中国からさまざまな文化を受け入れた時代

カリン・ユエン氏:飛鳥時代の間、仏教は中国の風習の1つとして、韓国の政治家によってもたらされました。そして、これは敬虔な指導者たちによって信奉され、倫理観だけでなく、政府や、教育面でも刷新を引き起こします。

新しい宗教はたちまち広まり、多くの大変重要な仏教寺院が建設されました。そのうちの1つが、奈良の東大寺です。詳しく見てみましょう。

前回の動画を振り返りますと、豪族の長同士たちが戦い、最後には大和王権が支配を確立します。そこから、皇統を中心に据えた朝廷が設立されました。この支配は、神道の最高神であり、太陽を神格化した、天照大御神(あまてらすおおみかみ)の子孫であるという信奉によって正当化されます。

ヤマトの王に仕えた豪族たちは、戦士でもあり、この戦争の間じゅう、その地位が世襲化されていました。大和朝廷の外側の地方は分割され、このような、豪族たちによって監督されます。

彼らは、いくぶん自律的に支配し、そこから収入の大部分を確保していました。天皇家はしくみの上では朝廷の中心でしたが、当時は比較的貧しく、権力はなかったのです。

よって、朝廷はより権力を強固にするため、この仕組みを再構築する必要がありました。この時代は、中国文化の受容が加速し、彼らは、中国の皇帝の支配体制を、新しい統治のモデルとみなしたのです。

618年、唐王朝が中国に打ち立てられると、繁栄を極めた300年にわたる大帝国の幕開けとなります。その首都・長安は、アジアのハブであり、地中海におけるローマと並ぶ地位がありました。シルクロードの通行によって、近隣諸国の影響や、さまざまな異なる文化の人々が首都へと集まり、紀元1,000年の間、ほかに例を見ないような文化の一大中心地になっていました。

日本は、唐を高く評価しただけでなく、中国の行政機構や、官僚機構、医薬、風水、儒教、そして漢字などにも興味を示しました。活発な中国との交流は、政治的なものだけではなく、教育的、倫理的な改革を促します。このなかには、儒教の原則に基づいた、日本における最初の憲法の設定も含まれています。

建築術、金属鋳造などにおける新しい技術は、より洗練された建築と彫刻のための重要な知識となりました。とりわけ、文字や素材に関する新しい技術と考え方によって、描画や装飾術、音楽、文学、書道、詩が発達しました。

聖徳太子たちの改革

中国の統治制度は、皇帝を中央に据えた役人たちの官僚制度でした。地方は州県に分かれ、官僚が任命した役人によって監督され、役人たちは中央の決定に従い、任命されたり召喚されていました。よって、権力は中央に留まりながらも、地方から集められた収入は、皇室の財源になったのです。

最初の段階から、大規模な改革に移行するまで、およそ1世紀近くかかりました。主な改革者の2人は、蘇我馬子と厩戸皇子、後者は、一般的には聖徳太子として知られた皇族の王子です。

蘇我氏は、5世紀の韓国の貴族の末裔であり(注:武内宿禰が祖とする説もあり、諸説ある)、野心に満ち皇室の寵愛を受けていましたが、朝廷では世襲的な地位を得られませんでした。それゆえ、彼は、古い統治制度を廃止し、官僚を自ら任命しようとしたのです。

587年に朝廷の守り役でもあった聖徳太子と蘇我氏は、改革に反対する人々との交戦を開始します。しかしながら、朝廷の地方統治の再構築が行われたのは、645年の大化の改新になってからです。

中国の型を日本が受け入れるようになると、豪族たちは近くに集まって生活するようになりました。彼らは、地方の拠点に留まるよりも、宮廷の皇帝に仕えねばなりませんでした。

また、この改革は、天皇の権力を中心に置き、そして国土を国有化することを目的としたものでした(注:公地公民制)。新たな租税が開始され、中央政府に流れこみました。官僚制のもと働いた役人は、豪族の一族の出身で、朝廷に近い大学寮で修養を積みました。そこでは、儒教や漢籍の古典と中国語が教えられていました。

中国の首都・長安をモデルに都が作られる

しかしながら、794年平安時代の初頭になるまで、日本が統治されていく間の改変は、完成されることはありませんでした。朝廷の周辺のことに触れながら、そこが実際にどのような場所にあったのか詳しく見てみましょう。

