グローバル企業が注目する禅の世界

松山大耕氏(以下、松山):みなさん、こんばんは。ただいまご紹介いただきました、妙心寺退蔵院、副住職の松山と申します。

最近ビジネス関係の講演会を依頼されることがけっこう多くて、昨日はある外資系金融会社のグローバルミーティングがありまして、海外のゲスト向けに1時間講演ということで、八芳園さんでさせていただきました。

そういう金融ビジネス系のところが多いんですけれども。そういう流れになってきたのは、おそらくスティーブ・ジョブズさんの影響じゃないかなとも思います。

例えば、最近はGoogleの本社でメディテーション、もしくはマインドフルネスといったものを取り入れて、実際のビジネスに活かそうという動きも出てるみたいです。

後ほどそういったお話も含めながら、みなさんに禅を取り巻く世界がどうグローバリゼーションと関わっているのかというお話をさせていただければと思います。

まず、禅の話をする前に、禅はもちろん仏教の一部でございます。

実は私は、妙心寺の塔頭(たっちゅう)に生まれまして、今35歳でございますが、お寺の子供に生まれながら、中学校・高校はカトリックの学校に行ってたんですね。ですから、その当時から仏教を客観的に見る機会がありました。

仏教とはなんぞや? 多神教と一神教の違い

まず、仏教はなんぞやというところから、簡単にお話させていただきたいと思います。

仏教をはじめとする多神教。それからイスラム教・キリスト教・ユダヤ教、そういう一神教。この大きな違いについて、まずお話ししたいと思います。

一神教の場合は、もう本当に「全能の神」という方がいらっしゃるわけですよね。Supernaturalです。人間の人智が及ばない、そういう存在がいます。

そこから人間に、預言者という仲介役を通して、もしくは直接的にキリストのように神の子として降りてきて、いろんな奇跡を起こしたりするわけですけれども。

ですから、一神教の場合はそういう「全能の神」という存在があるわけですね。しかし、仏教は、全能の神というのはとくにございません。仏陀は人間であります。仏教の特徴は、実は非常にサイエンスと近いんじゃないかなと私は思っています。

例えば、ニュートンがりんごが落ちるのを見て、万有引力の法則を思いついたわけですね。しかし、別にこれはニュートンが発見しようが、私が発見しようが、みなさんが発見しようがいいわけです。

そこに万有引力の法則があって、それをただ単にニュートンが最初に発見したということだと思うんですけれども。仏教もそれにけっこう似てるんですね。つまり、悟りというのは、誰しもがやる気があれば体験できると。

仏陀の前にもおそらくそういう体験をした人もいるだろうし、その後にも体験した人がいますし。仏陀がそれを「私、悟りました」と言ったのが大事なところなんですね。

ですから私たちは、本当の仏教の初期仏教で言いますと、とくに奇跡を信じるとか、そういうことはまったくありません。その仏陀の悟り、その真理、そこが最も大事だとされています。

ですから、神様のお力によって悟るんじゃなくて、自分の力で発見する、悟ると。そこが、この仏教とほかの一神教との大きな違いだと思います。

禅と正反対の特徴をもつユダヤ教

これから禅の話をしていこうと思います。これは私の個人的な意見ですけれども、「この禅と正反対の宗教ってなにかな?」と考えたことがあったんですね。禅と正反対の宗教は、私なりの解釈で言うと、ユダヤ教だと思っています。

不思議なことに、それこそスティーブ・ジョブズもそうだし、最近ですとラリー・エリソンさんとか、マイケル・ムーアさんとか、そういうユダヤに関係のある、もしくはもともとユダヤ人だったユダヤ系の方がたくさん来られてます。

最近は海外の方がたくさん日本にも来られてます。京都にももちろんたくさんいらっしゃってます。「どこの人種の人が多いんかな?」と思ったところ、禅を勉強する人はやっぱりユダヤ人なんですよね。

静岡の三島に龍沢寺というお寺があるんです。これは修行道場ですが、その前老師様は、実はイスラエルにいらっしゃったんですね。そこの道場に来るのはイスラエル人、ユダヤ人が一番多いと。

これはなぜかと思ったときに、いい例かわかりませんけれども、実は右翼と左翼は話がよくわかるというのと一緒で、考え方がまったく正反対だと、お互いに言ってることがよくわかるんじゃないかと思うんです。

