戦力外通告を乗り越えて社長になった元Jリーガー

玉乃淳氏(以下、玉乃):薮崎さんはメディアにけっこう露出されているので、Web上の情報は見てきたんですが、事前にとくに質問の内容を考えてきたわけでなく、この場で考えてインタビューできたらと思います。

薮崎真哉氏(以下、薮崎):ガチでいきましょう(笑)。

玉乃:あらためて、会社に初めておうかがいして、正直「経営者になりたくないな」と思うくらい規模が大きく、こうなるまでに大変だったんだなと容易に想像できます。

ただこの規模感は、同じプロサッカー選手出身である僕の想像の範囲外なのですが、選手を引退して今あるのがイメージしていた姿なんですかね? 引退されたとき、今の姿は想像できましたか?

薮崎:僕は今37歳なので引退して13年になるのですが、24歳で戦力外通告を受けたときの社長像とは、もちろん年々変わっています。

まだまだ現状不満足ですけど、引退当時にこの姿を想像できていたかといえばまったくできなかったですよね。でも、それはそもそも社会のことを何も知らなかったわけですから。

「店長年収1000万」を目指してひたすら労働

玉乃:社会を知らないで、どうやってストーリーを描いていったのでしょうか。現役を引退されたときはノープランだったと聞いています。

薮崎:引退して1ヶ月後に「店長年収1000万」という求人広告を見て、銀座のダイニングレストランに就職を決めました。

千葉にある実家から、勤務先までは1時間の距離。自分でも良かったなと思うのは、あえて実家から通わず東京に出てきたことです。通おうと思えば通えますよ。

でも、それでは逃げ場があるなって思いました。「実家に帰るときは社会に負けたとき」。そう決めて、上京しました。親からは「公務員になりなさい」とかそういうふうに言われていましたから。

仕事は週1回休みがあるかないかで、毎日眠い中4~5ヶ月必死に働きました。始業前の掃除から始まり、何から何まで。要は店長(年収1000万)を目指していたので、本気で。

でもある日、店長の給与明細をたまたま見てしまったときに、月26万くらいでめちゃくちゃショックだったんですよ。

「え!」って。もう本当にショックだった。ずっと信じて無知で超真面目に、雑用も含め仕事をしまくっていて……。

サッカー選手でなくなったことの重み

それまでは一度始めたことをやめたことはなかったし、「ここでやめるの?」「それは逃げなのでは?」とかいろいろ葛藤があって、悩みぬいた挙句、「目標にしていた給料が現実とは違っていたので辞めさせてください」って言いました。

仕事を辞めた途端に、初めて自分がサッカー選手を辞めた、解雇された、自分に「サッカーがなくなったこと」の重みがわかったのです。

玉乃:社会の現実を突きつけられたわけですね。

薮崎:現役をクビって宣告されたときは「社長になってやる」という希望があったので「おら〜!」ってやってたのに、「結局半年後これかよ。J2のチームを探さなかったのも、トライアウトを受けなかったのも、結局カッコつけてただけだったんじゃないの、俺?」って。いろいろなことで自分を責めだしました。

かといって東京に一人暮らししているので、稼がないといけない。現実は宅急便の日雇いのバイトで夜19時から朝7時まで働いて。「死んだほうがいいのかなあ」とか思いながら……。この時期が一番辛かったかな。実家にも仕事を辞めたことは言えず。

玉乃:死んだほうがいい……。

薮崎:親には「社会は甘くないよ」と言われていたんですけれど、つまりそういうことなんだなって。何も知らずに社会に出て、「社長になってやる!」なんて言った自分に対して嫌になったのでしょうね。

「2年以内に独立」「年収1000万円」を目標に再スタート

玉乃:その後、企業に就職されましたよね? どういうルートで就職までこぎつけたのでしょうか? そこが今経営者になられた上でのターニングポイントになっているのではないかと思うのですが。

薮崎:本を読みました。松下幸之助の『道をひらく』とか(笑)。なにかにすがりたい気持ちで。

読んだ本の中の「企業でお金を稼ぐために、寝ずに!」などという成功者のエピソードからいろいろ学び、プライドもなにもかもを捨てて営業職をやって、それで独立しようと決めました。

