課題図書がつまらなくて読書嫌いに

司会:本日はお忙しいなか、藤原和博さんの『本を読む人だけが手にするもの』刊行記念イベントにお越し下さり、まことにありがとうございます。司会を努めますのは、この本の編集を担当した日本実業出版社編集部の川上です。

実はこの本、発売後2週間で2度の増刷をしました。これも読者の皆様のおかげです。ありがとうございます。

本日は藤原さんご自身に、本書の内容を中心にお話しいただこうと思います。それでは藤原さんよろしくお願いします。

藤原和博氏:はい、みなさん、よろしくお願いします。さて、まずこの本について解説しておきましょうか。ちょっとアンケートを取ります。この本をもう読んじゃったという方、手を挙げてください。

(聴衆約70人のうち、)10人くらいですね。

この本、アマゾンでは「読書法」のランキングで発売以来1位、総合ランキングでも100位以内に入っています(注:10月19日現在)。この八重洲ブックセンターでも、先ほどうかがいましたら、発売からコンスタントに売れているというので、本当にありがたいし、珍しいことだと思うんですね。

決してこの本はタレントが書いたわけでもないし、また地味じゃないですか、表紙が。

(会場笑)

僕は実は、デビューから10冊くらいまでは、装丁に全部自分の好みの画家の方にお願いしていました。たとえば、「ヒロヤマガタさんの絵画をどうしても使ってほしい」とか言ってたんですけど、それが大して効果がないことがわかりまして(笑)、今回はすべて編集者のセンスにまかせてみました。

それで制作の過程でいろいろやり取りしているときに、この表紙デザインをメールで見せてもらったりしてたんだけど、すごく地味なんで「大丈夫かな?」と思っていましたが、逆にそれがよかったのかもしれませんね。

この本を書いたきっかけ、特徴をお話ししたいと思います。

僕は今回、「本をもっと読みましょう」ということを書いているんですけど、実は僕自身は、基本的に読書家ではなかったんです。とくに10代20代のときなんて、ほとんど本を読まない子どもだったんです。

理由はこの本に書いていますが、小学校のときの課題図書が、僕にとってはあまりにも面白くなかったから。ルナールの『にんじん』とヘルマン・ヘッセの『車輪の下』だったんですが、なんでこんな暗い物語を読まなきゃいけないのかと。それ以来読書が嫌いになりました。

その前の、幼児のときは、母が当時流行っていた「世界文学全集」を片っ端から読み聞かせるというのをやってたんです。だから、はじめから本が嫌いだったわけではないと思うんですけど、とにかく嫌いになった。

そういうわけで中学時代、高校時代とほとんど読書をしなかったので、日本文学の名だたるところも全然読んでない。それで東京大学の現代国語の問題に挑戦するわけですが、ほんとに苦労しました。

正直に申し上げますと、当時やっていた「Z会」で出た問題で、けちょんけちょんに赤ペンでけなされた回がありまして、それが悔しくてその問題だけもう一度やったんですよ。そうしたらなんとその問題が出ちゃった。それが出なかったら受かってなかったでしょう。というくらい、現代国語については弱かった。

「純文学を読んでないと人間として欠落する」というある社長の言葉

そんな僕が本を読むようになるきっかけは2つくらいあるんですが、ビジネス書をちゃらちゃら読むくらいだった僕でも、リクルートではトップセールスになっていて、なんというのかな、思いつきで企画を出すというのはできてたんですね。

ところがあるとき、お世話になったプロダクションの社長と銀座で飲んでましたら、「藤原さん、純文学読んでる?」と言うわけですよ。

当時、純文学なんて意味もわからなかったんで、「それって誰のことですか?」って聞いたら、いまだったら宮本輝か連城三紀彦だと。連城三紀彦の『恋文』が芥川賞をとった前後だったと思います。もちろん知りませんから「読んでません」と。

そうしたらその社長が、こういうこと言うんですよ。「藤原さんね、ビジネス書だけを読むのもいいし企画を立てるにはそれでいいのかもしれないけど、純文学を読んでないと、人間として欠落するよ」って言われた。

そのときは全然意味がわかりませんでしたし、このやろうって思った。人間じゃないくらいのことを言われたわけですから。

それが悔しかったんで、その場はやり過ごしておいて、翌日、当時銀座にあった旭屋書店さんに行って、宮本輝さんの棚から偶然手に取ったのが『青が散る』でした。それと連城三紀彦さんは『恋文』を買った。読んでみたらすごく面白くて、それから純文学への旅が始まる、という感じでした。