このユダヤ教の特徴というのは、例えば、みなさんに想像していただきたいんですけれども。みなさんは今、ここ日本に住んでいらっしゃいます。東京に住んでいらっしゃいます。

仮にみなさんがニューヨークやパリに移住したとします。そして、お子さんをもうける、お孫さんをもうける。だんだん家族が増えていきますね。

みなさん自身は、日本で生まれ育ったので、「日本人である」というアイデンティティがあると思います。

しかし、そのお子さん、もしくはお孫さん、もしくはその次の世代、ずっと未来永劫、この「日本人である」というアイデンティティを保つ……これはものすごく難しいと思いませんか? ある種不可能なことやと思うんです。

しかし、ユダヤ教はそれをずっとやってるんですよね。今まで国がなかった、そしていろんな迫害を受けた。しかし、昔からずっとこのユダヤ人は「ユダヤ人」であり続けてるわけです。これはすごいと思いませんか?

その理由は、やはりこのユダヤ人の「立法主義」なわけですね。例えば、私たちにわかりやすい例えで言うと、日本人ですから、お盆にはちゃんとお仏壇に手を合わせて、お膳を作りましょうとか。

もしくは、夏はスイカ割りをしましょうとか。線香花火をせなあかんとか。本当にこと細かい生活の微に入り細に入り、そういうところまで規則・ルールで縛るわけですね。

そして、それを守ってさえいれば、2,000年前であろうが現代であろうが、日本であろうがアメリカであろうがヨーロッパであろうが、ユダヤ人であり続けることができるわけです。

ですから、ユダヤ人というのは立法主義。ルールで縛っていくと。これがユダヤ教の特徴です。

ユダヤ教は文化系、禅は体育会系

じゃあ、この禅はどういうものかというと、例えばユダヤ教を文化系とするならば、禅は完全に体育会系なんですね。

どういうことかというと、禅の特徴は実践・体験であります。例えば、今ここにあるこれがオレンジジュースだったとします。

みなさんの前でこうやって飲みます。それで、味を説明します。甘いと。ちょっと酸っぱい。おいしい。まあいろいろ説明しますね。

しかし、私がどれだけ上手にこの味をみなさんに説明したとしても、みなさんはその味は飲まないかぎりは、絶対にわからないですよね。それが禅の一番大事なところなんですね。

つまり、お釈迦様が一生懸命苦行を積んで悟られたと。それで悟りを開いた老師様の話を聞くと、「違う世界が見えるぞ」とか。本で読んでも、「素晴らしい」とかいろいろ書いてあるんですが。いくら話を聞いても、本で読んでも、悟りがどれだけすごいのかわからないんですよね。

ですから、私たちはお釈迦様がされた修行と同じように苦行を積んで、そして全部はわからないにしても、自分たちでそれがどういうことだったのかというのを追体験していこうと。

ですからそういった意味では、2,500年前であろうが、現代であろうが、1,000年前であろうが、アメリカであろうが、日本であろうが、インドであろうが、同じことを追体験すれば、仏陀の悟りの追体験を自分でもできる可能性があると。そういった意味で、この体験を通するユニバーサルだということですね。

ですから、ユダヤ教はルールによって縛る、その普遍性があります。そしてこの禅は、体験によって真理をつかんでいこうという普遍性があります。

ですから、このアプローチの仕方がまったく違うわけですね。だからこそ、ユダヤ教の人は、この禅の教えに非常に興味を持っていらっしゃるんじゃないかなと思っています。

禅は体験・実践が最も大事

よく「禅とはなんですか?」という話を質問されます。この禅の世界は、なかなかひと言で説明しろというのは難しいんですけれども。禅にもいろんな側面があります。

もちろん宗教的な面でいいますと、禅というのは「心の名である」と言われます。要は、本当のありのままの姿というか、そういったものを「禅」という言葉で表現します。

その禅の哲学というか、スタイルの面で言いますと、まさにこの「禅」という漢字そのものなんですね。これは武田双雲さんの字ですけれども。

この左側、これは「しめすへん」ですね。そして右側、これは単純の「単」と書いてあります。つまり、禅を端的に言うと「シンプルであることを示す」と。これが禅のスタイルであります。

