説明します。

絵解きの初期の例は、支配階級からなる少数のグループの間で行われていました。

後に、ピクチャーホールを離れて、11世紀ごろには公の場で行われるようになりました。音楽も特別な物語に合わせて作曲されるようになりました。僧侶は食べ物やお金などと引き換えに絵解きを行いました。

旅をしながら絵解きを行う僧侶は、橋の上や道端などでさまざまな聴衆のために説法を行いました。これは、エンターテイメントの1つとして、読み書きができない人へ宗教に関することを伝える1つの方法でした。

聖徳太子絵伝は、時系列というよりは、地理的な変化による10の絵画のまとまりで聖徳太子の人生に起こった出来事が描かれています。右から左へと見ていくと、それぞれのエピソードが絵画上で楕円形に分けられています。

物語の要素は、山々、岩、そして木々の間の広々とした空間に収められており、直角的な構成は出来事が広がっていく空間の景色によってまとめられ、鑑賞者の目を誘導します。

山が描かれることで構成を一体化するためのスペースを明確にし、それと同時に分けられて描かれている比喩的な流れは中国の唐朝でよく見られる絵画的技法です。中国の絵画的技法を使用しつつも、芸術家は日本と中国の間の景観の違いを明確にしようとしました。

四天王寺の2つのパネルでは、現在は大阪と呼ばれている、なにわの低地が見られます。左側には不規則に固まった中国の山々が見え、それらのいくつかは鋭く切られた面を見せており、唐絵ではよく描かれるのですが、大和絵では滅多に描かれません。

上のほうには、魔法で飛んでいる馬車が見え、それに乗って聖徳太子は海を渡り中国へ旅をしたという描写が見て取れます。したがって、この作品は中国の絵画的技法の使用が興味深いのですが、それを現世を描くために使用し、元々のテーマである王子の生涯に新しい構成要素を用いています。

来迎図に描かれた阿弥陀如来と菩薩

10世紀になると、日本の仏教の浄土宗の重要性に伴い、平安中期の氏族の信仰の焦点が大日如来と真言宗の曼荼羅から、極楽浄土での生まれ変わりの信仰または、阿弥陀如来が持つ浄土信仰へと移っていきました。新しい種類の芸術が、これらの宗派の深い信仰心を満たすために発展しました。

来迎図を含むそれらの作品は、極楽浄土へ旅立つ魂を歓迎するため天国から降りてきた阿弥陀如来、観音菩薩と勢至菩薩が描かれています。

真言宗の複雑できちんとした規律や儀式と対照的に、浄土宗では救済を求める人々は極楽浄土で生まれ変わるために「南無阿弥陀仏」を繰り返し唱えればいいというシンプルなものでした。悪くないですね? 多くの人もそう思いました。この教えは上流階級だけではなく、阿弥陀の教えは社会に生きる下級層の人々へも広がりました。

この仏教の教えは中国語の文章を読むことを必要としていましたが、これができない一般の人々は(氏族階級の男性以外はほとんどの人ができなかった)、仏教を単純に災難を防ぎ、豊作をもたらし、最愛の人が安らかに来世へ旅立たせるための魔法の儀式と認識しており、僧侶になるために悟りを開いたり、そのために人生を信仰に捧げるといった認識がありませんでした。

その代わり、念仏は死後のよき世界、つまりそこではたとえ百姓の身分であっても極楽浄土で貴族のように暮らせるということを約束し、氏族と一般人の間の格差が決して大きくならないという意味において、この当時非常に魅力的な教えでした。

有名な初期の来迎図の例は、京都の宇治にある平等院鳳凰堂です。

これは元々避暑用の建物でしたが、1052年にお寺になり、1053年に鳳凰堂が建立されました。池を見ると、水の中の反射とともに、建築物が極楽浄土という意味を持ちます。鳳凰堂の中を歩くと、来迎図の彫刻に囲まれます。中央には、実物大の阿弥陀如来が蓮の花の上に座っています。壁の上部分には、小さな雲中供養菩薩像のモチーフが木で作成されています。

これらのモチーフは雲の上に座り、または立って楽器を演奏したり踊っています。この阿弥陀如来像はこの時代に抜きん出た彫刻家、定朝によって作られました。

定朝は新しいプロポーションの阿弥陀如来を作り、顎から眉、頭の高さを全体像の基本単位として使い、脚の下部から前髪に渡る像の垂直的投影は、両膝からの距離が均等となっています。

この像は、すばらしく安定さと穏やかさの感情の雰囲気を表現しています。この像は、寄木(多数の木で作ったパーツ)を使って作成されており、この技法は分けてまたつなげるという中国の建設過程から発展したものと言われています。この像は木で作られた53個のパーツから成り立っています。

寄木造りの技術では、あまり深く木を掘ることができません。しかし、定朝はこの特徴を活かし、神護寺薬師のような重く威圧的なスタイルよりは、むしろ軽く優美な彫刻のスタイルを作り出したのです。

展示会で見られるような典型的な彫刻とは異なり、寄木造りではよりダイナミックな動きを表現できるだけでなく、アトリエでの作業もより容易にしました。チーフ製作者がテーマをスケッチし、どの部分を組み合わせるかを示し、見習いの人たちにさまざまな部分の彫刻をしてもらいます。

そして作品が運び出され、作品が飾られる建物内で組み立てられ、最後にチーフ製作者が仕上げます。像には透かし細工で作った金の後光がついていて、天蓋に接触しています。細かい作業は阿弥陀像自体の穏やかで静かな物腰、そしてなめらかな表面とは対照的です。