もう1つのきっかけは、倉田学さんというリクルートの伝説の編集長がいて、『とらばーゆ』とか『フロム・エー』『ゼクシー』『じゃらん』など多くの創刊に関わった人ですが、その倉田さんがこういうこと言うわけです。

「藤原ねえ、本を読んでないやつとは俺話す気がしないわ」という失礼なことを(笑)。でも倉田さんという人のことを、僕はいつもすごいなあと感心して、尊敬してたんです。

なぜかっていうと、ぼくは営業マンとしては成果をあげていましたが、「世の中をどうとらえるか」とか、「世の中の流れはこうだ」とか、「いまの若い人たちの意識はこう変化している」とかっていうことを、まったく語れなかったんですね。そういうことを倉田さんを含めたリクルートの編集長たちは語ることができて、僕はひたすら尊敬していた。「なんでこの人たちには世の中のことがこんなに見えるのか?」と非常に不思議だった。

聞いてみると、そういう人たちはやっぱり読書をしていたんですね。編集長だからというよりは読書をしていたからじゃないかと思うんです。

読書家じゃなかったから読書の効能がわかる

そういうことが重なって、33歳のときにメディアファクトリー、いまはKADOKAWAグループに吸収されましたけど、この創業に携わったとき、作家や編集者の方と話すのに、とても本を読まないとできないということで、ようやく読むようになりました。

33歳から目標として年間100冊というのを決めまして、接待でどんなに酔っぱらっていても、銀座から永福町に帰るときに寝ないように座席に座らないで立って読んでました。朝の通勤ラッシュでも無理やり読む、というのもやった。

それがクセになって、3年くらいしたら定着してきて、今年ですと、いま(10月19日)もう170冊くらい読んでるという感じで、だんだん早くなりますね。いままで3,000冊ほど読んだでしょうか。

今日お集まりのみなさんの中には僕以上に、1万冊も2万冊も読んでる読書家の方がいらっしゃると思います。その方に読書法みたいなことをお話しするのは失礼なので、その気はありません。でも、本を読むことの効果については、そんな読書家の方よりは、もしかして僕のほうがわかっているんじゃないかとも思うんです。

つまり元々の読書家は「本を読むとどういいのか?」なんて、いまさら聞かれても、日常だから……みたいになっちゃうと思うんです。僕はそうではないから読書の効果がわかる。それを書いたのがこの本だということです。

担当編集者の企画コンセプトもよかった。「もう読書法とか速読の本なんかいっぱい出てるんで、藤原さんは教育をやった人でもあるから、本を読むとなぜいいのか、という本にしませんか」と。

それは親が子どもに聞かれてもほんとに答えづらいことで、たぶん国語の先生でもなかなか答えられないんじゃないかと。「これに答える本がないからそういう本をつくりましょう」と。これがよかったんじゃないかと思います。

本を読む人だけが手にするもの

これからは「情報編集力」がカギになる

さて、この本にも書いてますが、僕がこうした講演で、必ずお話しすることがあります。それは、これからの時代は「情報編集力」が非常に大事になるということなんです。

日本の高度経済成長時代は1997年に終わりました。山一証券、北海道拓殖銀行が倒産して、バブルが崩壊した。翌98年から成熟社会に入ったわけです。経済的にいうと、1人あたりのGDPがこの年からグッと下がっています。藻谷浩介さんの本を読むまでもなく、それを示すデータはたくさんあります。

成長社会において求められたのは「情報処理力」でした。情報処理力というのは、正解があるという前提で、その正解を早く当てる力のことです。だから日本の学校教育は、情報処理力偏重、あるいは「正解主義」とも呼べるものでした。いままではこの能力が高い人がサラリーマンとしても教員としても成功してきたわけです。

ところが成熟社会に入ると、みなさんなんとなくお気づきのように、社会が複雑化して正解がひとつじゃなくなってくる。

いまみなさんが直面してらっしゃる課題もそうでしょうし、学校でもいじめの問題ひとつ取ったって正解がひとつなんてことない。ぼくは2020年代後半ぐらいからは、ほとんど正解がないような時代になると思ってます。

このような時代は、正解を当てる力よりも、いろいろな状況のなかで人と知恵を交流させながら、自分が納得し、かつ、関わる他者が納得できる解、正解じゃなく「納得解」と呼んでいますが、この「納得解」をたくさん紡ぐ力が必要になってきます。これが「情報編集力」です。