実際、これからみなさんにこの禅の文化、そして禅が生み出してきたもの、影響を与えたものを例にご紹介していきたいと思います。

先ほど申しましたように、禅というのは体験・実践が最も大事なことです。ですから、禅の修行は、もうこれがなかったら禅とはまったく呼べないというのが、この禅の最も大事なところです。

毎日3時間睡眠、プライバシーゼロの過酷な修行

じゃあ、どういう修行をしているのかと。みなさんがもし禅僧になりたいなと思ったら、修行道場で3年以上修行するわけですけれども。

どんな修行をしてるかというと、まず毎朝3時に起きます。1時間お経を読む。それから2時間坐禅ですね。明るくなってからは、畑を耕したり、薪を割ったり、草を刈ったりと。今でもごはんは薪で炊いてますから、そういう作業が必要なんですね。

そして、また夕方6時ぐらいから消灯の9時まで坐禅するんですが、そこでまだ寝れるわけじゃないんですね。

そこから自分の座布団を持ちだして、本堂の縁側まで行って、そこで居残り坐禅をして、だいたいこの1年目で寝れるのは12時と。それで翌朝3時起きですから、毎日3時間睡眠でございます。

それをずっと3年間以上やっていくと。非常に厳しい修行ですけれども、そのなかでも一番厳しいのは、ちょうど来月になりますが、12月8日。明けの明星、金星がピカッと光ってるのをご覧になって、お釈迦様がお悟りを開かれました。

その因縁にあやかって、私たちも修行道場では毎年12月1日〜12月8日、この1週間を1日とみなして、その間ひたすら一睡もせずに坐禅します。ご飯を食べるときでもひたすら坐禅ですね。1週間寝れません。

もちろん私たちも人間です。眠くなります。しかし、寝ていては意味がありません。お悟りに近づけませんので、そういった際には警策という棒で叩かれるわけです。

極限状態ですから、中途半端に叩いても起きません。ですから、そのときはフルスイングで叩きます。

私の後輩でよく寝るやつがいたんですが、だいたい1週間で4,000発ぐらい叩かれました。あの棒が100本ぐらい折れるんですね。それぐらい厳しい修行をやっております。これ(スライド左)が托鉢(たくはつ)の様子ですね。街なかを乞食(こつじき)修行するわけです。

そしてこれ(スライド右)が禅堂、お堂の中の様子ですけれども。「座って半畳、寝て一畳」という言葉があります。自分のプライベートスペースは、この畳一畳分だけです。そのなかで寝もし、坐禅もしということで、プライバシーはゼロであります。

私がおりました道場はけっこう人が多くて、24畳の部屋に20人寝泊まりしてました。ですから、そういう生活をやっていくと、どんだけ劣悪な環境でも寝れるという特技は得ることができました。こういった修行をずっと3年間以上やっていくわけです。

東洋の禅と西洋のカトリックの交流

ついでにもう1つ言っておくと、私は先ほど申しましたように、中学校・高校はカトリックの教育を受けております。

このカトリックと禅はけっこう関係が深くて。この30年近く、「東西霊性交流」というのをやってます。霊性というのはスピリット、それと性格の「性」です。その交流です。

これは、お互いに修行僧のエクスチェンジをするんですね。例えば今年、日本の禅の修行僧がヨーロッパの修道院に行って修行すると。次の年は、ヨーロッパのカトリックの修道院の僧が日本の禅寺に来て、修行道場で修行すると。こういった交流をやっております。

私も2年前でしょうか、ヨーロッパのある修道院に寄せていただいて、そこで3日ほど生活させてもらったんですけれども。修行のスタイルがぜんぜん違うんですね。

もちろん似てるところもあります。例えば、朝早い。それから、お祈りの時間がある。そして、食事は静かにいただくと。まあ、ここまでは一緒なんですけれども。

そのあと修道院では、みなさんお祈りの時間を重視される。それから勉強しはるんですね。一生懸命聖書の勉強をする。福音書の勉強をする。そういう時間にあてられます。

しかし、日本の修行道場では、勉強の時間ゼロであります。ひたすら掃除ですね。向こうの方に「なぜそんな掃除をするのか」「なぜこの掃除が修行に関係あるのか」と言われたんですが、そこが私たち、実践を重んじるところなんですね。実際の生活において真理を見出していくと。そこが禅の特徴であります。

