欧州サッカー、放映権ビジネスの最前線に飛び込んだ日本人

玉乃淳氏(以下、玉乃):チャンピオンズリーグ決勝戦の際は、ありがとうございました。ミラノのホテルに設置された特別室にまで通していただいて。岡部さんがただの酔っ払いではないことに、初めて気づかされましたよ、あのとき(笑)。

岡部恭英氏(以下、岡部):まあ、確かにふだん会うときはけっこう酔っ払っているからね(笑)。

玉乃:それにしても渦中の岡部さん! 今回は本当に、よくぞこの取材を受けていただきました。テレビをはじめ、一連の放映権のニュースがらみでオファーが殺到しているとお聞きしています。そのうちのほとんどを断られているなか、我々の理念に共感していただき感謝しています。

岡部:まあ、タマジュンみたいな若いやつがどんどん海外に出て行かないと、とてもじゃないけれど日本は世界で勝てないと危惧しているからね。というわけで、今日はなんでも聞いてください。

玉乃:芸能人並のスケジュールの岡部さんを、ようやく捕まえることをできたので、根掘り葉掘り遠慮なく質問をぶつけていこうと思います。まずは、絶対コンプレックスとなっているのではないかと思われる幼少期のお話からお願いします(笑)。

岡部:中学時代は野球部で……野球がぜんぜんおもしろくなくて、高校行ったら帰宅部になって遊びまくってやろうと思っていたわけ。この頃、コタツに入ってサッカーの全国高校選手権を見ていたんだけれど、国見高校が初優勝したんだよね。

誰にでも人生を変えるようなエクスターナルファクター(外部要因)が必ずあると思うけれど、僕の場合はこれだった。素人の僕が見てもすごくおもしろいのよ、サッカー。

「よし、帰宅部やめて、サッカー部入ろう。国見高校倒そう。」って本気で考えて、いろいろ調べて、サッカーも勉強もそこそこの市立千葉高校に進学。だけれど、高校入ったら遊んじゃったわけ。おまけに、ぜんぜん勝てなくて。

大学時代は、生まれて初めて挫折というものを経験したよね。1つ上の尊敬する先輩が進学した慶應義塾に入学したんだけれど、こんどは遊ばず真面目にサッカーを。ただ、高校時代センターフォワードだった僕が、守りに転向して、ベストのときで背番号13で終わった。

サイドバックは好きじゃなくて、レギュラーになるためだけにやっていたのに、まったく試合にも出られなくてね。そのまま卒業。イヤなこと(守り)をイヤイヤやっていて、結局1回も試合には出られなかった。

その経験から、「人生は好きなことをやるのが一番だな」と痛烈に思ったわけ。慶應義塾體育會ソッカー部卒業だと、当時それなりの企業に入社できたんだけれど、「サラリーマンにはなりたくない」と思っていた。この経験が、タマジュンが言うコンプレックスというか、挫折かね。

髪・ロン毛・ピアスのプー太郎時代

玉乃:なるほど。すみません趣味が悪くて。成功者と言われる方々のコンプレックスやトラウマを探るのが好きでして(笑)。

多くの成功者が幼少期の挫折などを糧に頑張っているケースを見聞きしてきたものですから……。岡部さんにとっては、やりたくもないポジションを散々やらされた挙句、一度も公式戦に出られなかったことが、今の飛躍につながっているわけですね。

岡部:本当にその経験が今のモノの考え方の基盤になっているかな。そんななか、大学3年のときに初めてアメリカに行ったのね。アメリカワールドカップがあって。

慶應ソッカー部に慶應ニューヨーク校の出身の後輩(元FCバルセロナ、現日本サッカー協会の斎藤聡氏)がいて、東京から鎌倉に行く感覚で連れて行ってくれるわけ、東京からデトロイトに。

それで、デトロイトのブルームフィールドの湖岸にある彼の実家がすごいのよ。信じられないような大きな家で。それで湖をバックにその彼が白いピアノを弾きだしちゃって。それを見てたら完全にイッちゃったわけだよね(笑)。

もともと漠然と「アメリカに住みたい、普通のサラリーマンになりたくない」って思っていたんだけれど、これで完全に大阪生まれ東京千葉育ちのドメドメの僕が「どうしても」アメリカに行きたいという思いをいだいたんです。