首都は飛鳥時代と奈良時代にわたって2回移動しました。朝廷のための、常置の新しい都が求められ、中国の首都である長安がモデルなりました。

最初の試みは、694年に飛鳥の村に造営された藤原京です。碁盤目の平面プランを持ち、宮城はその中心部に配置され、土で作られた塀に囲まれていました。南の中央の門を進むと、広大な中庭につながり、その奥に巨大な講堂、北の部分には天皇の住居がありました。

都には、その前に創建されていた、いくつかの仏教寺院も点在していて、そのうちの1つが、588年に最初に仏教寺院として完成した飛鳥寺です。

都はそこまで長い期間に使われることなく、たった16年で放棄されました。人口が増加したため移動が進められたと推定する人もいます。ほとんど前と同じプランで、北へ13マイルの場所に、平城京が移動されました。平城の時代として知られるこの時代は、現在は奈良時代と呼ばれています。

都を分割する道は広くなり、藤原京よりも空間がとられていて、囲われた宮城は中央北部に配置され、これは長安の皇帝の宮廷に対応するようになっています。

神道と仏教の寺院は、新たな都に再建されました。外京は、都と外側の丘のふもとに建設され、その東部分に再建された飛鳥寺を収容しました(注:現在の元興寺)。

この宮都は藤原京よりも長く続き、84年間、首都機能を果たしました。次に都を移動した原因は、多大な影響力を持つ主要寺院と、天皇の所在地との間に、距離を置きかったためであると、しばしば言及されています。

仏教の伝来と仏教文化の受容

インドを起源とする仏教は、シルクロード経由で起源1世紀あるいは2世紀に中国に広まりました。中国の歴史記録によれば、仏教は、467年古墳時代の日本に伝わりました。しかしながら、公式な仏教の導入は、552年であると『日本書記』の記録が示しています。

5世紀には、仏教が中国で国教となって久しく、これにならい、いくつかの朝鮮の王朝も公式に受容し始めました。韓国の大使たちは、日本の朝廷への仏教導入に失敗すると、蘇我馬子と聖徳太子の興味を引こうとしました。この2人は、政治の変革のために戦ったということは覚えていますよね?

彼らが統治を掌握すると、仏教は決定的な後ろ盾を得ることになります。導入には時間がかかりましたが、次第に仏教は主要なものとなり、ついに国の支配のための道具として公式な支援を受けます。それに応じてより多額の出費がなされ、巨大で手の込んだ仏教寺院が次の世紀の間に建設されるのです。

聖徳太子は、このような寺院造営のスポンサーとなり、法隆寺を含む、飛鳥の地の多くの寺院建設を指示しました。

朝廷の支援を得て多額の出費が、仏教にまつわる複合的な事柄に投じられたことは、仏教建築や彫刻、絵画の豊かな伝統をもたらしました。中国や韓国から来た、熟練の技術を持った職人たちや装飾師たちは、日本で寺院や彫刻を建造するだけでなく、その技術や美学を地元も職人たちに教えたのです。

奈良の法隆寺は、7世紀に建設され、今日現存するもっとも初期の寺院建築の例です。その構内の伽藍配置は、金堂(金の講堂の意味)と呼ばれる本堂や、五重塔などが含まれています。金堂には、数多くの重要な彫刻と宝物が堂内に保管されています。

止利仏師の飛鳥大仏

止利仏師(鞍作止利)は、北魏様式に影響を受け、止利式と呼ばれる流派を形成しました。2つの現存する彫刻、7世紀初頭に制作された飛鳥寺の飛鳥大仏と、法隆寺金堂の本尊である釈迦三尊像が、止利仏師の手によるものと同定されています。この2つの作品は何度も修復されていますが、本来の特長がよく保たれています。

飛鳥寺の飛鳥大仏は、上半身を起こし、足を交差していて、右手を挙げ「施無畏印(せむいいん)」を作っています。この手のジェスチャーは、サンスクリット語でアミュター・ムドラーと呼ばれ、恐れから逃れ、自由と静穏を授ける仏陀の力を象徴しています。

左手は下げられ、手のひらを上に向けていて、これは「与願印(よがんいん)」といい、願いを与えることを意味し、仏陀の教えは苦しみから救済される真の道のりであることを約束しています。彼の衣服の襞は、鋭利な輪郭を持ち、定型的に折り重なっています。

飛鳥大仏の頭部は、最低限の修復が施され、顔は縦長で筒形であり、顔貌は幾何学的、直線的に強く表現され、鼻と目は鋭い輪郭を持っています。頭髪は、巻貝状に巻かれた螺髪という形で表現され、これは仏陀が完璧な存在であることの、身体的な象徴でもあります。