当時はネットなんてなく、コンビニで売っている就職雑誌を買うお金もなかったので、立ち読みしながら「ここだ!」というところを3社決めて。

玉乃:就職した後、独立されたわけじゃないですか。業態は独立した会社に関連したような就職先だったのでしょうか。

薮崎:はい、そうです。結果的には同じ業態で独立したのですが、入社前はその会社が何をやっているのか知りませんでした。

ただ、大きな会社よりも小さな会社のほうが大変だろうけどいろいろ学べると思ったので、なるべく小さな会社を選んだという記憶はあります。

玉乃:なるほど。就職は、後に独立するため。あくまでも企業を勉強するための手段であって、とくにその企業が何をやっているのかということは調べずに、ここで営業としてトップになってやろうという思いで入社されたのですね。

薮崎:これが最後、何があっても最後。ここで負けたら実家帰る。「2年以内に独立」「年収は1000万円でスタート」というのをノートに書いて再スタートを切りました。

玉乃:なるほど。それってやっぱりセカンドキャリアを歩む上で何をするのかで悩まれていたところで、「独立したい」「年収1000万円になりたい」ということだけは明確だったわけですね。

ほとんどの人は、好きじゃないとその信念を貫けなくて、途中でやめてしまうっていうケースが多いと思うのですが、どちらかというと薮崎さんにとっては極端な話、(職種は)「何でもいい」というような思いだったのでしょうか?

薮崎:そうですね、はい。サッカーを辞めたときにいろいろな知らないことを自分なりに調べていくうちに、もう好きなことで仕事をするのは無理だなって、なんとなく感覚でありました。というか、そもそもプロになった瞬間、僕はサッカーを好きじゃなくなっちゃったんですね。仕事になった瞬間。

独立後の落とし穴

玉乃:なるほど。失礼ですが、何かコンプレックスがあるのですかね? 別に年収1000万じゃなくても大社長にならなくても、ある程度の就職をして安定を求めるという選択肢もありますよね?

薮崎:なかったですね。僕の父は20数年勤続している会社員で、母も保守的で。それに対する反発心からきているのかもしれませんね。

引退当時24歳で「過去にサッカー選手だったけれど、結果的には単なるプー太郎と一緒だ」っていう自覚があったので、同じ世代のJリーガーより、絶対に収入ぐらいは負けたくないという思いはありましたね。今はもうないですけれど。

玉乃:今はなぜなくなっちゃったのですか、もう神の領域に入っちゃったのですか?

薮崎:いえいえ(笑)。今はもう、誰かと比べるようなことはないですね。

玉乃:まだまだ続く壮絶なこれまでの経験のおかげなのでしょうか。初めての就職を経て、その後独立されて事業もうまくいっていたものの、最終的には遊びに走ってしまい、経営がうまくいかなくなった経験をされた、という記事を読みましたが。

薮崎:はい。再就職後、営業職で8ヶ月間勤務していたんですけれど、僕の人生でこの8ヶ月間ほど頑張ったことは過去にも今にもないです。それで独立したら、2ヶ月目ぐらいからけっこううまくいくわけですよ。

会社のお金ですが、1000万、数千万と口座に入ってきて、六本木で飲むようになり、初めてそれなりのお金を使えるようになって、調子乗っちゃったみたいな感じでした。まあ滅茶苦茶でした。

4畳半のオフィスでゼロからスタート

玉乃:それでその会社を閉じて、また復活劇を見せるわけじゃないですか。しかも業態も変わって。何がどうなったらそのような方向転換ができるのか。

よくラッキーとかご縁のおかげと表現される経営者さんも多いと思いますけれど、振り返って何が新たなターニングポイントになったのでしょうか?