玉乃:単純で可愛い動機ですね(笑)。

岡部:そのあと留学を目指したんだけれど、勉強もそれほどできなかったから、伝統ある慶應ソッカー部卒業生の中で、就職もしない、弁護士にもならない、会計士にもならない、大学院進学もしない、プロ選手にもならない、プー太郎になったわけですね。

僕の履歴書とか見るとけっこうエリートに見られがちだけれど、実はプー太郎時代が……金髪・ロン毛・ピアス・アクセサリージャラジャラ的な(笑)。

家庭教師のアルバイトや寿司のデリバリーとかもしたかな。アメリカに行くための英語の重要性はさすがに気付いていたから、六本木のクラブに行ったりして外人と話したり勉強していたわけ。だからお金も貯まらない。

玉乃:今後はちゃんとそれも経歴に書いて下さい。もっとファンが増えますよ。今公表されている履歴書だと近寄りがたい。ただのド天才なんだな、と思っちゃいますから(笑)。

ベトナム・シンガポールを経て、アメリカへ

岡部:ぜんぜん天才でもなんでもなくて、ことさら勉強に関しては落ちこぼれだったよ。でもね、そこでまたエクスターナルファクターがあったんだなあ。

暇つぶしのために観に行った早慶戦のスタンドで、先輩やら同期に会ったわけ。大企業に入社してやりたくもない仕事して疲弊して「自由でいいよな、羨ましい」なんて言ってくる連中もいたんだけれど、ネクタイしてバリバリ働いて輝いている先輩方もいてね。その中の1人がボソっと「岡部もこのままじゃ、ヤバいよね」と。

のちに某企業の有名社長になる男なんだけれどね。確かにこのままじゃヤバいなと思って、早慶戦の帰りに本屋に行って、とにかく雑誌をあさって、「海外就職特集」を手にしたんだよね。

それで初めての就職先はベトナム。アメリカに直接行くのは英語力的にも難しいとそのときは判断して、まずはアジアで経験を積もうと。そこで初めてビジネスを学んで。常に「アジア出発アメリカ終着」を意識していたかな。

その後、1年の時を経て、ベトナムからシンガポールへ。ベトナムの企業からシンガポールへの出張も多く、アジアのハブであるシンガポールは常に意識していたよね。よりグローバルな場所を求めてエレクトロニクス系の会社へ移籍(転職)したんだけれど、最初の面接から「僕は将来アメリカに行きたいから。ここはそのための通過点です」と生意気に発言していたね(笑)。

シンガポールでは半導体などの仕事などをさせてもらって、アメリカへ行くことになるわけ。「アメリカに行きたい」とずっと言い続けて4年。半導体やITのセールス、マーケティングをアジアでやった後に転勤で。

玉乃:完全にプロサッカー選手と同じマインドじゃないですか。個の力を高めて、目標地点に向かって移籍を繰り返す。ついに憧れの地、アメリカへ。

岡部:そう、アメリカの何が好きだったかというと、みんなそれぞれ好きなことをやっている多様性とそのパワーに惹かれたんだよね。それぞれが異質で。学生時代の当時、今でいう中国の上海や北京と似たようなエネルギーを感じてね。

国から国、分野から分野、都市から都市、会社から会社。すべてが、いろいろな所へ移るし、クロスオーバーすること自体がイノベーションなんだよね。異質がまじわることによって生まれるもの自体がね。人種も含めてね。

みんな「あなたはあなただけのスペシャルがある」「オンリーワンも持ちなさい」と教えられて育っているわけ。周りのことはまったく気にしない。オタクであろうと何だろうと関係ない。エネルギーに満ち溢れたものをアメリカに感じたわけですよね。ぜひ一度行ってみるといいよ。

玉乃:行かないとわかりませんよね、その感覚。

29歳、“夢の場所”アメリカで見た現実

岡部:それでね。いざ夢の場所、アメリカなんだけれどね。ベトナム、そしてシンガポールと渡り歩き、いざアメリカに辿り着くと、どこか物足りなさを感じる自分がいたわけ。

なんだかんだベトナムとシンガポールでグローバルな仕事をしてきているから物足りなくなっているんだよね。アメリカが、大学時代に感動した憧れのアメリカではなくなっていたんだよね。僕のモノの見方、考え方、信じ方が変わっていったんだろうね。

「何これ!? アメリカってインターナショナルと思っていたけれど、シンガポールのほうがぜんぜんグローバルじゃない!」って(笑)。

当時はアップル関係の仕事などもしていたから、周りからは「夢叶ったね、よかったね」とか言われていたんだけれど、「待てよ? アメリカで何がしたかったんだ?」って憧れの地で迷い始めたんだよね。きっとアメリカに「行く」ことだけが目的だったんだよね……そのとき29歳。

玉乃:アメリカは変わっていないけれど、岡部さんが劇的に成長して変わったのではないですか? 昔フられた女性に出世したあと会いに行ったら、実はもう大して好きじゃなかった……みたいな感覚ですかね?