このような象徴は、まとめて相好(そうごう)と呼ばれています。ほかの2つの相好は、鼻筋の上の円、頭の上の冠状の突起であり、この突起は一般的な男性にはありませんが、彼の偉大な知恵と洞察を象徴しています。止利式のほかの作品のなかには、法隆寺夢殿にある救世観音があります。

次第に写実的になっていく仏像

続く白鴎時代におけるいくつかの重要な仏像は、以前から優勢であった中国の唐時代の影響を示しています。薬師寺金堂の仏像群(薬師三尊像)がその一例です。

唐時代の美術には、シルクロード経由でインドや中央アジアからの影響が顕著で、肉付けの立体感と写実性にその影響が見られます。飛鳥時代の仏像と比べ、より柔軟で繊細な動きをしていて、豊かに満ちた体躯が、堅固な止利様式と対照を成しています。

腰巻と上衣は、彼の身体に巻き付き、濡れた布のように、下にある身体の線を見せています。この長い衣は、長方形の台座から変則的に折り重なり、彼の左の腕は伸びていて、今は喪失している薬壺をもっています。

彼の右の手は上にあげられ、「来迎印(らいごういん)」のジェスチャーをしていて、彼の教えを説明しています(注:説法印の可能性もある)。

奈良時代の間じゅう、仏像は次第に写実性を増していきます。この時代大規模に行われたプロジェクトは東大寺の造営で、もっとも重要な、巨大な大仏の像が注文されました。東大寺に今日ある大仏は1692年に再建されたものです。

不空羂索観音は、奈良時代の印象深い描写です。金箔で覆われた乾漆造で、国中公麻呂(くにかのきみまろ)によって制作されたと推定されています(注:実際には作者不詳)。仏像の名前にある「不空」とは、決して空にならない能力のことで、「羂索」は手に持つ縄によって、あまねく人々を虚妄から啓蒙へと救い上げるという意味があります。

よく知られた観音菩薩は、後期になるとしばしば女性の姿で表徴されました。しかし初期の作品は男性で表現されたのです。その神性は、額の上部にあるもう1つの目と、8本の腕によってあらわされました。2つの腕は胸部の前にあり、祈りの動作をしていて、ほかの6本はそれぞれ具現のシンボルを持ちながら、背部から放射されています。

仏陀の知恵のシンボルである蓮の花(蓮華)と、杖(錫杖)と、そして縄(羂索)を持っています。8本の腕というのは、日本の仏教では、密教的なイメージでもあるのですが、それは次の世紀でより顕著になります。

観音の背後には金属の透かし彫りの光背が放射状に出ていて、この線は観音の体から発射される黄金の光を表し、銀製の冠の前の立っている阿弥陀仏が、この後顕現する姿を示しています。

写実主義から様式化された美学へ

東大寺の執金剛神像(しゅこんごうしんぞう)は、よ、8世紀の第2四半世紀に制作された自然主義的な様式のすばらしい例です。6フィートの高さの立像で、彩色塑造で制作され恐ろしい形相をした守護神であり、誇張された表情で、悪の精神を撃退しようとしています。

彼は鮮やかにはめ込まれた中国式の鎧を着せられていて、両足で立っているというのに、ポーズや流れる布による、動きの感覚が見事です。まるで彼の鎧が、優雅に揺り動かされているように見えます。見開かれた目と大きな首の静脈は、疑いなく彼の力を露わにしています。

奈良時代後期になると、エレガントな写実主義から、より渋く様式化された美学に移行したことがわかります。唐招提寺の廬舎那仏は10フィート(3メートル)の高さのある仏像であり、脱活乾漆像ででき、金箔で覆われています。豊かに肉付けされていますが、像は全体的に定式化されていて、顔はほとんど球状に湾曲しています。

外側に向かって薄く引きのばされた目と眉毛は、ほとんど頭髪の付け根に届きそうです。首は短くて厚く、体から膝へと横切るように変則的に落ちかかった、薄く繊細な衣襞と対照的です。

木製の光背は、何百という小さな化仏に覆われていて、彼らは悟りを開くのを待っている観音菩薩であり、時空を超えた仏陀の位置を強調しています。

奈良時代は、平安京へ遷都したことで終わりを迎えます。新しい都は、同様に中国の皇帝の都のプランに沿ってに建設されましたが、藤原京や平城京と違うのは、1868年に天皇が東京に移動するまで、天皇の首都であり続けたことです。