龍安寺の石庭に隠されたメッセージ

禅の文化ということで、これは龍安寺の石庭でございます。この龍安寺の石庭、みなさん行かれたことがある方もたくさんいらっしゃると思いますが、これはただ単に「美しい」だけじゃないんですね。

この石庭はだいたい350年ほど前に作られた石庭ですけれども、やはりそれだけ長く愛されるというのは理由があるんですね。

今年は2回バルセロナに行きました。サグラダファミリアに行ってきまして、そこの主任彫刻師で外尾悦郎さんという方がいらっしゃいます。大変素晴らしい方です。

その方といろんなお話をしてるなかで、「長く続くものには理由がある」とおっしゃったんですね。

この石庭もただ単に「綺麗やな」じゃ、350年も残らないんですよ。まず美しいのは必須です。そして、実は教えがある。そして機能的なんですね。

龍安寺に行かれた方の記憶にあるかわかりませんが、実はこの石庭のなかには石が15個置いてあります。

それで縁側から見るんですけれども、どこに行っても15個全部見れないんですね。必ず1〜2個見れないんです。13〜14個しか見えないんです。

本当に不思議な庭なんですが、ここにはいろいろ解釈があって。この「15」というのは、実は昔から完全を表す数字だと言われています。例えば七五三、全部足したら15になりますね。あと十五夜とか。いろんなところに15とあるんですけれども。

ですから、どこに行っても15個全部見えないと。つまり人間、いついかなる場合にあっても完全にはなりえないぞとか。

もしくは、同じ庭を見ていても、見る場所によって見える石が違う。つまり同じものを見ていても、自分の見方だけが正しいと思うなとか。そういうメッセージがバーンと入ってるわけですよね。そしてもう1点、これは本堂がこの右側にあるんですけれども。今はこうやって夜中でも電気がありますけれども、昔は電気がありませんでした。

ですから、本堂の周りに白い砂を敷いておくと、お部屋の中が明るくなるんですよね。ですから、明かり取りの役割があります。

ですから、こういった長く愛されるものは非常にリーズナブルなんですね。理由があると。それが、例えばこの石庭ですけれども。大事なところというか、長く愛される秘訣だと思います。

宗教家とサイエンティストの学び合い

私は現在、政府観光庁の「VISIT JAPAN大使」というお役目をいただいていたり。今年はダボス会議に行かせていただいたり。

海外に行って禅の教えを伝える、もしくは講演をする、ワークショップをする、そういった機会がたくさんございます。

このダボスでは政治経済だけではなくて、トップサイエンティストもいらっしゃっています。これはご存知の方もいらっしゃると思いますが、MITメディア・ラボの所長・伊藤穰一先生ですね。Joiさんです。

Joiさんはダボスの前に1回だけお会いしていて、一緒にトークセションもさせていただいたこともあるんですが。私たち宗教家にとって、これからの一番の課題は、もっとサイエンスと近づくべきだと思っています。

この4月に、京都であるシンポジウムを開催いたしました。これはダライ・ラマさんが来られて、クローズドで、75名のトップサイエンティストと、75名の宗教家が集まって、心を科学するというシンポジウムやったんですね。

これは非常に意欲的な取り組みでした。私たち宗教家も、心を科学する、もしくはサイエンスを勉強する。それで、サイエンティストも宗教、心を勉強するというのは、今非常に重要な課題になっています。

私も学会で初めて知ったんですが、今最新の数学もしくは物理学では心が最もホットなトピックなんだそうです。物理と数学なんか心の入り込む余地なんかないだろうと思ったんですが、実は物理・数学のような分野でも心というのは、今最も大事だと言われています。

その物理学の先生がおっしゃっていたのは、例えば、私たちは今、モノが見えますよね。これは可視光線だから見えるわけですね。紫外線は見えません。赤外線は見えません。私たちの能力はものすごく限られていると。

光の特徴は、波の特徴もあれば粒子の特徴もありますね。そんなことは常識的には考えられないけれども、実際に光はそういう特徴があると。

私たちが常識では考えられないと思ってるのは、実は自分たちの能力に限界があるからだと。物理にしても数学にしても、自分たちの限られた能力のなかでしか事象を研究できない、観察できない。

だから、まずは自分たちの能力がどれほどのものなのかと。どれぐらいしかわからないのかという、自分たちをわからないかぎりは、本当に客観的な分析はできないとおっしゃるんですね。