薮崎:諦めが悪いんですよね。

営業マンを経て独立したっていう経験があったので、サッカー選手を引退したときよりは強くなっていましたから。

営業力はあったので何でも売れるだろうって思っていました。それでも、独立した当初は毎日飯食いながら泣いていましたけれどね。

茅場町の4畳半のレンタルオフィスで、またゼロから。そのときはとくに明確なプランがあったわけではないですが……。

玉乃:そんなのありですか(笑)。何がやるか決まってないなかで、オフィスまで構えて。もうやるしかないだろう的な。なんでもいいからっていう。

薮崎:なんでもいいっていうのはないですが、市場が下降気味だった前職の経験から、市場は大事だなって思っていて、当時はITか太陽光発電のどちらかだと。

玉乃:結果的にITを選ばれたわけですが、この事業でいけるなって思ったのは、再度起業してからどのくらい経ったあとでしょうか。

薮崎:2年経ってもこの事業でいけるなとは思わなかったですけれどね。はじめはSEO対策を知り合いの社長の所で2週間くらい勉強させてもらって、でもなかなか売れなくて。一生懸命やっているときに、たまたまネット風評被害対策の依頼がお客様からありました。

人前では「運が良かった」って言いますけれど、別に占いもやらないし、大安とかも信じないし、運も信じないですよ。

目の前のことで汗をかいた結果そうなっただけであって、結果出るなんてわかっていないですからね、やり始めは。これできたら成功できるなんてことは、何もないじゃないですか。どの世界も一緒ですけれど。どれだけ覚悟できるかが大事。それで、それから今は8年目、10月で丸8年ですね。社員も80人になりました。

「死ぬこと以外はリスクではない」

玉乃:自分がしてきたサッカーあるいは広くプロスポーツについて、経営者という視線で何か思いはありますか? プロのキャリアを終えた選手たちにメッセージを送るとすれば、何かありますか?

薮崎:今、生で観戦してもカッコイイなって思いますよね。外見的な要素よりも自分のすべてを犠牲にして努力しているわけですから、そこはやはりカッコイイなって。

僕は僕自身が基本アスリートだと思っています。スポーツ選手が日々自分を鍛錬しているのと、経営者はまったく一緒だと思っていますよ。

だから例えば夜遅くまでは飲んだりせず、なるべく早く寝ますし、睡眠時間もちゃんととって朝出社して、ファイティングポーズをとれるようにしています。

還元という意味では、現在あるプロチームのスポンサーを検討しています。あとは「死ぬこと以外はリスクではない」と(笑)。

僕もそうですが、解雇されて、とくに一流でなかった選手たちはプライドを一度捨てなければ絶対に上には行けないです。自分が元プロサッカー選手というのは社会では一切通じないです。

玉乃:「死ぬこと以外はリスクではない」ちょっとそこは使わせてください。考えさせられます。

最後に、社員や今就職活動をしているような新卒の方々、これからの国を背負って立つような若い方々へメッセージをいただけたらありがたいのですが。

薮崎:しっかりと自分自身と向き合ってほしいですよね。僕もそうなんですけれど、人間弱いじゃないですか。弱いんですよ。僕が一番苦しいのは、目の前のことから逃げることです。

一瞬楽だと思うのですけれど、逃げている自分のことを責めてしまうんですよね。めちゃめちゃ苦しいですよ、結局。

逆にどんなに辛いことでも、朝家を出る前にファイティングポーズをとって、真正面から挑んでいるときっていうのは、たとえ結果がどうなっても気持ちがいいんですよ。清々しいですよ。

一番は、素直であること。自分で自分の負けを認められるヤツは、強いと思います。社員には、「同窓会に胸張って行ける社会人になれ」って言っています。

30歳位になると同窓会に呼ばれるわけで、頑張っている自分に自信がなかったら行きたくないって思うじゃないですか。同窓会に胸張って行けるっていうのは、稼いでいるかどうかに関係なく、自分と向き合っているかどうかだと思います。

あとはどうなりたいっていうのは人それぞれですよね。収入ではなくて、どこに満足するかっていうのも、人それぞれ。稼ぐことだけがいいこととは思えない。僕は、まだまだ稼ぎたいですけれどね。

玉乃:本日は、しびれる対談、ありがとうございました。

【薮崎真哉(やぶさきしんや)プロフィール】 1978年千葉県生まれ。習志野高校在学中にインターハイでサッカー日本一を経験し、高校卒業と同時にJリーグ「柏レイソル」に入団、MFとして6年間在籍する。退団後は営業職に転身、トップセールスを経て起業。2008年にWebリスクコンディショニング事業を手掛ける株式会社ジールコミュニケーションズを設立。2013年には体育会系学生の採用コンサルティング事業を手掛ける株式会社ジールアスリートエージェンシーを設立し、2社の代表取締役を務める。