なんで「編集力」と呼ぶかというと、自分の知識、技術、経験を全部組み合わせなきゃならないからです。そのうえで、他人の知識とか経験もできたら手繰り寄せて、脳をつなげて、自分の脳を拡張して、問題を解決しなければならないからです。

その「情報編集力」をつけるには、読書がとても有効なんです。いまからその話をしましょう。

人生で体験することは四象限に分けられる

人生というのがどういう「象限」でできているのかを考えます。

これはマッキンゼーなんかがよくやる方法ですけど、ツー・バイ・ツー・マトリクスといって、ビジネスの分析ではほとんどこれが使われます。これを使って人生の体験を二軸で分けてみるとこうなります。

このマトリクスで右と左を分けるのは、ナマの実体験か、メディアを通じた体験かということです。それから上と下は、個人的な体験か、あるいは社会的・集団的な体験かで分けられる。このように、人生の体験は4つの象限に分けることができます。

「個人的でナマの体験」というのは、いままさに、みなさんがしていることですよね。わざわざ八重洲ブックセンターに来て僕と直接ふれあっている。これ、本を読んだだけの人とはまるで違いますね。それがここ(右上の象限)。

それで、「個人的で集団的な体験」は、みなさんが家族とか会社で体験するもの、要するに組織のなかとか、集団の一員として実際に体験するものがありますよね。それがここ(右下)です。

左下の象限が「メディアを通じた集団的体験」です。マスコミやテレビに接していればコマーシャルも見るし、ニュース番組を見ればコメンテーターの意見を聴く。そんなマスメディアを通じた体験がこれです。

最後になりましたが、左上がメディアを通じた個人的体験。これが読書とネットによる体験ですね。

「メディア的・集団的体験」が多い人は、自分の人生を生きていない

人生には何時間あるか考えてみます。人間が起きている時間が1日16時間くらいだとすると、365日で大体6,000時間ですね。仮にどんな人も、あと50年生きるとすると、30万時間あるということになります。この時間のなかでさっきの四象限のうちのどれかの体験をする。

何が一番大事かというといわずもがなで、「個人的なナマの体験」をどれだけするかということ。これが一番大事。逆に一番危険なのが、集団的なメディア体験というものにまみれちゃうことです。

放っておくとまみれがちなんですよ。たとえばテレビのコメンテーターが言ってることを自分の意見のように考えてしまう。コマーシャルが伝えるままに買い物してしまったりする。マスメディアに自分が支配されてしまうんです。

人生でこの時間が多すぎると、自分自身の人生を生きていない、ということになる。

そうはいったって、限られた時間のなかで「個人的なナマの体験」をそんなにたくさんはできない。ですから、それを補完するものとして、読書を通じて人が体験したものを疑似的に体験する。そしてそれを自分の脳にどれくらいインプットできるか、というのが勝負になるわけです。

実体験が一番大事ですが、その次に大事なのが、人が体験したものを読書によって疑似体験するということなんですね。

たとえば、塩野七生さんの『ローマ人の物語』を読めば、塩野さんが何年、何十年かけて蓄積したイタリアでの経験のなかで研究したもの、何千万円何億円、何時間も投資したことが、1冊の本で知ることができる、追体験することができるわけじゃないですか。そういう体験が大事だという話。

それをしないで、メディア的で集団的な体験が大きくなっちゃうと、自分で考えているつもりでも、実は全然自分で考えない人になっちゃう。それはとてもまずいことだと思うんで、この図で伝えたかったわけです。

著者の「脳のかけら」を自分の脳につなげよう

この本に書いたことでもうひとつ、これもあまりいわれていないことですけど、僕は、読書することというのは、他者の「脳のかけら」を自分の脳にカチャッとはめるということだと思っているんです。

茂木健一郎さんの脳科学の本を読んだときに、あの天才の茂木さんが時間をかけて研究したことを数時間読むことによって、茂木さんの脳のかけら、全部じゃないですよ、かけらがカチャっとはまる。

そうやって「林真理子脳」とか「村上龍脳」とかがはまってくると、自分の脳を拡張できるということだと思います。だから読書するというのは書いた人の脳のかけらを盗む、というかお借りしてカチャッとはめる、こういうことなんだと考えることができる。

本を読むと何がいいのか、ということについて、以上のように僕は考えています。読書はやはり重要なんですよ。それも分野を決めずに乱読することをお勧めします。

「情報編集力」というのはつなげる力ですから。ビジネスマンであっても純文学や自然科学分野も含めて、読みやすそうなものから乱読すると、いずれ自分の脳が拡張していることを実感できると思います。

本を読む人だけが手にするもの