ですから自分自身、心をおいて研究というのはできないと。ですから、本当に客観的な学問だと思われていた数学もしくは物理、こういった分野でも、心は今や本当に大事なトピックになってます。

「無意識の意識」を得るための修行

私が伊藤穰一先生とお会いして、非常に印象的というか勉強になったのは、さっきの修行の話で1週間寝ないで坐禅すると言いましたけれども、私は3年半やりましたので、この修業を3回体験しております。はっきり言って死にかけるんですよね。1週間寝ないと極限状態です。

それで3回目の修行が終わったあとに、老師様に聞いたんですね。「なんのためにこんなことやるんですか?」「なんの意味があるんでしょう?」と。

そしたら老師様は、「2つ意味がある」とおっしゃいました。1つ目が、さっき言ったように、「同じ体験をしないとその気持ちがわからない」「だから仏陀と同じことをやるんだ」と。ですから、体験が大事なんだというのが1つ目の理由ですね。

もう1つの理由は、「無意識の意識」だと言われたんですね。無意識の意識。これは例えば、私がここでご飯を食べますよね。ご飯の食べ方が汚かったら、「お前、ご飯の食べ方汚いぞ」と言われますね。そしたら直せますね。姿勢が悪かったら、「お前、姿勢悪いぞ」と言われたら直せますね。意識のレベルで直してるわけです。

しかし、この老師様がおっしゃるには、「人間を本当の無意識のレベルから正していかなきゃいけない。そのためにこの修業をやってるんだ」とおっしゃったんですね。

私はそれを聞いたときに、正直言いまして「は~ん?」としか思いませんでした。それが伊藤先生とお話をして、「あ、そういうことをおっしゃりたかったのか」とハッとひらめいたわけです。

テニス錦織圭選手らトップアスリートの精神状態

どういう話だったかというと、MITでも、「無意識の意識」というのは今最もホットトピックの1つだそうです。ある実験の話をしてくださいました。

私は日本人、男性、35歳ですね。ある文章をレコーダーで録音します。同じく日本人、35歳、男性100人に同じ文章を録音してもらいます。あとでその録音された声を聞いて、それが果たして自分の声なのか、人の声なのかを判断すると。

もちろん自分の声を自分の声、人の声を人の声と判断できる場合もあるんですけれども。けっこうな割合で、人の声なのに「自分の声だ」と言ったり、自分の声なのに「人の声だ」と言ったりするんですね。ですから、自分たちの記憶はいまいちあてにならへんということです。

しかし同時に、手の甲にある特殊なセンサーを付けて、その皮膚の反応を調べるんですね。そうすると、自分の声を聞いたときと人の声を聞いたときと100パーセント正しく判断してるんです。

つまり意識のレベルでは間違ってるのに、無意識のレベルだと完全に正しく判断できてるということなんです。老師様がおっしゃりたかったのは、おそらくそういうことなんだと思ったんですね。

私たちが自分で意識できてると思っているのは、自分たちの能力のうちの、氷山の例えでいうと、上に上がってるのは5パーセントしかないそうです。95パーセントは無意識の世界です。

人間が本当にその極限までいくと、この無意識のレベルというのがガッと下がるわけですね。5パーセントじゃなくてもっと下がってくるわけです。

ですから、そういうところから人間の本質を変えていかないと、上の部分まで変わらないんだと、こういうことをおっしゃりたかったのだと思うんですね。

例えば今、テニスの錦織(圭)選手、非常に活躍されてますね。テニスのトッププレイヤーのサーブは200キロ以上出ますから、打ってから反応したんじゃ絶対取れません。

でもこの間、アメリカの全米の決勝にいく前のインタビューで、彼はサーブの来る場所がだいたいわかると言ってました。

それは、本当に精神のトップレベルまでいくと、第六感でわかるようになってくるんですよね。直感が働いてくるようになると思うんです。

ですから、この禅というのは、別に禅の修行をしなきゃそこのレベルまでいかないかというとそうじゃなくて。例えば、本当のトップアスリートとか、それから命をかけてやってる闘牛士とか、そういう人たちは完全の禅の心理状態までいってると思います。