岡部:それはわからないけれど、まあでも今思い返すと本当に飛び込みの人生だよね。ベトナムもシンガポールも飛び込みで面接をお願いして採用してもらって、最後アメリカまで辿り着いているから。

玉乃:そういう選択肢ってあるのですね。海外で勤務する方って、日本の企業に就職して日本で何年か働いてから、その後駐在員として海外に出られるものかと思っていました。

岡部:島国の日本ぐらいじゃないかな、日本に生まれたら日本で働くっていう選択肢しか頭にないのは。おもしろそうな仕事を見つけるのであれば、選択肢が多いほうがよいじゃない! グローバルな視野をもっていたら、僕のとった行動は、当たり前なんだろうね。

結局、英語ができればどこにでも行かれるんだよね。だから英語は学んで!! 選択肢が無限に広がるから。

スポーツマーケティングビジネスへの入り口

玉乃:今でこそ、アジア人の唯一の席を射止め、世界中の人が夢見るチャンピオンズリーグの放映権とスポンサーシップに携わっていて注目されていますけれど、ベトナムやシンガポール、アメリカでの5年間のいわゆる修行経験がそうさせていたことが妙に腑に落ちます。

岡部:すべての経験が最高だよ! すべての場所が最高だった。すべてが僕のベースを作ってくれたことに間違いはない。

話を戻すと、せっかく夢のアメリカに行ったのに迷ってしまったわけじゃない。そこでまたエクスターナルファクターがあったんだよ。2002年の日韓共同開催のワールドカップ! アジアとアメリカ時代の友達と一緒に日本にワールドカップ観に行ったんだけれど、もう最高だったよね。

海外の友達が楽しそうに日本の人たちとコミュニケーションとるわけ。国際交流が一瞬で加速するこのワールドカップってすごいなあと思った。経済効果も数兆円でしょ。素晴らし過ぎると。もし、もう一度日本でワールドカップが開かれたら最高だなと思ったんだよね。

実はそれが今の僕の目標だし、あのときの思いが今の僕のサッカービジネスの始まりになったわけ。

玉乃:おー! 点と点がつながり始めている! ちなみにベトナムやシンガポール時代はサッカーへの思いは皆無だったのですか?

岡部:二度と見たくないと思っていた。大学時代試合に出られなくて挫折しているからね。でもね。ベトナムでもサッカーが持つ力ってすごいんだよね。国営放送で流れるととにかく国全体が盛り上がる。やっぱりサッカーって、英語と一緒で最高のグローバルツールなんだよね。そして、二度と見たくないと思っていたサッカーが実は常に僕の身近にあった。

アメリカ時代に、スポーツマーケティングで生計をたてられるというのを初めて身近で見たので、ワールドカップのときのあの感動とリンクしたんだよね、国際交流とサッカー、スポーツマーケティング。

玉乃:スティーブ・ジョブスならぬ、スティーブ岡部ですね。点と点がいよいよつながったわけですね。

岡部:スティーブじゃなくて、ヤス岡部なんだけれど……まあいいや。それで、日本にもう一度ワールドカップをもってきたいと完全にスイッチが入った。「僕はワールドカップでプレーもできないし、監督もできないけれども、違う形で関われる!」アメリカでの経験から「肌」でわかったんだよね。

玉乃:いよいよここから「TEAM MARKETING AG」へ入社するまでの軌跡が語られるわけですね。初公開ですかね。

【岡部恭英(おかべ やすひで)プロフィール】 1972年生まれ。慶應義塾大学卒業後、東南アジア、米国で商社勤務を経て、ケンブリッジ大学でMBA取得。 2006年TEAM Marketing AGに入社し、UEFAチャンピオンズリーグの放映権販売などを手掛ける。アジア・パシフィック&中東・北アフリカ地区統括営業責任者。UEFAチャンピオンズリーグにかかわる初のアジア人として、放映権ビジネスで沸くスポーツビジネス業界で一躍「時の人」となっている。