そういうところまでいくと、今まで感じ得れなかったこと、成し得なかったことができるようになると。そこをおっしゃったんだと思うんですね。

それをダボスで伊藤先生と話をして、「ああ、そういうことだったのか」と自分で合点がいったわけです。

「英語・海外経験=グローバル」ではない

私はグローバルというのは、別に英語がしゃべれるわけでもなければ、海外の留学経験でもなければ、勤務経験でもないと思うんですね。

例えば、当然のことですけれども、イギリス人・オーストラリア人・アメリカ人は全員英語がしゃべれますね。じゃあ、彼ら全員グローバルなのか? 違いますね。

もしくは、アメリカなんかは国土が広いから、別に国のなかでロッキー山脈でスキーも行けるし、フロリダで青い海のビーチで泳ぐこともできます。ですから、国民の20パーセントしかパスポートを持っていません。

じゃあ、彼らはグローバルなのかと。やっぱり違うと思うんですね。私は日本人のほうがよっぽどグローバルだと思います。

グローバルとはなにかというと、昔のものとか、今のものとか、新しい技術とか関係なく、いいものをいいと、直感的に本質を見抜く力、これに尽きると思うんですね。

数年前になりますが、兵庫県の尼崎という町のコミュニティFMがあるんですね。そこで非常に画期的な番組が開始されました。今でもやられてます。

それがこれを見てください。これは番組のタイトルが『8時だヨ! 神仏集合』といいます。ちょっとお叱りが入って、今は「神仏集合」はまずいということで、『8時だヨ! 神さま仏さま』になってますが、内容は一緒です。

これはどういうプログラムかというと、神社の神主さん、お寺のお坊さん、キリスト教の牧師さんですね。その3人がリスナーのお悩み相談を受けるという番組なんですね。

ある宗教の宗教家がお悩み相談を受ける。これはありうることだと思います。しかし、ぜんぜんバラバラの宗教家が1つのところに集まって、1人の相談事を受ける。これはものすごい画期的なことやと思います。

リスナーからしてみれば、ある特定の考え方だけじゃなくて、いろんな解決方法があるんかと。非常に安心感が得られると思うんですね。

世界中が関心をもつ日本の宗教

そしてもう1つ、私は2月に京都で画期的なイベントを開催しましたが、これが「宗教者駅伝」です。駅伝というのは実は京都で始まってます。今から100年ほど前です。

この駅伝は、世界中からキリスト教、イスラム教、ヒンズー教、仏教、それから神道、それから天理教さんとか、そういう新興宗教が入ってますけれども。宗教家だけが集まって、宗教家だけで1つのタスキをつなぐ駅伝を開催したんですね。

これは宗教対抗ではありません。例えば、第1走者がキリスト教の神父さん、第2走者が仏教のお坊さん、第3走者がイスラム教のイマーム、そして最終のランナーが神主さんとか。本当に宗教がバラバラで1つのタスキをつなぐと。こういう駅伝を開催しております。

これは非常に画期的ではあるんですけれども。今の世の中、別に仏教だけじゃなくて、日本だけじゃなくて、キリスト教も仏教も、実はイスラム教も共通する課題があります。それは「無関心」ということです。

宗教家のトップの間では、お互いに争ってる場合ではないと。お互いにもっと理解して、宗教の融和を図らなきゃいけないという、この動きがここ5年ぐらいでものすごく高まってます。そのうちの1つがこの動きなんですね。

これは日本だけじゃなくて、これはヨーロッパのルクセンブルクでも同じコンセプトの駅伝が開催されて、この駅伝を通じて、世界で宗教融和の動きが高まりつつあります。

私は、この寛容性のある宗教観、みなさんもおそらく来月はクリスマスをお祝いして、そして除夜の鐘を聞きにお寺に行って、初詣に神社に行くと思います。なんて節操のないと言われるかもしれませんが、私はものすごく素晴らしいことだと思います。

日本では、宗教が違うからといって争いとか揉めごとは一切起こりません。これは世界で見れば奇跡的なことです。日本人はもっとそれに誇りをもつべきだと思うんですね。

世界のみなさんは、日本人が持ってるこの宗教観に非常に期待されてます。

ですから、私は真剣に、これからの世界では日本の宗教界がリーダーシップを取れるんじゃないかなと思っております。

今、この禅とグローバリゼーションということで、みなさんにご紹介してまいりましたけれども。まずはみなさんが身近な仏教もしくは日本の宗教に触れていただいて。そして、そこに自信をもって世界にぜひお伝えいただければと思います。

これで私の講演を終わらせていただきます。どうもありがとうございました。